12.親の思い、子の思い

 この日、後宮はにわかにざわついていた。
「どうしましたか?」
 薄紫色のショールを肩かけて、澄んだ紅茶のようなさらさらとした長い髪を夜風に遊ばせながら窓辺で読書をしていた第五王妃。この国の第三子の母でもあるフィルフェイリアは控えている侍女に問うた。
「奥様っ、お召し替えを……」
 彼女が答える前にあわただしく別の侍女が入ってきた。が、それもすでに時が遅いというものであった。松明が短い間隔で赤い絨毯の引かれた廊下を照らしている。その道を共も連れずに歩いてきた人物がいた。この道を自由に闊歩することが許されているのは、この国においてただ一人である。
「そんなことをせずともよいだろう。二人とも、下がっていい」
 姿を現したのは、現在この国を統べる王であり、三兄弟の父であるグラファイスだった。王としての格好ではなく、身にまとっているものは夜着であるがそれでも、その服だけで市民の半月以上の生活費を賄えるだろうと思える上等なものだった。侍女が礼をして脱兎のように部屋を出て行くと、部屋には彼とフィルフェイリアだけが残ることになる。
「……陛下、どうなさいましたか?」
「なぜ?」
 フィルフェイリアが椅子から立ち上がって、彼の元へと歩み寄る。
「……この頃政務がお忙しくていらっしゃるようで、訪ねて下さらなかったので驚いてしまいましたの。それに、新しいお妃が増えるのではないかと、侍女たちは噂をしておりましたわ」
 悪戯っぽく彼女が言うと、彼は苦笑する。
「私はそれほどお前を無碍にしていたのか、以後態度を改めよう」
 グラファイスは近づいてきた彼女の腰に手を回し、部屋の中央に設置されている長椅子へと移動した。革張りのそれに二人で腰をかけると、フィルフェイリアは彼にそっとしな垂れかかる。久しぶりに感じる愛しい人のぬくもりをより多く感じるために。彼女は今年、三十六になるというのにその美しさはまだまだ健在であった。最も、ウルフェナイトの母である第一王妃はとうに四十を過ぎているというのにフィルフェイリアと変わらない美貌を誇っている。
 また、スフェーンの母である第二王妃も同じような状態になっている。しかし、スフェーンの母は現在病どこに伏しているため、その儚げな美貌を彼女は最近見かけてさえいなかった。
「今日は、どうされましたか陛下」
「……なぜ?」
 二度目の問いにも、彼女は悪戯っぽく答える。
「何かご相談されたいことがある時には、大抵陛下はわたくしの所へいらして下さいます。メルディーア様の元へでもなく、ベアリル様の元へでもなく」
 彼女はにっこりと微笑んで見せた。元々、この城で侍女をしていたフェルフェイリアと王の接点もそこから始まったと言っても過言ではない。ある日、王が何気なく城の庭、というには広大すぎる敷地を歩いている時に花の世話をする彼女と出会ったのだ。専門の庭師がいるとはいえ、この広大な庭を管理するのは手間がかかりすぎる。故に、彼女は時折花に水をやったり、雑草を抜いたりていたのだ。
 泥にまみれる彼女を見て、気がつけば彼は彼女に近づいていた。そして気がついたときには、彼女を自分のそばに置きたいと切望していたのだ。しかし、貴族でもない平民の娘を後宮に入れるなど、臣下たちがいい顔をする理由もなかった。すでに後宮に入っている貴族の娘たちもそれは同じだった。それでも、お互いが困惑するほどに魅かれあってしまったのはなぜだろうか。二人には、少なくともフィルフェイリアにはそれは理解できなかったが、感情を隠すことが出来なかった。
「どんなに辛いことがあっても、陛下のお心さえあれば、私は堪えられます」
 この言葉が、彼を結婚への決心をさせたのだ。彼女に似た面差しの少女を、手に入れることが出来たのだった。そのことさえ、彼女は承知でこの場所に身を投じ、周囲の避難に堪えて第三王子というフェナサイトを生んだのだ。恐らくは、政とは無縁の世界で生涯を終えると思っていた息子がよもや夢にも思っていなかっただろう。
「……嘘、で、ございましょう?」
「いや、本当だ」
「……あの子が、次の、この国の王?」
「ああ」
 彼は肯定の言葉しか発さない。今度は、彼女が少しだけ沈黙したあとに言葉を紡ぐ。
「誰がお決めになったのですか?」
「この世界だ」
「……」
 思わずフィルフェイリアは続く言葉を失ってしまった。よもやこの場面で、そんな言葉を言うとは夢にも思わなかったからである。彼女は眉間ににわかに皺を寄せて唇を動かした。
「陛下は、お伽噺を信じておられるのですか?」
「そのお伽噺で私は王になった」
 あまりにもはっきりとした言葉に、また彼女は言葉を失った。しかしこの場合、彼女に罪はないだろう。
「私の言葉が、信じられんかイリア」
「いえ、陛下のお言葉ですもの、信じられますわ。ええ、信じます」
 それはまるでフィルフェイリアが自分自身に言い聞かせているような言葉であった。それに気付いているが、グラファイスは触れない。触れれば壊れてしまうような危うさがあることを、二人は気付いている。だからこそ触れることをしないのである。好きだという思いだけではどうにもならないことが、この世の中には確かにあるのだ。
「あの子が、次の世の王になる器とは母のわたくしも思っておりませんでした」
「……それが世界の意志であるならば。我々には分からない何かがフェナサイトにはあるのだろう」
 この言葉に対して、フィルフェリアが言葉を紡ごうとしたがそれは王によって阻まれてしまった。彼の唇が、彼女の唇を塞いだ。
「んっ……」
 ずるい、と彼女は内心思った。こんなことをされては、批判も何も言うことが出来なくなる、と。唇は一度離れた。そして、二人はお互いの双眸にお互いの姿を映し、一拍の間のあと微笑みあった。
「まだ片付かない仕事が残っています?」
「いや、もういい」
 逃げ場を残さないようにそう聞くのは、フィルフェイリアが彼に対する精一杯の独占欲である。それを察したグラファイスはフッと口元を緩め、再び彼女に口付けた。しばらくその場で戯れた後、彼は彼女を横抱きにして寝台へと向かったのだった。


「ディア」
「どうした、フェイ」
 夜着に着替えたフェナサイトは、枕もとの照明だけを残して既に簡素な寝台の中にいた。簡素と言っても、ウルフェナイトの寝台と比べれば、の話である。彼の寝台は天蓋がついているあげく、精緻な彫刻が施されており、無意味な装飾がされている。寝台など要は寝やすければいいのだと思っているフェナサイトには考えられない愚行と言っても過言ではないものであるが。フェナサイトの寝台も寝やすさを追求したものであるのだから、こだわる方向性が違うだけで二人は案外似ているということを彼らはお互い自覚していなかった。
 その薄暗いフェナサイトの部屋には、彼以外の人物がいた。寝台の横に椅子を置き、剣を抱えたまま座っている。闇に解けることなくその漆黒の髪の黒さを主張し、白磁の肌が浮かぶ美女を見て、彼はため息を付く。
「君がそこにいたら眠れない」
「灯りは消してくれて構わない。私は居ないものとして考えてくれればいい」
「そういうわけにはいかないだろう」
 今日は一日、あまりにも色々なことがあってフェナサイトは疲労困憊していた。身体は明らかに睡眠を欲していた。しかし、若い男女が一晩同じ部屋で過ごすことにはどうにも抵抗があった。頭を振ると、暗闇に照らされて濃さを増した髪が揺れる。
「ディア」
「何だ?」
「王城は何もない」
「そうとは限らない」
 きっぱりと言い切るオブシディアをどかすことは不可能にさえ思えて、眠さとも眩暈とも取れない感覚に襲われたフェナサイトはとうとう枕に頭を乗せた。
「早く休むといい。今日は色々あって疲れただろう?」
 ぼやけるような灯りに照らされたオブシディアの表情は、柔かく慈愛に満ちているものだった。今日の疲労のすべての原因だということを理解しながら、その笑みを心地よく彼は思っていた。
「ディアは?」
「ここにいる。目を瞑っていれば、疲労は取れるんだ。でも耳も頭も起きているから不届き物が入ってきたらすぐに分かるよ」
 その技術もすべて、フェナサイトのために磨いた力である。これを、彼女は誇りに思っているのだ。それが痛いほど伝わってきて、その重さに彼は押しつぶされそうになる。
「……それじゃあ休んだ内にならないだろう?」
「フェイがそばにいれば、それが私の安らぎになる。疲れなんて、感じない」
 それは熱烈な告白とも取れる言葉だった。その言葉を重く、心地よく感じながら彼の意識は徐々に遠のいていく。
「……それでも、やっぱり、部屋に行ったほうがいいよ、ディア」
「強いて理由を挙げさせてもらえれば、この部屋と用意してもらった部屋は遠い。何かが起きた時に駆けつくのが遅かったらどうする?」
「じゃあ……明日にでも、オレの部屋の隣に部屋を用意させるよ。そうしたら、君もゆっくりやすめるだろう?」
「……部屋を隣にしてもらえるのはあり難いな。頼めるか?」
「ああ、わかった……」
 彼の語尾は徐々に小さくなっていった。意識はもう半ば夢の中なのだろう。オブシディアは穏やかな笑みを浮かべたまま、そっと彼の髪に手を伸ばした。そして、ゆっくりと彼の髪を撫でると、程なく彼から安らかな寝息が聞こえてきたのだった。それを見た彼女は、安堵の笑みを深める。
「フェイ、大丈夫だよ。私が、何があっても守りきるから」
 さらさらとしか髪に触れながら彼女は闇の中一人で呟いた。
「それに、部屋を共にしても、何の間違いも起こらない。……起こせる訳がないんだ。だから何も心配するな」
 しかしその笑みは、少しだけ辛そうに人が見たら見えていたかもしれない。手を伸ばしても決して届かない物に恋焦がれるような瞳を彼女は彼に向けていたのだ。静寂の空気の中、彼女はフェナサイトの髪から名残惜しそうに手をどかし、枕元の蝋燭を吹き消した。
「おやすみ、私の愛しい人。世界の息吹に包まれて、安らかな眠りを」


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