18.剣と盾は主の為に3

 夜更けごろの城内は、どこか不気味な雰囲気がある。町の喧騒も聞こえず、第一にまず明かりがない。生い茂る緑も、日の光の下では輝かんばかりの色彩を放っているが、夜ともなれば沈黙する。
 わずかに揺れる蝋燭の光が、風に吹かれゆらゆらと揺れる影が石畳に映し出される。不気味で、幻想的な夜を照らし出す満月の下に一人の人間が現れた。闇夜に溶けそうな紺色の夜着を身にまとった人物は、他でもないオブシディアだった。長袖で、足元まで長さのある夜着は彼女が動くたびに柔らかく揺れた。
 昼間にフェナサイトの腹心であるグレーナが何者かに襲われ、重傷を負った。目撃者の話によれば、麻色の外套を目深に被った身のこなしの軽い人間だったという。麻色の外套、それは彼女がこの城に初めて足を踏み入れた時に身につけていたものである。今も、オブシディアにとあてがわれた部屋にそれは置いてある。
 彼女が出かけるときはいつも身に着けるそれを覚えていた目撃者である、城内警護兵は真っ先に彼女を疑った。当然、潔白の身である彼女はそれを否定するが『リード一族』の名は恐怖の代名詞であるかのように、彼らは信じようとはしなかった。彼女はそれでも全く気にしなかったのだが、彼女をウルフェナイトが弁明したのである。
 確かに、グレーナが襲われていると思われる時間帯に、彼女は彼の元を訪れていた。それに、ウルフェナイトの元へ状況を報告しにいった、クラウスもその状況をも置く激しており、その場でオブシディアの無罪は証明された。
 オブシディアはため息をついた。そして、手を満月へ伸ばすように掲げた。伸ばした腕には何重にも布が重ねてられていて、布の端が風に揺られている。そこに降り立ったのは、一羽の鷹である。手に鷹を止まらせたオブシディアは、鷹と目線を合わせるために下に下げた。
「昼間は騒ぎがあった。こんな時間まで待たせてすまなかったな」
 そういいながら、彼女は鷹のくちばしに唇を寄せた。労いの言葉を理解しているかのように、鷹は翼を一度広げてみせる。その姿を浅く笑って見つめた彼女は言葉をつむぐ。
「みんな、変わりはないか?」
 オブシディアがそう問いかけると、鷹は鳴いた。その声に、彼女の表情が綻ぶ。
「そうか、変わりないか。それは良かった。久しくみんなに会っていないから、少しさびしい」
 彼女がそういうと、鷹は不満そうな声を上げ、首をかしげる。その姿に彼女は声を出して笑った。
「本気にするな、私の役目はまだ終わっていないのに帰れるわけがないだろう。最も、さびしいという気持ちは本当だがな」
 鷹は己の身を摺り寄せるように、顔でオブシディアの頬に触れた。鳥のぬくもりを頬で感じ、彼女はもう片方の手で頭を撫でる。
「いや、大丈夫だ。ありがとう。……グレーナのことは私の失態だ。ここでお前が見聞きしたことを、母上や姉上たちに全て伝えてくれ。その上で何かお言葉があればまた届けてくれ。いつもすまないな」
 彼女は鷹を空に飛ばす為に、下げていた手を勢い良く振り上げた。その勢いに乗って鷹は宙を舞い、彼女の頭上をニ、三度旋回すると飛んでいった。その羽音は闇夜によく響き、鷹の姿が見えなくなるまで彼女はその姿を見つめ目を細めていた。
 あの鷹からは故郷である東の森の香りがしたのだ。それを懐かしく思うが、恋しいとまでは思わない。今の生活に不満はなく、むしろ満たされているという思いで溢れている。脳裏には、フェナサイトの優しく、柔らかな笑みが浮かんでいる。彼がいれば、自分は決して揺らがない。その確信が彼女にはあった。
「珍しい生き物を飼っているんだな、お前は」
 突然、彼女の背後から声が響いた。低すぎない甘い声、それは数多の女性が淡い吐息を吐き出すに違いない美声だった。
「この城の中で、鷹なぞ見たこともない」
「あれは、私と母たちとを結ぶ役目を果たすものです」
 鷹と会話をしている途中から、背後に彼の気配を感じていた。誰かがいることは知っていた為、動揺はない。聞かれて困ることでもなく、彼のことなど気に留めず、彼女は鷹が留まるために巻いた布をゆっくりと外していく。その間も二人は会話を続けていた。
「ほぉ、鳥は夜目が利かぬというが、あれは特別か?」
「いいえ、おそらくはどこかで一晩明かすでしょう」
 淡々と、二人は会話をしていた。オブシディアは振り返らず、声の主であるウルフェナイトも決して彼女に近づこうとしなかった。彼が立っているのは、彼女から五歩ほど離れた廊下の端。触れようと思えば、すぐに触れられるような場所だった。
「このような時分に、どうかされましたか?」
 オブシディアは静かに問う。
「別に。自分の家のどこをうろついていても構わないだろう。それとも、見られたらまずいことでもあったのか?」
 くつ、と笑った声が彼女の耳まで届くが、彼女は動じない。
「いえ、問題はありません。昼は心地よい気候とはいえ、夜は冷えます。あまりお体を冷やされないほうがよろしいのでは?」
 オブシディアは空を見ていた視線を地上に戻し、ウルフェナイトのほうへと向いた。しかしそれは彼の目を見て話す為ではなく、彼女へとあてがわれた部屋へと戻る為である。彼女はまるで目の前にウルフェナイトがいることを気にせず、石畳の廊下に踵の旋律を響かせる。
「お風邪を召される前に、お部屋にお戻りくださいませ。失礼いたします」
 そういって、彼の前を通り過ぎようとした瞬間、ウルフェナイトは彼女の細く白い手首をつかんだ。当然、オブシディアの動きは止まる。紫紺色の、上下が分かれている夜着の上に、足元まで隠れるような純白の風避け用の外套を着たウルフェナイトが彼女の視界に入る。
 彼女の漆黒の瞳と、彼の紫水晶の瞳が交錯し、わずかな沈黙の間に奏でられた木々の旋律は、まるで誰かのこころのざわめきのようだった。
 ウルフェナイトは言う。
「オレの物になれ、オブシディア」
「……」
 その言葉に、彼女は拒絶を沈黙に乗せて返した。
 オブシディアは顔色一つ変えずに、じっと彼を見つめた。曇りもなく、偽りも語らない彼女の瞳は総てを映す鏡だといっても過言ではない。その双眸に己を映し出したウルフェナイトは言葉を続ける。
「どうしてフェイなんだ? 奴よりオレのほうが優れていることは間違いないだろう? それなのに、なぜお前はあいつを王へと誘う?」
 彼の言葉に、彼女は沈黙で返した。表情ひとつ動かさず、ただ黙して彼のつむぐ言葉を待つ。ウルフェナイトは真剣な表情だった。いつも余裕の笑みを表情に浮かべ、強くある男がいま、まるで何かに縋りつくように答えを求めて彼女に問いかける。
 沈黙が降り注いだ。その間、決して二人は目を離さなかった。息が詰まるような沈黙のあと、彼女は小さく息をついた。そして彼に告げる。
「私は、今日の昼間に貴方にその理由を告げました」
「……“それがわからないから、貴方は王になれないのです”だろう。覚えている」
「それが真実です」
 彼女の声には、聞き分けのない子どもに対して何かを説得するような感情が含まれていた。ウルフェナイトは舌打ちをするのをこらえ、そのまま力のままに彼女の腕を引き、彼女を己の腕の中に閉じ込めた。
 オブシディアは特に抵抗もせず、自分の視界に入るウルフェナイトの長い金色の髪と、紫紺色の夜着を捕らえ、ぬくもりを感じていた。背と腰を力強く彼女を抱きしめたウルフェナイトは彼女の耳にそっと口を寄せて、言葉を乗せる。
「オレの物になれ、オブシディア」
「仮に私が貴方のものになったとしても、真実は決して揺らぎません」
「それならそれでもいい」
 ウルフェナイトがそうはっきりいうと、オブシディアは顔を上げた。身長の関係から見下されるような状態になっている彼女は、月の光を浴びて淡く輝く彼を見据える。
「王位はいずれオレが獲る。万が一にも、フェイやスフェーンが得ることはないだろう。だが、お前はオレのものにはなるまい?」
 彼女は、彼の意図するところがすぐに分かった。
「ええ、仮に貴方がこの国の次期王となられたとしても、私の唯一無二の方はこの世にただ一人、フェナサイト殿下だけ。私の髪一筋、爪のひとかけら、総てあの方の物です。あの方が望めば、私は自らの手で己の心臓を抉り出しましょう、あの方が望めば伽役もいくらでも務めましょう。あの方が望むことならば、総て」
 決してオブシディアは臆することなく、言葉の旋律をつむぎ上げた。フェナサイト以外の男に抱かれている今でもなお、心にいる人物は、フェナサイトだけだった。ウルフェナイトは浅く笑う。それが嘲笑か自嘲かわからないが、彼は浅く笑った。
「ではオブシディア。オレがあのラウルの者の情報をくれてやる、と言ったらお前はどうする?」
 彼女は彼の腕の中でぴくりと反応した。それに彼は喉で笑ってみせた。
「オレは城内の警護を任されている。この城の総てを掌握している。わかるか、その意味が。誰が、どこで、何をしているのか、オレの頭には総て入っているんだ」
 当然、あのラウルの女のことも。彼は言外にそう言った。
「お前、把握しきれていないだろう、あの女の動向を」
 それは彼女にとって図星だった。思わず体をこわばらせてしまったのは、彼女の失敗だっただろう。確かに、広い城内でオブシディアの行動可能範囲は狭い、と言っても過言ではない。世界は彼らの存在を悲しみ悼み、動植物は彼らを恐れる。故に、オブシディアの元まで情報が届きにくいのだ。
「……本当に、殿下は把握しておられるのですか?」
「嘘を言って、どうなることでもないだろう?」
 それが真実であるならば、それは彼女としては喉から手が出るほど欲しい情報である。フェナサイトの身を守るために、不可欠なものである。
 彼女はわずかに沈黙したあと、ウルフェナイトの胸板を押した。
「どうした?」
「殿下、離してください」
 彼は彼女の言葉に従い、ゆっくりと彼女を放す。先ほどまであった甘美なぬくもりが冷えていく感覚をさびしく思いながら、ニ、三歩後ろにさがった彼女を見やる。
「どうする?」
 彼は口元で三日月のような笑みを形作りながら、彼女を見つめる。すると、彼女は片手を真横に上げた。窓から入る月明かりを全身で受けながら、彼女は告げる。
「貴方の夜伽をすれば、ラウルの情報を頂けると?」
「……出来るのか?」
 嘲笑うように彼がそういうと、オブシディアはゆっくりと己の服の止め具をはずし始めた。釦を外す音が聞こえてくるほど静まり返った場所で、ウルフェナイトの耳に届くのは己の心音だけだった。
 全体がひとつに繋がって出来ている夜着は、釦を外すと重力にしたがってするりと地面に広がる。灰色の石畳に、紺色の残骸が広がり、彼女の肢体が露になる。
 月光に照らされ、まるで淡く光っているような処女雪のような白い肌に、漆黒の髪が栄える。なだらかな胸の曲線は、彼女の浅い呼吸と共にゆっくり上下していた。足首辺りには、脱いだ夜着が覆いかぶさっている物の、彼女の肢体を隠す物は何もない。
 ウルフェナイトは喉を鳴らす。その様子に、オブシディアは圧倒的な笑みで答えた。
「まさか、女人の裸体を見るのは初めてではありますまい」
 彼女は続ける。
「私の体ひとつで、次期の身の安全性が増すのなら、私は喜んで貴方にこの身を差し出しましょう」
 凛とした声が、彼の心を突き刺し、真っ直ぐ過ぎる視線が、彼の目を射抜いた。
「私の髪一筋、私の血の一滴、総ては次期王であるフェナサイト様のもの。それに触れる覚悟が貴方におありなら、私は貴方に身を差し出しましょう」
 真っ直ぐすぎる視線を受け止め続けることが出来ず、ウルフェナイトはふと視線を外した。名工が削りだした彫刻に勝るとも劣らない美しい姿を晒すオブシディアに再び視線を向けて、彼は疑問を口にする。
「お前は、何故そこまであいつを守ろうとする?」
「あの方が、私にとって総てだからです」
 この思いを、何と名をつけていいのかオブシディアも分からなかった。これほどの思いを、恋や愛という単語で片付けるには軽すぎると彼女は思っていた。冷たい夜風が二人の間を吹きぬける。素肌を晒しているオブシディアは震えもせずに、ただウルフェナイトの次の言葉を待った。
 彼は己の前髪をかきあげ、ため息をついた。そして自らが羽織っていた純白の風除けの外套をオブシディアに投げつける。
「着ていろ、風邪を引く」
 投げつけられた外套の意味がわからず、オブシディアが小首を傾げると、彼は苛立だしげに、腕を伸ばし無理やり彼女にそれを着せる。彼女は抵抗もせずに、彼のされるがままになっていた。
「殿下?」
「興が殺がれた。お前でなくとも、女は抱ける」
「……ですが」
「ラウルの情報はくれてやる。それでいいだろう?」
 再び盛大にため息をついたウルフェナイトは怒りを隠さずにそう言葉を投げつけた。先ほどよりも近くで、彼女を見つめる。見上げる彼女の視線には、何の感情も含まれていない。冷たい鏡のようだった。拒絶もせず、だからといって、受け入れもしない。それは人に対する厳しさでもあり、優しさでもあるように彼は感じていた。
 まるで彼女は、美しい水晶のようだった。傷ひとつなく、フェナサイトという太陽を浴びれば、虹色にも輝く存在である、と。そんな彼女に対して、ひとつ彼は戯言を問いたくなり、再び口を開いた。
「では、ひとつ聞いてもいいか?」
「どうぞ?」
 足元に丸まっていた己の夜着を拾いながら、オブシディアは頷いた。
「世界とフェイ。天秤にかけざるを得ない状況になったとき、お前はどちらを選ぶ?」
 その問い、彼女は硬直する。しかし、ウルフェナイトは直ぐに浅く笑って言う。
「……世界、とお前は選ぶのだろうな。こんな夜更けにすまなかったな、悪戯が過ぎたようだ。下がって、ゆっくり休め」
「……は、い」
 彼女は搾り出すかのように返事をし、そのまま緩慢にさえ感じる動きでと、部屋向かって歩き出した。ゆっくりと、石畳を彼女が歩いていく旋律が刻まれる。そんな中、彼女は己の口元を押さえ、愕然とした。
 何故、自分が直ぐに『世界』と答えられなかったのか、と。フェナサイトに尽くすことは、『世界』の意思である。つまり、『世界』と『フェナサイト』とを天秤に乗せた場合、優先すべきは根幹たる『世界』。それなのにもかかわらず、彼女の脳裏に最初に浮かんだ名は世界ではなかったのだ。
 硬質な水晶に、波紋が打たれた。

 オブシディアはがむしゃらに走っていた。気づけば、そこは屋上で自分の部屋の階などとうに過ぎていた。乱れた呼吸を整えようとしても、なかなか上手くいかない。
 荒い呼吸を繰り返しながら、先ほどいた場所よりも空に近づいたその場所に立った彼女は淡い銀色の満月に照らされ、表情をゆがめる。
「……っ!」
 彼女は両手で顔をかきむしるように多い、そのままずるずるとしゃがみこんだ。ウルフェナイトに着させられた純白のローブが汚れることもいとわずに、煉瓦で造られた壁に背を押し付ける。
 それはまるで熱されてしまった体を冷やすような行為だった。
 ウルフェナイトに体を見られたから、このように鼓動が早鐘のように鳴り響くのではない。彼に指摘された言葉が、彼女の体を蝕んでいるのだ。
『世界』と『フェナサイト』を天秤にかけ、どちらを選ぶか。分かりきってる答えに、即答できなかった自分への不甲斐なさ。そして、自覚してしまった己の気持ちに彼女は息が詰まる。
 決して抱いてはいけない感情を、抱いてしまったことへの後悔と、誰に向けようとも向けられない懺悔が脳裏を駆け巡る。顔を覆っていた手が、いつの間にか彼女自身の指を握る。硬く、強く握り締めた手は冷たく、見やれば白い。
「私は……」
 世界の代弁者であるリード一族の次期族長。世界の「奇跡」の力を操る一族の頂点に立つものであり、次の世代へこの任を受け継がせなければならない役目もある。
 彼が玉座に着いたとき、彼女は森に帰らなければならない。それは世界の、いや、リード一族の定めた絶対の掟である。それをわかって、覚悟して、今この中央大陸にいるというのにも関わらず、と彼女は自分を恥じる。
 天を仰ぎながら、彼女は呟く。
「私は、リード一族のオブシディア・ズニリア」
 それは春にしては寒い夜空に響く。
「世界の代弁者であり、先導者である者」
 彼女の声は、誰にも届くことはない。
「決して、掟を見失わない」
 言葉にすると、それがまるで体に染み渡るように沈んでいく。平静を、保とうと彼女は努めたが、体の熱は冷めない。それなのに、指先だけは冷たい。
 絹のローブの柔らかさと、赤い煉瓦の冷たさを体に受けながら、彼女は一筋の涙をこぼした。だがそれを見つめた者は誰もいない。

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