10.残りの菊は嗤う

「あの時、私たちは結果として、二人の姫を見捨てた。あのときの悔しさは、なかったわ」
 鬼の繰り出した鋭い爪は、乙冬に触れる直前まるで硝子が砕けたように霧散した。静かに言葉を紡いだのは光姫である。彼女が薄絹を幾重にも重ねた袖をはためかせながら、少女の前でその爪を受け止めたのだ。
 悪意で形成されたそれは、清廉な光の前には無に帰す。
「光姫」
「何度謝っても、私たちの罪を雪ぐことは出来ない。それはわかっているの。それでも謝らせて、藤姫、絢姫。ごめんなさい」
 あの時、助けられなくて。
 彼女は言外にそう告げる。光姫の力に本能的な恐怖を感じた凛は咄嗟に間合いを取る。
「絢! 大丈夫!?」
「う、うん。大丈夫」
 凛が間合いを取った為、難なく彼女の元へ駆けつけた勇瑠は悲しげな笑みを見つめる光姫を見上げ、言った。
「ありがとう、光姫」
 その言葉に、彼女は可憐な笑みを浮かべた。
「今は、もう私たちに制約はない」
「……あの時は、仕方なかったんだよ。私だって、絢と光姫、闇貴を天秤にかけたら、絢を取るもん。気にしないで」
「藤姫、記憶が……っ」
 光姫は息を飲んだ。勇瑠と乙冬はきゅっと手を繋ぎ、微笑んだ。
「うん、何でか知らないけど。魂の記憶って、言うのかな? これ」
「そうだね。わからないけど、流れ込んできたんだ。絢も?」
「藤も?」
 二人はクスクスと笑う。
「……今、闇貴は私を助けてくれてる。光姫も、絢を助けてくれた。だから何の問題もないよ」
「藤姫」
「光姫は気にしすぎなのよ。もう、過去の罪に囚われなくてもいいわ」
「絢姫」
 その言葉に、解放されたように、堰を切ったように涙を流し始めた光姫に、勇瑠がそっと触れる。
「泣かないで? 闇貴が出てきちゃいそうになるから。泣くのは、あの“鬼”を浄化してからだよ」
 ポンポンっと、彼女の頭を撫でると勇瑠は間合いを取ってこちらの様子を伺っていた凛を見据える。彼は背筋に冷たい汗を流していた。形勢は劣勢以外の何物でもない。戦う術を持たないと思っていた姫君は、とんでもない切り札を持っていた。
 実質二対一である。どれほど腕に自信があるといっても、状況が劣勢であることは認めざるを得ない。そこまで凛はうぬぼれてはいない。緊張感さえ感じられない二人、否、四人に対して純粋に焦りが生じる。彼は内心舌打ちをした。
 冗談じゃない。
 これが正直な今の彼の心境である。こんな所で負けるわけにはいかない。こんな所で、滅せられる訳には行かない。ましてや、浄化されるなど言語道断である。
 彼はここで引くか、引かざるべきか悩んでいた。勿論、旧友である鬼の仇を取る為には一度引くべきなのはわかっているのだ。しかし、眼前の存在と全力で戦いたいという衝動にも駆られる。彼がこのような感覚を抱くのは、実に数百年ぶりである。
 砕けた爪を見やった彼は浅く笑った。ぞくりと這い上がってくる何かには、覚えのある感覚だった。そしてこの時彼は思っていた。
「お嬢ちゃんたち」
「……何?」
 勇瑠と乙冬は浮かべていた微笑を消し、凛と向き合う。そんな二人に対して、彼は再び笑った。
「楽しいねぇ」
「え?」
「こんな気分、何年ぶりだろうなぁ」
 片手の爪は再生不可能なほど壊れているが、もう片手の武器はまだ壊れていない。
「アイツが、伐鬼に騙されたって知った時以来だ」
 彼は天を仰ぎ、どこか懐かしげに言葉を紡いだ。
「何を、言ってるの?」
 彼の言葉は、何かを覚悟した者の呟く言葉に見えた。彼は彼女たちに微笑んだ。その笑みは純粋な恐怖を二人の少女に呼び起こさせた。
「きっと、アイツも嗤うだろう。そのほうが、オレらしいって。許してくれんだろ。最初っから、オレがこんなことをするのを、望んでなんていなかっただろうが」
 彼の双眸に怪しげな光が輝く。凛の顔には今血と、肉と、悲鳴に酔った“鬼”の表情が浮かんでいる。自我のない、ただ怨みと憎しみと本能だけで人を壊す事を目的とした狂気の色。
 それを勇瑠が確信したと同時に、弾けるように“鬼”が攻めてきた。
「殺しあおうぜ、お嬢ちゃん!!」
 凛は突進してきた。振り下ろされた爪と、構えた剣が嫌な金属音を奏でる。ギチギチと力が拮抗しあう。先ほどと同じだった。
 勇瑠が渾身の力で凛を弾き飛ばし、そのままの剣を真一文字に振リ下ろす。凛は数歩後退り、それを回避した。彼女の額に冷や汗が浮かぶ。先ほどとは、鬼のまとう空気が違う。この瞬間、勇瑠にとって戦いが不利になっていた。
 愉快そうに次々と攻撃を繰り出す凛に比べ、先ほどとは打って変わり、勇瑠は防戦一方を余儀なくされた。
 凛はとうに忘れていたはずの、血や肉への欲求が湧き上がるのを止めずにいた。
 人への殺意に身を染めた彼の表情はもはや狂気にのみ彩られ、もう何も聞こえないのかも知れない。その一撃一撃はなおも勢いと鋭さを増し、殺すべき相手へと振るわれる。やがてその勢いに耐え切れず、勇瑠が手傷を負うのは時間の問題であった。
「……っ!」
 凛は苛付きを隠さない表情で腕を振るうと、制服ごと勇瑠が切裂かれる。剣を持つ腕が切裂かれ、鮮血が噴き出す。一瞬眉を潜めるものの、肩で荒い呼吸を吐きながら、優しく微笑みかける勇瑠。それは乙冬も同じだった。
「っんだよ! その顔はっ!!」
 悲痛な凛の叫びと共に繰り出された一撃を、勇瑠は避けなかった。剣を下に下ろし、横凪に繰り出された攻撃をその身に受けた。左胸から肩にかけて一閃。やはり鮮血が噴き出すが、ものの数秒で血は止まってしまう。その不気味さにも気圧され、凛は悲鳴のような声を上げる。先ほどまでの余裕が失われていた。
「凛さん」
「……何だよ」
 じくじくと傷口が塞がっていく勇瑠は彼の名前を呼んだ。
「貴方は、何がしたいの?」
「何っ」
 凛は叫ぶ。乙冬も、言葉を紡いだ。
「別に、殺し合いをすることが目的ではないでしょう」
 彼女たちの紡ぐ言葉、ひとつひとつが浄化の言葉だった。彼女たちは思い出したのだ。千年前に殺された自分の姿を。そしてあるべき姿を。戦うことが目的ではないのだ。その目的は、本来鬼を輪廻転生の輪に戻すことである。
 ここで彼と争う事で何が生まれるというのだろうか。この時、二人は確かに思っていたのだ。眼前にいるのは可哀相な、鬼の姿。ならば、自分たちの行うことなど、昔から一つしかない。
「ねえ、凛さん。望みは、何?」
 二人が同時に紡いだ声は、まるで元は一つの声だったように響き渡った。一瞬の間、その後に凛はか細い声で言った。
「……オレは……」
 ふいに、彼の周りを淡い光が取り囲んだように見えた。その中で蛍程度の大きさであるが光の珠が浮かんだり、消えたりしていく。それは美しく、悲しいほど幻想的な雰囲気だった。一つ消え、二つ消えると、一つ増え、二つ増えていく。その光景が繰り返されていくと徐々に彼の表情が虚ろになっていった。先ほどまで血と肉を欲していた狂気の色は伺えない。
 一つの珠が砕けた瞬間、彼は爪が砕けたほうの手で顔を覆った。それでも血を欲していたときよりも遥かに苦悶の表情を浮かべていた。
「オレは、ただ……っ」
 どうしたかったのか。望みは何かと聞かれた時、彼には答えは用意されているのだ。替えようのない、絶対的な。
「ただ、アイツを、帝を……」
 古くから友と呼んでいた鬼を奪った伐鬼を憎んでいた。殺してやりたいと切望していた。だが、それ以上に彼が望んでいたことは一つ。
「帝に、逢いたかったんだ」
 もう二度と会えない友に逢いたいと願う様は、人と同じである。凛の双眸からはとめどなく涙が流れた。彼はがくりと膝を折り、その場に倒れる。
 先ほどまでの好戦的な雰囲気は消えている凛の側に、二人は歩み寄った。
「なあ、お嬢ちゃん、お姫様」
「何?」
 二人はまた、同時に鈴のような声を発した。その音に苦笑しながら、彼は言う。
「オレを消してくれ」
 その言葉に二人は悲しそうな表情を浮かべるしかなかった。答えは否しかない。彼の望むことを彼女たちはする術を知らない。
「なあ頼むよ!! 生まれ変わるなんて嫌だっ! こんな地獄に、もう一度生まれ変わるなんてオレはゴメンだっ!! 帝にも、二度と会えない世界なんてオレには何の生きる価値もねえんだ!!」
 凛は起き上がり、勇瑠の腕を縋るように掴む。必死に、喰らいつくように彼は叫んでいるのだが、彼女たち二人にはどうすることも出来ないことだった。彼女たちが出来ることは鬼が鬼たる所以である、怨念を闇貴の闇に雪ぎ、光姫が光と共に鬼であった人の魂を昇華させる。それ以外を彼女たちは知らない。
 目の前に鬼がいれば救うことが出来る唯一の人間であることを教え込まれて生きて生きた二人にとって、凛の言葉にはどう答えることも出来ない。
 次の瞬間、ふいに勇瑠の声の高さが変わる。
「……方法が、ないわけではない」
「闇貴……っ」
 酷く辛そうな顔で、勇瑠の体の中にいる闇貴は言った。その言葉に、泣きそうな表情になった光姫が彼の名を呼ぶ。独り生身として取り残された乙冬が首を傾げると闇貴が彼女に向かって微笑んだ。
「本当か!?」
 勇瑠の身体を掴む凛の手の力が増す。砕けた爪が彼女の柔かい肉に突き刺さり、新たな血を生んでいるが彼女も、凛も気に留める素振りさえ見せない。
「ああ、一つある」
「どうすればいい!?」
 彼が言葉を放った後、空間はしんと静まり返った。水を打ったように静まり返った空間で、少女の腕を伸ばした先に出来た血溜まりに赤い雫が落ちていく音だけが嫌に響いていた。
「なあ!?」
「貴様が、闇に堕ちればいいんだ」
「闇に、堕ちる?」
 闇貴の言葉を復唱した凛の表情には、希望に似た表情が浮かんでいた。
「ああ。本来我の闇に落すのは、負の念。己の存在を忘れさせるほどの負の感情。その闇に堕ちれば負の念は消える。初めから存在しなかったようにな」
「そこに堕ちれば、オレはもうこの世界に生まれて来る事がないんだな?」
「理屈は、な。一度として鬼にこの力を使ったことがない。どうなるかわからん。あくまで可能性の話をしているのだ」
「可能性でもなんでもいいっ! やってくれっ!! オレはもう嫌なんだっ、この世界にあることが!!」
 凛の悲痛な叫び声に乙冬は表情を歪め、それを光姫が抱きしめる。
 どうにもならないのだろうか、彼を、救うことは出来ないのだろうか。そんな事ばかりが乙冬の、そして闇貴に身体を貸している勇瑠も思っているのであるが、こればかりはどうすることもできない。
 悲しげな雰囲気を醸し出している少女の方など向かずに、凛は唇を動かす。
「言っただろう、お嬢ちゃん、お姫様。あんたたちの優しさじゃ、オレを救えないって」
 それは嘲笑う言葉ではなく、彼女たちに同情するようなことだった。
「見とけよ。この先、オレみたいな鬼は出てくるぜ。輪廻転生を拒み、ただ破滅することを望む連中が、な。その時お嬢ちゃんたちはどうする?」
 早く消してくれ、と言わんばかりに目を閉じ、掴んでいた勇瑠の腕を離す凛は、膝をついた状態で彼女、否、正確に言えば闇貴と向き合っていた。凛の言葉に彼女たちは答えられずにいた。今までの鬼は意思は持たず、ただ苦しみもがき続けていた。それを浄化するのは対して苦にならなかった。
 しかし凛のような鬼はどうするればいいのだろうか。経験の浅い二人には正確な答えを出すことが出来なかった。今怒っていることがどこか彼女たちは遠くに感じていた。まるで、夢の中の出来事のような感覚にさえ襲われていた。
 夢ではない。紛れもない現だというのにも関わらず。彼女たちはどこかで現実を拒絶していたのかもしれない。明確な答えが出ないまま、出せないまま、闇貴による儀式めいた『鬼を闇へ堕とす』作業が始まった。
 闇貴が静かに彼の両頬に触れる。そしてそこからじわりじわりと黒い闇が広がっていく。まるで彼を侵蝕していくように。皮膚に穴が開いてそれがじりじりと広がっていくように。痛みもない、ただ感覚が失われていく感覚を持って、闇に堕ちていく鬼は一体何を思っているのだろうか。
 二人には、わからない。
 その一種異様な光景を、食い入るように見つめていた乙冬と、中から見ていた勇瑠は集中しすぎて次に起こった事象についていけなかった。……対応しきれなかったのである。
 降り注いできたのは、呪符の巻かれた矢。外見はただの矢であるが、一円玉ほどの直径のある矢筒が身体を突き刺さる感覚は、何にも勝る苦痛であった。少なくとも、それが鬼にとっては。闇に侵蝕されていく凛の身体を貫いた矢からは、本来人体を貫いたときに空洞を通って噴き出す鮮血が出てこなかった。
 その代わり、凛と共に矢の洗礼を受けた勇瑠の腕や太腿からは、鮮やかな赤い液体が迸っていた。
「藤っ!!」
「あああああああっ!!」
 光姫によって守られていた乙冬が上げた悲鳴と、苦痛によって叫ばれた凛の声が交わり、混沌の響きを持って狭い室内に広がった。
 一体何が起こったのか、視界が痛みによって歪む勇瑠と闇貴には検討も付かなかった。

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