09.日は昏く沈み

 ある日のことだった。この日もまた新月の日であった。無名の闇が辺りを多いつくし、人々は息を潜めるように夜明けを待つ。しかし、この時間からが二人の活動時間だった。
 跋扈する鬼たちを浄化するために、微々たる力を奮う。それが、藤姫と絢姫に課せられた使命だった。この日も、いつもと変わらずに鬼を浄化し、日が昇る頃に屋敷に戻り、眠りに着く。誰もがそう思っていたのに変化が訪れた。
「……あ」
 小さく藤が呟く。
「どうしたの、藤姫」
「ねえ、絢姫。おかしくない?」
「……あ、本当。おかしいわ」
 二人は仕事着を身に纏い、障子の向こうを見つめる。物音一つしないはずの場所が、人の気配で喧騒としている。闇貴と光姫は眉間に皺を寄せた。人の気配は徐々に強くなり、足音さえ聞こえてくるようになった。
 ざりざりと、砂利を草履で踏む音が徐々に大きくなっていく。今日は迎えの人数が多いのだろう。彼女たちは純粋にそう思い気にも留めなかった。しかし、次の瞬間彼女たちの耳には劈くような悲鳴が届き、遅れて鼻を覆いたくなるような血の臭いが漂ってきた。
 真っ白な障子に咲いた、赤い花。それを見た闇貴と光姫が咄嗟に二人の姫を背に庇うが、二人の少女は小首を傾げる。
 何かがあったとは理解できたのだが、その矛先が自分たちに向けられようとしているのがわからないのだ。
 障子に映る人影が、悲鳴を発している。再び鮮血が障子を汚すが、影は動き続けていた。乱暴に開かれた襖の先にいたのは、日本刀を構えた数多の男と、床に這い蹲り、手を辛うじて伸ばしている、二人の目付け役の男だった。
 二人の少女は、何が起こっているか理解できなかった。ただ、むせ返るような血と死の臭いを感じ、袖の裾で鼻と口を押えている。
「お、おにげっ、に、ください、ませ……!」
「え?」
「聞こ、ませな、……だ。に、げて……。れ、ん中は……」
 この瞬間背後にいた狩衣を身にまとっている一人の男が刀を構えた。
「危ないっ!」
「お二人のお命を狙っておりまする!!」
 光姫の悲鳴のような声と、死に掛けた世話役の、絶叫にも近い男の声が重なる。男は、背中を剣で指された。短い悲鳴の後、男は絶命した。檜の床の上に、どろりと大量の血が流れ出る。
 ふと視線をやれば、死体が道標のように連なっていた。恐らく二人の姫を逃がす為に、危機を知らせる為に、この離で生活をしている者たちが命を賭して走ってきたところを、次々と殺されていったのだろう。
 それを察した二体の精霊は、その凄惨さに眉間に皺を寄せる。
「どうしたの?」
「何で、動かないの?」
 だが、二体は少女たちの声で現実に直ぐに戻った。彼女たちは人が死ぬ所をみたことがない。人に傷つけられたことがない。故に、『命を狙われている』と言われても何のことなのかわからないのだ。
 血に濡れた刃を懐紙で拭った男たちは、改めて標的である二人の少女へと視線を向けた。今までに感じたことのない人の気に、二人の少女は自然とお互いの手を握り合った。
 ただただ、恐い。
 この時二人の感情を支配していたのは紛れもない恐怖だった。鬼と対峙したときでさえ感じ得なかった感情に、どう対応していいのか、彼女たちはわからなかった。
「逃げろ!!」
「え?」
「逃げるのだ!!」
 闇貴は叫ぶ。目の前の男たちは、にじり寄るように二人の少女に近づいてくる。得体の知れない二人に警戒をしながらも、消さなければならない存在と認識しているのだろうか、刀は構えられたまま、鞘に収められてなどいなかった。
 二人の少女は訳がわからないという表情で、闇貴を見上げた。
「お逃げなさいっ! 今ならまだ間に合うわ! 帝の下へ走りなさい」
「でも、光姫」
「いいからっ!!」
 滅多に、というよりも、ほとんど声を荒げない光姫の叫びに、二人は驚いたがお互い手を握り締めたまま立ち上がり、踵を返すように走り出した。
「逃げたぞ! 追え、逃がすなっ!!」
 狩衣を纏った男たちは少女たちの後を追う。
「行かせぬ」
 闇貴の低い声と共に、彼の足元から黒い霧が立ち込めた。それは瞬く間に広がり、男たちの視界を遮った。
「おのれ、小癪な妖術を使いよって!! やはりあの女童は鬼じゃ! 鬼が帝に取り入り、この世を乗っ取ろうとしておるのだ!!」
「響様の仰られたお言葉に間違いはないのだ!」
 視界を遮られてもなお前に進もうとする男たちを見やっていた二体の精霊は絶句してしまった。今、男たちが口走った名。それは二人の少女と志を同じくしているはずの『伐鬼』の当主の名だった。
「あの者が、なぜ」
「知れたこと。帝の寵愛する美姫を、帝に思いを寄せる女子が放っておくわけがない」
「まさかっ!! 帝は、そのような気持ちをあの子達に!!」
「ああ、抱いておらぬ。だが、狂おしいまでの感情は、その者の視界を奪う。……だからであろう」
「そんな」
 光姫の顔色が一瞬にして悪くなった。同じ女として、彼女の気持ちがわからないわけではない。しかし、同じ女だからこそ信じたくないのだ。おぞましく、醜い感情を突きつけられた光姫はわずかに震えながら手で口元を押さえた。
「何てことなの……っ。殺されてしまうわ、あの二人の姫は」
「そうだな、このまま行けば……」
「助けなければ、あの子たちを、助けなければ!!」
 きっと顔を上げ、黒い霧のために思うように前へ進めない男たちに向かって手を振りかざそうとした瞬間、その手を闇貴に押さえられてしまう。
「闇貴、離して!」
「離さない」
「どうして!?」
「お前は、この手を放したらあの者たちを殺すであろう?」
「ええ、そうよ!! あの小さな姫たちを助けなくては! 人と戦う術を持っていないのよ?!」
「制約に関わるっ!」
「!!」
 闇貴の怒声に光姫の動きが止まる。見れば、彼の端正な顔は苦痛に歪んでいた。
「闇貴、どうしたの?」
「この程度の足止めでも、人間に不利になる力を奮っただけでも、これだけ己の身に負荷がかかるのだぞ? それを、人間を害してみろ、どうなるか……っ」
 ぐらりと体が傾いた彼の体を、細い光姫が支える。
「我らは、無力だ光姫」
「闇貴」
「いとおしい者さえ守れない」
 徐々に晴れてくる黒い霧と、拳を握り締めるしかない闇貴の姿に、光姫は堪えきれず涙を流しながら、彼を抱きしめた。
「いや、守ろうと思えば守りきれる。だが、光姫。我はお前と離れたくないのだ」
「……私もよ、闇貴」
 二体の精霊は静かに涙を流した。その姿は、まるで人間そのものだった。



 少し走っただけでも息が切れてしまうのは、一重に彼女たちが自分の足で出歩くということをほとんどしていなかったからだろう。
 彼女たちの生活範囲はあの部屋と、庭。そして牛車に乗せられ連れられるままに歩く、暗い街。ほとんど体力を使うこともなく過ごしてきた少女たちにとっては、離といえど帝の元へ行くにはこの道のりは果てしないものだった。
 彼女たちは走るのをやめ、ぜいぜいと肩で呼吸をする。
「あの人たち、なんだったんだろうね」
「ね、恐い顔をしていたわ。それに、あの人動かなくなってた」
「どうしてかしら?」
 最後の言葉は二人で同時に紡ぎ上げ、まるで一人が喋っているかのような声だった。
 追っ手が来ないことを感じた二人は、手を繋いで歩き出した。とにかく、闇貴と光姫の言うとおりに帝の元へ行こうと。彼女たちは帝の居場所を知らない。だが、歩けばいずれ着くだろうという無意味な自信があった。
 ぺたぺたと足袋も吐かずに飛び出してきたため、裸足で二人は歩いていく。心と静まり返った屋敷がこんなに広い場所だったことを知らなかった二人は、いつまで歩けばいいのか、何処に向かってあるえばいいのかと思うと、だんだん不安になっていった。
 思わず、握る手に力が入ってしまう。
「ねえ絢」
「ねえ藤」
 二人は同時に声を発した。その瞬間、後方から足音が聞こえてきた。その音に二人は身体をびくりとさせる。
「いたぞ、追え! 逃がすなっ!!」
 恐ろしい形相をしながら走りこんでくる男たちをみて、二人は走り出した。動かない足を動かし、苦しくなっていく呼吸を無視しながら二体の精霊の言葉に従い、逃げていく。
 だが、どう足掻いても体力の差には抗えない。少女たちと男たちの距離は直ぐに縮まってしまい、あっという間に少女たちを取り囲んだ。
 二人は、互いを抱きしめあってその場に座り込み、男たちを見上げた。狩衣の男たちは改めて剣を抜く。鍔鳴りにその身を震わせた少女だったが、それでもこれから何をされるか、と言うことはいまいちわからない。
「ねえ」
「何だ?」
「何で、そんなに恐い顔をしてるの?」
 二人は不思議そうに訪ねた。すると、男たちは嘲笑を浮かべ、二人を見下した。
「何を戯言を! 貴様らは“鬼”であろう?」
「え? 何を言ってるの? 私たちは人間よ?」
「何を言う!! 響様が見抜けぬと思ったか愚か者めっ!!」
 かっと怒鳴られた二人はますます小首を傾げる。怒鳴られている理由もわからず、ただただ男たちを見つめていると、彼らは柄を握りなおす。
「まあいい。抵抗をしないところだけは評価してやろう! 汚らわしい鬼めっ! 滅せよ!!」
 何を、と聞く前に剣が真っ直ぐに、二人の少女の身体に振り下ろされた。
 刃は真っ直ぐに少女たちの柔らかな肌を切裂いた。鮮血が、迸る。檜の床に降り注ぐように散り、少女たちは何が起こったのかわからないというように唖然とした表情を浮かべていた。次に、止めを刺すかのように、身体に突き刺されていく白刃。
 まだ成長し切っていない童の身体に、容赦なく降り注ぐ鉄の雨。身体の内側から込み上げてくる熱い何かに耐え切れず口を開けば、食道を通って逆流してきた血を口から吐き出す。まるで深紅の花が散ったように着物に、床に血が零れていく。
 身体中が痛くて熱い。二人は今まで感じたことのない強烈な痛みと熱さに耐え切れず、両目から涙を流しながら、全身から鮮血を迸らせながら、ゆっくりと床に倒れこんだ。咳き込むたびに血を、命を流しながら彼女たちは辛うじて呼吸を繰り返す。
「あ、あや……」
「……じ」
 二人は床に向かい合うように倒れた。黒い髪が乱れて広がり、白い着物は血を吸って変色している。ただ、二人は手を放さないでいた。握った手だけは放すまいとしていたのだった。だが、その手も男たちの足袋にぐしゃりと踏まれる。
 今まで絶望の色も何も浮かんでいなかった少女たちの双眸が、初めて翳った。切れないはずの糸が切れた、と言っても過言ではない。もう殆ど自由の利かない腕を必死に動かし、離れた指先だけでも触れるようにともがいてみるものの、男たちの容赦のない蹴りが少女の身体に打ち込まれる。
「まだ生きているのか! 妖は、しつこい」
 一人の男がそう呟くと、絢の首を一閃した。胴体と首が切り離され、もうこれ以上ないほど血を流していたにも関わらず、鮮血が吹き上げ、絢姫は自らの血で真白い頬を紅く染めた。微かに唇が動く。それは確かに藤姫の名を呼んでいた。見開かれた瞳から、徐々に光が失われていくのを、間近でみていた藤姫は、首だけになってしまった絢姫を呼ぶ。
 否、呼んだつもりだった。しかし、肺を貫通している剣のせいで上手く呼吸が出来ず、苦しさのあまり声が出ない。それでも振り絞るように、掠れた声で、絢姫の名前を呼ぶ。動かないはずの腕を必死で動かし、絢姫の身体に触れようとするが、伸ばした手は無情にも踏みにじられる。
「首を離せば死するか」
 そう呟いた別の男が、絢姫と同じように藤姫の首と胴体を切り離した。わずかに浮いていた首が完全に床に落ち、ゴトリという不穏な音を奏でる。鮮血は信じられないほど溢れ、死臭がむせ返るように広がっている中、見開かれた少女の二人の双眸からは、透明な涙を零していた。年端もいかない幼子を殺した為か、わずかに動揺している男たちだったが、別の男が声高に言った。
「伐鬼が“鬼”を滅することは、正当! 我らは力を有するゆえ、国の為に、帝の為にこの力を奮うのだ! 悪しき“鬼”を今宵も滅した! 幼子の姿で帝をかどわかす悪鬼を滅したのだ! 誉れよ!」
 藤姫と絢姫の小さな手を踏みつけていた男が叫ぶと、呼応するように他の者たちも賛同した。そうしなければ、“鬼”だと言い聞かせなければ、罪悪感に苛まれると感じたからだろうか。
 血なのか、涙なのかわからない何かを双眸から流していた少女たちは、この時既に絶命していた。ただひとつ、彼女たちがわずかに意識のある間に聞いた“伐鬼”と言う単語を、黄泉への土産に抱いていたことを、この時男たちは知らなかった。

 この時、結果として絢は藤よりも先に絶命してしまった。
 この時、二人は繋いだ手を放すことを余儀なくされてしまった。
 この時、二人の少女は伐鬼に殺された。

 これは、千年万年経っても、消えることない歴史の闇に葬られた事実である。
 歴史が事実を忘れても、骸は魂はこの事実を決して忘れない。


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