03.美姫と闇

 平安京の一角に、離れがあった。辺りには常に季節の花々が咲き乱れ、春には鳥が囀り、夏には雨音が池に静かに響き、秋には虫が切なげに鳴き、冬には雪の眩しさを楽しむ。
 そんな趣のある場所はまだ裳着も済ませていない女童のために用意された場所なのだ。室内の拵えは公家の姫君たちにも劣らない品の数々である。侍女の数も決して少なくはないが、童女たちの側に控えている侍女は少ない。
 どこか遠巻きに、どこか疎遠に彼女たちと接していることに童たちは気付けない。彼女たち以外の人間を彼女は知らないゆえ、気にも留めない。彼女たちは美しく彩られた離れという籠の中に足枷をはめられていることにも気付けないまま日々を過ごしているのだった。
 
「藤、藤、あれは何かしら?」
「わからないわ、絢。でも綺麗ね」
「ええ、とても綺麗」

 少女たちは美しい着物を身に纏い、座敷にある手の届かない窓からひらひらと舞う蝶を、ふわりと舞う花弁を、空を駆ける鳥を見ていた。彼女たちにとってどれも名前も知らない、知る必要も無いものである。
 大人たちは少女たちに食べ物を与えた、着物を与え、身の回りの世話をした。しかし必要以上に近づかない。彼女たちはこの狭い世界でたった二人きりだった。与えられたものは互い。そして、お互いに憑く守護者だけだった。

 室内にはクスクスと小さな笑い声が木霊する。二つの声が折り重なり、いつしか笑い声は一つの声に人々の耳に届いていた。
「闇貴(あんき)、あれは何かしら?」
「あれは蝶だ、藤姫」
 低くも、暖かな声が彼女たちの耳に届く。触れることは出来ないが、存在を感じることは出来る存在。他者には視覚することさえできないが、彼女たちには見える存在。漆黒の髪に漆黒の双眸。身に纏うは漆黒の衣。しかしそれは仮衣のそれとは全く異なる衣服。
 姿さえ見れれば国中の女が溜息をついてもしかたないほどの美丈夫であるのだが、彼を視ることが出来る人間はこの世界に少ない。
「以前、この部屋に舞い降りてきた生物よね、光姫(こうき)」
「そうね。火の中に身を投じたあの生き物よ、絢姫」
 もう一つ、柔らかな鈴の音のような声が彼女たちの耳に響く。その声の主もまた、闇貴と同じ存在である。唯一つ、纏う色彩は彼と全く異なる。淡く輝く銀色の足元まで延びた長い髪。月の光のような色の双眸は人外の美しさを醸し出していた。彼女のために国が滅びてもおかしくないほど美貌を有している。
 纏う衣は純白。しかし姫君が纏うような着物姿ではなく、まるで天女の羽衣を纏っているような出で立ちである。しかし彼女もまた普通の人間では視ることも触れる事も出来ない存在だった。
 この二人は言うなれば闇と光を司る精霊なのだ。呪い師が呼び寄せた存在である。呼び寄せた呪い師、また霊的に力の強い存在でなければ彼らと会話をすることさえままならない。その彼らと共に生活をしているのが彼らに優しく見守られている二人の姫だった。
 あれはもう半年ほど前に遡る。


「主上、お耳いれしておきたいことがございます」
「何だ、右大臣」
 平安の折、黎清(れいぜい)の上と呼ばれた歴史上から存在を消された天皇がいた。ある日の夜にその彼に左大臣が内密の要件といって彼に近づいたのだ。
 夜着を纏ってはいるものの、蝋燭の火の光に映し出される姿は見るものの息を飲ませる。歴代のどの帝よりも端正な顔出しをしていると臣下たちが騒ぐのも無理もない容姿をしている、まだ男盛りな帝に対して右大臣は平伏して言った。
「主上、このところ都には魑魅魍魎が跋扈しております」
「……そのようだな」
 彼が帝位についてからというもの、飢饉や天変地異に襲われ華やかな装いを辛うじて維持している都に対して、町は道端に多くの屍骸が転がっているという悲惨な状況に陥っているのだ。その死体に群がる魑魅魍魎の群れ。夜な夜な百鬼夜行が行われているとさえ人々は囁く。
 そのような事態を彼が把握していないはずもなかった。
「伐鬼(ばっき)は何をしておるのでございましょうか。都の守りは伐鬼連中に主上がすべてお任せしておいでではありますが、いささか不安がございまする」
「そうか? あの者たちはよくやっている。鬼を討伐しているではないか」
「ははあ、さようで。ですが都の守り手は多いほうがよいではございましょう。帝の御心を騒が奉ったとあれば末代までの恥」
「何もお前がそこまで気に病む必要はないだろう」
 真夜中に突然現れた熱心な臣下に、彼は辟易としていた。寝苦しい夜、こんな宵は女を侍らせていたいものだと内心で思っていることを全く右大臣は気にせず言葉を続けた。
「私の知り合いに呪い師がおるのです」
「呪い師?」
 その言葉に彼は怪訝そうに眉を顰めた。
「はい。伐鬼は鬼を消すと言いまする。元は人、輪廻の輪に入り、己の身の罪を雪ぐことさえ許さないとはあまりに無慈悲」
「……それは他に方法がないからであろう?」
「ええ、我々は他の方法を知らなかった。故に、伐鬼に権力を与え力をふるえと命じたのです」
「お前は何を言いたい?」
 回りくどい右大臣の言葉に、彼は問うた。
「申し上げます主上。伐鬼以外にも鬼を消す方法はございます。しかも鬼と落ちた人を浄化し、輪廻の輪の中へと戻す方法が」
「……! それはまことか」
 静かに話を聞いていた彼が立ち上がらん勢いで話しに喰らいついた。右大臣は頭を下げて表情が見えないことをよいことにニヤリと笑う。
「ははっ。鬼は闇より生まれし存在。ならば闇に飲み込ませてしまえばよろしいかと存じます」
「それで?」
「闇に飲み込ませた後、光に戻してやるのです。そうすることで闇の中に負の念を吐き出し光に戻ることが出来ましょう」
「……その前に鬼が襲ってきたらどうするつもりだ?」
「同じ属性のものに闇の者の攻撃なぞ通用する道理がございません。そして闇の力は光に及びませぬ故」
 彼は手を顎にかけ思考をめぐらせた。
「それは、どうすればいいのだ?」
 右大臣はにやりと笑います。
「簡単でございます。その呪い師に闇の霊と光の霊を呼ばせます」
「霊?」
「精霊と呼ばれる人ならざるものたちでございます」
「使役すると?」
「さようで」
 帝はますます怪訝そうな顔をしてみせた。
「誰がその使役をする? 伐鬼に任せるか?」
「いえ、伐鬼連中にはくれぐれもご内密にお願い致します」
「何故だ?」
「伐鬼連中はこのような術があると知れば、面白くないでしょう。寄り代を殺そうと思うやもしれません」
「馬鹿なことを」
 帝は喉で笑って見せたが、すっと顔を上げた右大臣は真顔だった。
「寄り代は、年端もゆかぬ女童が二人でございます」
「女童? お前のか?」
「家、呪い師の選んだ穢れなき娘、千年に一度しか生まれ出でないと言われる始原の魂を持つ者です」
「始原の魂?」
「はい、人は輪廻転生いたします。主上が主上である所以は、前世の徳がきいているのでございましょう」
 右大臣は真顔のままに言葉を続けた。
「始原の魂というのは、この世に生まれ出でた最初の魂。前世を持たぬ者、血の匂いも肉の味も死の恐怖も生の歓びも何も知らぬ魂なのです」
「そのような存在がおるのか?」
「おります。しかも二人も」
「……不吉だな」
「そうでございましょうか? むしろこれはこれから主上の御世への吉兆となるでしょう」
 ふぅん、と面白くなさそうに頷いて見せた帝を前に、右大臣はまだ黙らない。
「その女童を寄り代とし、平安京に離れをお作りになられてお育てくださいませ。いえいえ、帝には衣食住を保障していただくだけでそれ以外は全てこの私目が面倒をみます」
「それは何故だ?」
「は。闇と光を宿していること、それはすなわち陰と陽を手中に収めていると同じこと。主上の栄光は疑いようもございません。また、主上の手を煩わるわけにはいきません故」
 帝は彼の言葉に沈黙で返した。
「いかかでしょうか、主上。伐鬼とて生身の人、あまり危険に晒してちと気の毒と申しましょうか……」
「……それはそうだな」
 灯篭の火が風もない部屋に僅かに揺らめいた。思案に耽る帝の瞳は黒に藍色を混ぜたような不思議な色を醸し出していた。かの式部の描き出した物語の光る君に負けるとも劣らない容姿を持つ帝に右大臣は鳥肌を立てていた。
 人が魔に呑まれる瞬間があるとすれば、今かもしれない。そんな錯覚を抱かされるような帝の姿に頭を振る。
「どうした?」
「いえ、何も。それで主上、いかが致しますか?」
 再び灯篭の火が揺れる。
「お前の言う通りにしてみよう。早いうちにその呪い師とやらを連れて来い」
「ありがたきお言葉、ありがとうございます。明後日にでも、その者を連れてまいります」
 右大臣は再びひれ伏して、真夜中の平安京を後にした。残されたのは肘掛に凭れた帝はため息を付く。その息に、灯篭の火が揺らめく。

 確かに、伐鬼に、『神宮寺』の姓を与え本来ならば深窓の姫君として一生を終えるような乙女を恐ろしい地獄絵図の世界に引きずり込んだのは己自身である、と彼は思っている。
 彼女のと繋がりは純粋に嬉しいものであるが、それでも思いを寄せる少女を危険な目には合わせたくはない。
「響(きょう)……」
 人知れず、人の上に立つ帝が呟いたのは、この時代に珍しく名を持つ少女の名前。現在『神宮寺』の頂点に立つ齢十五の少女。自分の地位を顧みると決して結ばれてはならない相手であるが、思いは募るばかりであった。
 今宵は新月、星さえも瞬くのを止めた様な深淵の闇が世界を覆う頃、また一つの悲劇が始まろうとしていた。この時千年後の世まで続く呪いの連鎖を招くことになろうとはこの時誰も想像もしていなかった。


BACKMENUNEXT



SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送