02.大切な存在

 藤、と呼ばれていた少女の名は藤宮勇瑠(ふじみやたける)と言った。焦げ茶色でベリーショートな猫ッ毛で、同じ色の双眸。一般女子より、頭一個半背が高い。しかし、身長に比例せず細身である。剣術道場の一人娘として生を受け、恙無く日々を送っていた。
「昨夜はどこへ行っていた」
 父、母、祖母と勇瑠の四人暮らしをしている彼女の朝は、まず家族団欒での朝食。にもかかわらず、今この食卓に穏やかならざる空気が流れた。テーブルの上に朝食として出されているのは、豆腐とわかめの味噌汁と、玉子焼きに焼き魚、小松菜の胡麻和え。真っ白い炊きたてのご飯。これぞ日本の朝ごはんとして称されて然るべきメニューを目の前に勇瑠は硬直した。
 昨晩は、“鬼”の気配を感じそのまま身一つで外へと飛び出し、そのまま絢の元へ赴いた後に“鬼”退治をしていたのだ。別にただそれだけのことなのだから、そう正直に答えてしまえばなんてことないのであるが、道場の師範である父に問われると無条件に彼女の身体が強張ってしまうのだった。これはある種の刷り込みと言ってもよいだろう。すでに四十を数えて久しい彼女の父親は、日増しに貫禄増しているように見て取れた。
 その威厳は、今、勇瑠を圧迫する物でしかない。暖かな湯気があがる食卓が、零下まで気温が下がった頃、茶を啜っていた勇瑠の祖母が口を開いた。
「勇瑠。正直にお言いなさいよ。ここで嘘を付くほうが問題になる」
「おばあちゃん……」
「お前もそう娘を威嚇するのはおよし」
 顔に皺の刻まれた祖母の言葉に、勇瑠は肩の力を抜いた。苦笑したように母親が祖母のお茶を注ぐべく、急須にお湯を入れに席を立った。室内に時計の秒針が響き渡る中、勇瑠はため息を内心で付いてから、唇を動かした。
「……“鬼”退治に」
「……そうか」
「はい」
 これで父娘の会話は終わってしまった。
「怪我はしなかったの?」
 お茶を持って戻ってきた母親は、彼女に問うた。
「あー……。うん、怪我はしたけどほら、闇貴が治してくれた」
「治してくれるからって、無茶はしたら駄目よ?」
「わかってる」
 娘を気遣うのはいつの時代でも母親の役割らしい、と勇瑠は笑った。
「父さんが私の事仕込んでくれたから戦えてる。感謝してます」
 そう言ってから勇瑠は、両手を合わせて頂きますとつぶやいてから朝食に口をつけた。父親は咳払いをしてから、祖母と母親は柔かく笑ってからそれぞれ朝食を口にし始めた。

 幼い頃、それは小学校頃だった。母と買い物へ行った時に“鬼”に襲われた。その時、家族の誰にも言えなかった力を使って母を守った。しかし、その時勇瑠は、母親に罵られることを覚悟していた。普通ではないということが、どれほど生きづらいことかをこの時既に彼女は熟知していたのだ。
 しかし、母は彼女を罵るどころか『助けてくれてありがとう』と涙したのだ。そういって抱きしめてくれたことのほうが、勇瑠にとっての喜びだった。見える者にしか見えない返り血を浴びた姿で帰宅して、彼女はすぐに湯を浴びせられた。これは祖母の指示であった。祖母は見える者にしか見えない物が見える人間だったのだ。
 風呂上りの勇瑠に、祖母は言った。
「勇瑠には、守り手がついとるんよ」
 何を言っているのか、その当時の勇瑠にはわからなかった。ただきょとんと、祖母を見ていた。
「ばあには見える。勇瑠、お前には黒の君が憑いておられる」
「黒の君? 守り手? 私のそばにいるの?」
「ああ、そばにおられるよ。お前を守ってくださってる」
 勇瑠には、意味が分からなかったがその日の夜。夢の中で出会ったのだ。それが、闇貴と勇瑠の最初の出会いだった。それ以来、勇瑠は今まで自分が危ない時にのみ現れていた漆黒の剣を自由自在に扱えるようになったのだ。
 持ち前の運動神経と、道場で仕込まれた基礎とで勇瑠の腕は自分でも驚くべきスピードで上達していったのだ。それこそ最初のうちは、全くその話を信じようともしなかった父親だったが、それも時が昇華してくれたのだ。あれから十年、“鬼”と生死を隣り合わせにいるような生活を続けていれば誰も、『夢』で済ませることは出来ないだろう。
 その幼い頃、夢の中でしか会えなかった闇貴は言った。
「いずれ、お前の片割れと出会う。その時、彼女を守れるように強く……藤姫。私は協力を惜しまない」
 父よりも暖かく、母よりも優しい声で囁かれた言葉から六年、彼女は絢と出会った。守りたいと切望する、自分の片割れに。

 勇瑠は、早々に朝食を済ませた。だからと言って、何かを残した訳でもなく、茶碗の中の米は一粒もなく、どの器も文句が言いようがないくらい綺麗に食べ終わっている。作り手から言わせれば、非常に良い食いっぷりである。
「ご馳走様でした!」
「はい、オソマツさまでした」
 食器をすべて重ねて、それを流し場へ持って行くとそのままお弁当を掴んで、勇瑠は駆けていく。
「乙冬(おと)ちゃんの家に寄って行くの?」
「うん、絢迎えに行く」
 玄関で黒の革靴を履きながら、今から聞こえる母の声に答える。
「気をつけてね!」
「いってきます!」
 こうして彼女の一日は始まるのであった。


 絢、と呼ばれた少女の名は絢嶺乙冬(あやみねおと)と言う。少し毛先にウェーブがかかっている、肩甲骨辺りまで伸びた染めていない自然な茶色の髪と、髪よりも濃い双眸。身長は女子の平均ぐらいで、女の子らしい体型をしている。
 元は家族の家柄で、彼女は家という籠に囚われ自由の身では決してない。また、人の上に立つことをよしとし、人外の力を極端に厭う傾向があった。それは一重にこの家系がこの国の守り手と繋がっているからに他ならないのだが、彼女たちはその真実を知らない。
 絢の家まで勇瑠の足で走って二十分。比較的近い家に住んでいるのであるが彼女たちの間には彼女たちを阻む存在が数多く存在している。それこそ“鬼”であるならばまだいい。彼女たちは彼らをなぎ払い、打ち払うことが出来る。しかし、未成年者にとって大人は絶対の存在。
 名家に生まれた乙冬は黒塗りの車で送迎されていた。少なくとも勇瑠と会うまでは。
 庭と言うには広すぎる玄関から門までの道を歩みながら、使用人が乙冬の後を追う。
「お嬢様、いけません! 旦那様と奥様からきつく言われているんです!!」
「わかってます。だからいつも言ってるでしょう? 父と母には私が言うことを聞かないと言ってくれればいい、と」
「そういうわけにも参りません。お嬢様に近づく不貞の輩からお嬢様をお守りするのも我等の務めです!!」
「そういって、藤にいつも投げ飛ばされてるわよね」
 クスクスと乙冬は笑って門の前に立つ。五月の爽やかな風が彼女の柔らかな髪を遊ぶ。使用人は言い返すことが出来ず彼女の元で言葉を失う。彼とて力がないわけじゃない、ここまでいうのあれば乙冬を無理にでも家に引っ張っていけばいいだけの話であるが、雇い主の娘に手荒な真似は出来ずそれ以上に、このような外見のお嬢様であっても腕っ節は勇瑠を凌ぐ。
「それに、何かあっても、私と藤でどうしようもなくなっても、光姫と闇貴が私たちを守ってくれるから」
 その言葉には誇らしささえ感じ取れる響きがあった。
「あーやーっ!!」
「藤! お早う」
 遠方から手を振りながら駆け寄ってくる少女に、乙冬は満面の笑みで答える。
「おはよーございます、神代さん」
「……おはようございます藤宮様」
 乙冬の元へ到着した勇瑠は満面の笑みを浮かべて使用人、神代に挨拶をする。過去数度拳を交えた中年の男性であるが、乙冬を守りたいという気持ち一点においては同じくする仲間だと思い、自分に拳を向けてくる以外は友好的な態度を示していた。
 彼から言わせれば、たかが女子中学生に一本とられたという記憶は抹消してしまいたい屈辱である。
「絢、行こう」
 自然に手を指し述べる勇瑠に、乙冬も当然のように手を握り二人は微笑み合う。しっかりと握り合った手は、お互いを決しては離さないという強い意志を人々に感じさせた。この二人はどこか過剰なまでに仲が良かった。出来る事ならいついかなる時も離れたくないと切望する恋人同士のように。
 女同士でその姿は異常に人の目に留まるだろう。しかし、少女たちの切なさを含んだ、歓びの双眸を見れば誰もが言葉を失ってしまう。離さない、離れない。その意志は真っ直ぐに人の胸を打つ。
「じゃあ行ってきます」
「いってきまーす」
「いってらっしゃいませお嬢様方」
 品良く頭を垂れる神代の内心は敗北感で満ちていた。ここで力づくでどうこうしようとしてもよいのであるが、彼女たちがそろうとえもいえぬ威圧感に襲われるのだった。
 二人を引き裂こうとすれば、己の身を引き裂かれかねない圧迫感は何処から来るのだろうか。彼の積年の疑問である。
 ……彼女たちの仲を今生でもまた引き裂こうとする輩がいるとすれば恐らく永遠に闇と光に苛まれるだろう。彼女たちの傍らには常に彼女たちの守り手が憑いているのだ。今より遥か千年も遡る過去の折り少女たちを襲った悲劇があった。
 彼らは彼女たちを守りきれなかった。少女たちに牙を与えなかったからだ。故に、今生では彼女たちに牙を与えたのだ。二度と離れることないように、お互いを守る牙を。時にそれは己さえ苛むものですらあるのだが、引き裂かれる苦痛に比べればどんな痛みにも耐えられる。
 少女たちは彼らに笑っていったのだ。過去の記憶がないままで。


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