第十四話 未来王への宣誓


 今宵は、時間進行は緩慢で、そして静謐だった。それを破ったのは蚊の泣くような小さな小さな音だった。意識を向けなければ分からないような音だったのに、それが嫌に耳に付いた。
 コツン
 窓に小石の当る音がした……ような気が彼はした。今日は多少風の強い日であるから、小石が巻き上げられて窓に当っ他としてもおかしくはない。
 コツン
 また、もう一度同じ音がした。今日は嫌に木々が風に揺られてうるさく揺れる。

 しばらくするとその小石の音も、木々の揺れる音も消える。再び夜の静寂さに当りは包まれた。それを肌で感じながら、部屋に灯ひとつで、ルリアランスは仕事を続けた。
 するとガンっと、明らかに小石が窓に当る音ではない音が彼の聴覚を刺激した。流石にこれは自然に起こったことではなく、人為的なものだと判断したルリアランスは視線を上げ、窓の外を見つめる。
 そこには、暗闇から覗く黒紅色の瞳と、赤茶けてはいるが月光に照らされて光る艶やかな髪を一本に束ねたいつもの姿を刺客に捕らえた。彼の見慣れた……見慣れてしまっていて、今刺客が捕らえる事は決してないはずの顔があった。
「あ、やっと気が付いたなボケ王子」
 声は聞こえないが唇の動きは確かにそう動いていた。一瞬衛兵を呼んでしょっ引いてやろうかと真剣に思ったルリアランスだったが、脳裏の考えを早々に打ち消しカタンと椅子から立ち上がり、窓辺に近づいた。
「王子、今妙な音が聞こえましたが?」
 外に控えている衛兵の一人がルリアランスに声をかける。幸い扉の鍵は内側からかけているので、彼らが殺到してきて木の枝に腰掛能天気に笑顔で手を振っている馬鹿者を捕らえる可能性は少ない。
「なんでもない。物を落としただけだ」
「……かしこまりました」
 そう言えば難なく状態は回避できる。ルリアランスはゆっくり窓辺に近づくと、いっそ緩慢なまでの動きで窓を開けた。キィという小さな音を立てて。

「何しにきたんだ? この暇人」
 開け放った窓から風が入り、ふわりと彼の黄金色の髪を遊ぶ。
「ひっで、久しぶりにあったオレに対してその台詞。泣くぜ?」
 彼の眼前にいる男は、つい数ヶ月前、戦場でこの身を守ってくれた男、ティトリーだった。たった数ヶ月会わなかっただけなのに、それこそ彼は立場上何年も会わない知り合いも多いはずなのに、たった数ヶ月彼と会わなくなっただけで、世界が色褪せて見えていた。
 ニカっと笑うその顔は変わりなく、少なからずルリアランスは安堵してしまった。氷上に掘られた精緻極まる像のようだったが、その氷が溶け出し、自然な彼の柔らかな表情が生まれる。
「勝手に泣け。っていうか、いい年した男がなくとか言うな」
「うっわー……愛が感じられない」
「感じられてたまるか、気色悪い」
 お互いはふっと笑った。
「久しぶりだな、王子。元気そうで何よりだ」
「そうだな。お前は……変わってなさそうだな」
「少しは戦場で大怪我してるかも〜とか気に懸けててくれた?」
「する必要もないだろう?」
 一歩間違えば憎まれ口になってしまうような会話にもかかわらず、二人の雰囲気は実に柔らかな物だった。それは二人を見守る月光のような柔かさと暖かさがあり、確かに二人の心が和んでいる証拠だった。
 ルリアランスのいる窓辺から、ティトリーのいる太い幹までの距離は二人が精一杯に腕を伸ばしても辛うじて指先が触れられない程度。これが確実にある二人の距離なのだ。それを分かっていて彼らは月夜の邂逅を楽しむ。

「ティ、ティトリー様ぁ〜」
「ん?」
 下方でなんとも情けない小声が響いたので、二人は同時に下に視線を移す。そこにいたのは、当然のように半泣きになって上の様子を伺おうとしているラナンキュラスだった。銀水晶の瞳を薄っすらと 歪ませて不安そうに二人の姿を見守っていた。
「ラナン、どうした?」
「あ、あ、あ、貴方って人は! 不敬罪ですよ、不敬罪!! 大変申し訳ありませんルリアランス王子〜っ!!」
 わなわなと下からティトリーを指差しそう叫ぶラナンキュラスであったが、声はあくまで小声である。そんな彼の様子をティトリーは笑いながら見つめていた。
「あれは……」
「オレと同期で兵入りいたんだけど、オレよりちょっとだけ階位が低いラナンキュラス・インパチェンス。イイヤツだよ」
「だろうな。お前のその破天荒に付き合ってくれるんだ。大切にするんだな」
「そーする」
 そういってティトリーは手を下に向かって振りながら、意地悪そうに笑った。それがまた彼の神経を煽ったらしく、彼は神に祈るように手を汲んで上を見上げている。彼は完全にティトリーに遊ばれている事がルリアランスから見ても瞭然だった。
 思わずその様子に彼も口元を緩めてしまう。
「ああ、そうだ。こんなところで和もうと思ってきたんじゃねぇや。なぁ王子暇か?」
 唐突に言われたティトリーの言葉に、ルリアランスは青に近い紫色の瞳を一瞬見開いたが、また直ぐに冷静さを取り戻し後ろにそびえ立つ書類の束を指差した。
「寝るまでにあの書類をこなさなきゃいけないんだ」
「急ぎか?」
「いや、なるべく早くこなしておきたいから……」
「じゃぁ平気だな。ラナン、お前も上がってこいや」
 横目で未処理の書類の束を見ながら、ルリアランスが言うと、ティトリーはそっか、と小さく呟いた。しかし次の瞬間には下を向いてぱたぱたと動かし、ラナンキュラスを呼んだ。
「え?」
 横目で書類の束を見ながら、少し寂しげに言うと、ティトリーは気にしない風に下を向いてラナンキュラスを呼んだ。何だか分からないような表情をするルリアランスに、彼は悪戯っ子のような表情を浮かべて言い放った。
「ラナン、お前ちょっと王子の代わりに部屋で寝てろ。明け方には帰るから」
「は!?」
 ラナンキュラスとルリアランスの叫び声が同時に響く。
「ちょ、ちょっとティトリー様?」
「早く昇って来いよ。ちょっとオレこれから出かけてくるから」
「ま、待てティトリー……」
 突然言い出したティトリーの言葉に、何も戸惑っているのはラナンキュラスだけではない。当然のようにルリアランスも困っているのだ。しかし彼はそれすら承知で。
「安心しとけ王子。『明日に回せる仕事は今日やらない』を実践させてやるだけだから、気にするな」
「お前の信念を勝手に押し付けるな」
 ルリアランスは頭を抱えるようにそう呟く。それを気にせず太い幹の上にスッとティトリーが立ち上がると、ルリアランスに手をさし伸ばした。ざぁっと風が逆巻く。
「そんなに嫌そうな顔してくれるなよ、せっかく一世一代の告白をしにここにやってきたんだから。出かける前に済ませちまおうと思ってな」
「告白だぁ?」
 胡散臭いものを見る目でルリアランスが彼を見ると、ティトリーは苦笑していた。しかし、次の瞬間その表情は一変した。それはまるで戦場に立っているときのような真剣な眼差しだった。
 彼の信頼を得るためならば、常にこの表情をしていても構わないぐらいに、彼は思っていた。
 初めてルリアランスを見たときから、心に燻っていた答えを、彼は最近見つけたのだ。地位や、名誉や、金なんて要らない。ただ身一つで彼を守り、彼の側にいたいと。
 初めて彼を見た瞬間から美神のような横顔に、魂魄を奪われたかのように陶然と見惚れた。瞬くほど一瞬の間を共に過ごしただけで、魂と意志の壮烈さを肌で感じた。
 何が切望するか問われたら、ただ心が、魂が切望するのだった。彼の伸ばした手は空を掴むのではない。未来に存在する確かな何かを掴むのである。掴ませるのではなく掴むために、彼は真直ぐに彼を見つめて言った。
「今はまだ眠れる未来王に、命を、誇りを、剣を、名を。オレの全てを貴方に捧ぐ」
 それはあまりにも綺麗な宣誓だった。
 証人は月と風と木と……。
 いとおしいと思う気持ちを真直ぐに。ただ守ろうという直向な思いだけ。あまりにも真直ぐな彼の言葉に、ラナンキュラスは言葉を失い、ルリアランスはその両の瞳で彼を見つめる事しか出来ないでいる。
「貴方を守る権利を、オレにくれ」
 人に物を頼む態度とは到底思えない台詞であるが、なぜかルリアランスはずっとずっと望んでいる言葉のように思えた。
 それはきっと二人が初めてであった瞬間から、ティトリーが彼に捧げる言葉を、ルリアランスは受ける言葉を捜し、望んでいたのだろう。それが今叶ったのだ。

「それがお前の殺し文句か?」
「いや、殺し文句は別にある。今のは本音だけ」
 片目を閉じながらそう告げるティトリーの表情は普段の軽い表情を浮かべている。
「そうか……」
 小さな風が彼の……彼らの髪を遊ぶ。それはまるで神聖な儀式の途中のような錯覚を覚えるほどの物だった。ふっと微笑んだルリアランスはそのまま窓の枠に足をかけた。
 必至で木を登るラナンキュラスは目を丸くした。
 黄金の髪をたなびかせ、まるで天使のような容姿を持つルリアランスが宙を舞ったのだ。あまりのことに、彼の口は地面に落ちるのではないかと思われるほど大きく開かれ、銀水晶の双眸は零れ落ちるほどに見開かれた。
 あとわずかに足りない飛躍の分は、ティトリーが伸ばした手がしっかりと掴み、彼を二度と離すまいといわんばかりに彼を抱きとめた。ティトリーはルリアランスの体重にもびくともせず、ただ、彼をしっかりと抱きとめたのだった。
 それはまるで一枚の絵画のような美しさを伴い、ただ唯一の観客者であるラナンキュラスは間の抜けた表情で二人を見つめた。
「予告しろ。あっぶねーだろーが。落ちたらどうするつもりだったんだよ」
「お前が僕を落とす訳ないだろう」
「……喜んでいい?」
「勝手にしろ」
 そんな会話の二人は殺伐としたものではなく、何とも微笑ましいものである。ずりずりと一生懸命木を登ってきたラナンキュラスに、ルリアランスは笑顔で言った。
「ラナンキュラス・インパチェンス……だったか?」
「は、はい! ルリアランス王子!!」
「そういうことだから、頼んでもいいか?」
 控えめな彼の笑顔ひとつで、国がひとつ征服できそうな威力があると、巷の人々は噂しているがそれは強ち間違いではないとこの時まともな理性が働かないラナンキュラスはただ首を上下に動かすだけだった。
「ありがとう、ラナンキュラス」
「いえ、王子のためとあらばこの身を火にも投じる覚悟でございます!!」
 緊張と笑顔にやられたラナンキュラスは完全に言語中枢まで麻痺したのか言葉遣いさえおかしい。緊張に強張った身体のまま、彼はルリアランスと逆の道を飛び、ギクシャクした風に中に入ると、彼に向かって敬礼をした。
 その姿を見たティトリーはただ苦笑した。
「朝までには戻るから、よろしくな、ラナン」
「ハッ! このラナンキュラス、身命を賭して任務を遂行させていただきます!!」
 ビシッとさらに身体を強張らせるラナンキュラスをいっそ哀れと見つめながら、ティトリーは苦笑した。
「オレ、お前だけはぜってー敵に回さねぇ」
「そうか?」
 クスクスと、すでにティトリーの腕から抜けたルリアランスは愉快そうに笑った。
「さぁ連れて行ってくれ。どこかに行くんだろう?」
「……諦めて連行される気になったか?」
 ルリアランスはさらに嬉しそうに笑った。
「ああ、今日ぐらい付き合ってやる。精々ありがたく思え、ティト」
 歓喜で魂が震える瞬間があるならば、多分こういう瞬間の事なんだろうと、ティトリーは密かに胸で思う。
 それは、冴え冴えと蒼く弦を描く月下の夜の出来事だった。






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