7.五日間の戦い 前


 乾いた大地が血を吸って変色している。緑の満ちた瑞々しい空気が、赤の異臭に侵食される。一歩を踏み出せば大地が吸いきれなかった赤い液体がパシャという水音を立てて弾ける。この大地に立っていたのはルリアランスとティトリーだけである。それは、今この場に生きているのは二人だけという事実を意味していた。
 あの後、再び王子に剣を手渡したティトリーは体術により相手側の剣を一本奪い取り、王子を背に庇いながら戦った。急所を外して気を失わせる という余裕は微塵も無かった。
 ただひたすら相手の急所を狙い、一撃で相手を殺す事しか出来なかった。せめて、一撃で殺せるようにと心で願いながら剣を振るった。日々の鍛錬の成果はこんなところで発揮され、多少の感じ悪さは拭えない。
 相手を生かすだけの力量の無い自分を恥ながら、これ以上王子に人を殺させないという至上命題においてのみ、この時のティトリーは動いていたのかもしれない。
 彼の中の、深層心理のどこかでそれを思っていたとしても、それを本人が自覚する事は無かった。
ただ王子を守り、王子の手を赤く染めさせない。そのためにティトリーは尽力を尽くした。
「……終わったんだな」
「終わりましたね」
 辺りに倒れる十余名の死体を見て、王子とティトリーは呟いた。決して見目良い光景ではない。ティトリーは血溜まりに転がっていた己の剣を拾い、念入りにその赤い液体を拭った。
 その間、王子は辺りを見回していた。そしてある一点で視線を止めると、ゆっくりとその場所まで歩き、また緩慢な動作で血に濡れた大地に膝をついた。彼は大口を開けたまま心の臓部分に穴の開いている己の護衛官だったものの肉塊を見つめる。網膜に、その者を焼き付けるかのように。
「王子……」
 人となりはどうであれ、己の身を命懸けで守った男に対して、小さな王子も王子なりに思いがあるのだろうと思ったティトリーは、ただ黙ってその行動をとるルリアランスの背中を見つめていた。
「この男もやり残したことが多いだろう。悪い事をしたな」
 そう呟いた王子は両手を組んで祈りを捧げた。
「せめて迷わず逝け」
 彼の花弁のような口唇から紡がれた信託を告げる神官の如くの言葉は、何とも言えない余韻を残しながら空気中に霧散した。一拍置いて彼は立ち上がった。そして身を翻してティトリーよりも頭二つ分は小さい少年は、彼をその蒼水晶の瞳でじっと見つめた。黒紅色の瞳と、蒼水晶色の瞳が交わる。
「不躾に失礼いたしました、私の名はティトリー・ルトルアと申します。数週間ほど前に近衛兵団分隊長という地位に着いた者です」
 ティトリーは当然のように彼に膝を付いた。自分より小さくとも、年齢が低くとも、目の前の少年は王族。しかも未来の大陸の覇王とも名高い者。礼を失することは、彼にとってもあまりよろしくない事態を引き起こすのは目に見えている。
「ルトルア? ああ、剣の腕の立つ者が多いルトルア家の者か」
「はい」
 無名とばかり思っていた家名を、この幼い王子が覚えていたことにティトリーは驚いた。しかし、それは表情に出さない。
「そうか……。先程は助かった、ありがとうティトリー・ルトルア」
 ふ、とティトリーに当っていた柔らかな陽光が遮られる。ゆっくりとティトリーが視線を上げると、目の前に美神の化身とも思える容貌の少年の姿があった。
「もったいないお言葉、ありがとうございます」
 そういって再び頭を垂れると、頭上からあまり機嫌がよいとは言えない鈴のような声が響いた。
「いちいち頭を下げる必要は無いだろう。今は君と僕しかこの場に存在していないんだ」
 王子は暗に立って良いと許可を出したのか、そう解釈したティトリーは出来る限り丁寧に立ち上がる。
「さっき逃げていった操者はどうなっていると思う?」
 王子はその答えを知っているようにティトリーは思えた。なぜだか分らないが、この少年は全てを知っていて、それでもあえて答えを求めているように。それでも主君の子、未来の王へ向けての礼節を失してはいけない。
「恐らくは、道の途中で獣にでも襲われているか、あるいは発狂のあまり人語をまともに話せなくなっているか……どちらにせよ、我々の事を伝えると言う点においてはあまり機能していないと思います。」
「そうか」
 王子は自らの柳眉を歪ませる事無く、淡々と返事をした。
「では、君はこれからの事をどう考える? ティトリー・ルトルア」
 ティトリーを見つめる瞳の奥には何の打算も計算も無い。ただひたすら彼の意見を求めているものだ。ティトリーは数秒間を置いてから自らの唇を動かした。
「ひとつはガイアルディアの王都へ戻る。しかしこれには危険が伴います。下に転がっている死体達の仲間がいるかもしれません。その場合私が一人で王子を守りきれる自身はありません」
「わかった。他には?」
 淡々と人の意見を聞く王子は、次の答えをせかした。前者になるこの意見はよろしくない、ということが分かっているのだろう。ティトリーはしっかりと彼を見つめながら答えた。
「もうひとつは、このまま森に身を潜めながらオリバナムに向うことです。刺客から目を欺いて進むには一番だと思いますし、この辺りの森は獣も多くいるので食料にも事欠く事は無いでしょう」
 この辺りには民家がなく、ただ道と森が延々と続いている地帯なのだ。気候に恵まれているガイアルディア周辺では野宿をしても早々風邪を引くもともなく、また食料に困る心配もない。そしてオリバナムまで行くには、森を突っ切っていくのが一番最短距離なのだ。森の中心部を流れる川に沿っていけば大人の足で三日ぐらいで到着するだろう。
 大陸内地図が脳内を駆け巡った王子は小さく頷くと、自ら草木を分けて森に入り始めた。ガザガザと悲鳴を上げる草木を尻目に、そこで休んでいる先住のものたちを尻目に王子は自らの歩調を変えずに進む。
「何をしている、ティトリー・ルトルア。早くしなければ日が暮れてしまう。一刻も早く目印の川に辿り着こう」
 一瞬だけ顔だけティトリーに向けた王子は、彼をその場に残して森の深部へと歩みを急いだ。それを呆然と見送っていたティトリーも遅れながら、彼についていく。こうしてティトリーと王子の奇妙な二人旅が始まったのである。

 二人はただ無言で深淵の森を進んだ。時折出現する蛇や大蜘蛛の巣に遭遇した時のみ、王子がビクっと身体を強張らせる動作をし、ティトリーがその原因を剣で駆除する時のみ二人の間に何か会話が生まれていたが、それ以外は何事もなく進んでいった。
 しかしそれも決して長くは続かなかった。ティトリー達が襲われたのは、太陽が彼等の真上に差し掛かったときだった。それから時間は移って、もうそろそろ辺りが茜色に染まる時間帯となってきた。基本的に森を夜間移動する事は好まれない。
似たり寄ったりの景色の中を進むと、迷う危険性があるからだ。
 だから日の光があるうちに、とひたすら道を進む王子であったが、如何せん王宮に閉じ込められていた小鳥である、体力が早々長く続くはずもない。ただでさえ獣道を進むのだから、体力の消費も激しい。昼を過ぎて、飲まず食わずで進んでいる現在、ティトリーとしてはまだまだ体力に余裕があるものの、ルリアランスにはもう一杯一杯のようにみてとれた。
 肩で息をし始めた王子を横目で見ながら、ティトリーは小さく溜め息をつく。
「王子」
「何だ?」
「僭越ながら、よろしければおぶりますが?」
「いい。君の体力も削られてしまうかもしれないだろう。不要だ」
 これで何度目か分らない同じ会話。ティトリーは再び溜め息をついた。王族としてのプライドが間違った方に働いているのは間違いなかった。
「王子」
「だから……」
 再び王子に声をかけると、拒絶の言葉をまたつむがれそうになった。その拒絶の言葉さえ人は聞き惚れるのかもしれない。しかし今は緊急事態。三日でも飽きそうにない美しい王子に向けて、ティトリーは言った。
「先程あちらの方向に小さな池が見られました。今日はそこで休みましょう」
 ティトリーのその発言に、一瞬安堵したかのような表情を浮かべた王子だったが、すぐに眉間にしわを寄せ、キッとした態度でティトリーを見つめた。
「まだ日はある。もう少し先に進んでおいた方が良いのではないか?」
 一刻も早く、一歩でも多く、王子のその気持ちを、ティトリーも分らなくもない。だが………。
「恐れながら、この先に同じような池があるとも限りませんし、何が起こるかわかりません。急く気持ちもわかりますが、体力の温存を考え、今日は……」
 彼その言葉に、一瞬瞳が揺らいだ王子は、一拍間を置いてから『是』の答えを出した。
「この辺りは蛇が良く出ますし、池の周りに行けば蛙もいるでしょう。食料には困りませんね」
 ティトリーが王子の横でそういうと、ルリアランスはえ? という表情で真横のティトリーを見上げた。
「……ルトルア家の食卓には蛇や蛙が上がるのか?」
 その視線はいたく不憫そうな色を映し出している。それには多少ティトリーもムっときた。確かにそれほど栄えている訳でもないが、かのガイアルディアの貴族である自家の名誉の為に、彼はひとつ咳払いをしてから答えた。
「いいえ。私の家ではそのようなものは食卓に上がりません。ですが、戦の最中、食料に貧した時など蛙や蛇を食べる、ということを軍で習ったので、その方法をとろうと思っているだけです」
 そう彼が答えると、王子はほっとしたような息をついた。
「そうか。貴族が……いや、国の民がそのような状態に陥っているのなら、父王を玉座から引きずり落としても国政を少し考えなければいけないと思ったんだ」
「………」
「それにしても、軍の補給線が充実していないと色々困るな。国政よりも、一度そちらの方を見直しておいたほうがいいかもしれない。国に帰ったら大臣たちと話してみようか」
「………」
 ガザガザと草木をまだ発達途上な手で掻き分けて進みながら色々思案をめぐらすルリアランスの姿を、ただただ唖然としながらティトリーは見つめた。
 この少年は一体何なのだろうか ティトリーは自分より五歳年下の、小さな少年を見つめて思う。王子といえば大抵甘やかされて育ち、横暴で我儘な性格になっているという定説がある。その証拠に、貴族の子供たちは、自らが貴族である事と、子供と言う立場を最大限利用して自分の理想を貫こうとする。
 普段はそれを煩わしく思うティトリーであるが、今回ばかりは そんな子供たちの姿こそが、子供としてのあるべき姿なのではないかと錯覚を起こしてしまう。
 国政がどうとか、補給線がどうとか、本来子供が考えるべき事ではないことを、自ら率先して考え、それを実行しようとする少年の姿は決して同じ年頃の子供とは違っていた。
 人の上に立つ未来の王として。自らが望まずとも『人の上に立つもの』として生まれてきた者として。己の身分をわきまえて行動するこの小さな少年は それを当たり前として何の疑問も持たず生きているのだろう。
 それを思うと、ティトリーは何ともいえない気持ちになった。
ティトリー自身は両親の愛を精一杯受け、自由にここまで成長してきた。勉強についても、遊びにしても、何にしても……。
では、目の前の少年はどうだろうか?大人びた仮面の下に見え隠れする歳相応の表情を見ると、彼の心が軋む。

 ルリアランスという次世代の王は、全くをもって可愛げのない子供である。それは厭味で言うのでも全く無く、子供らしい可愛げの片鱗さえも他人に見せない強い意志を持った子供という意味で だ。
 これが数時間、二人っきりで行動を共にしたティトリーの心の底からの感想であった。




「可愛げがありませんわね」
 今度はジュリエッタは声を出すことに成功できた。先ほどは不意打ちでしまっただけで、もう平気なようで、言われた本人は少しだけほっとした。
「可愛げがあってたまるか」
「いやいやいや、常に可愛げがあるぞ、王子は」
 否定を否定することは肯定に変わる。その鮮やかな流れに、アイネルトは小さく拍手を送っていた。あまりの素早さに、沈黙してしまった王子は彼女の拍手の音で現実に戻る。
「……にしても、お前この頃僕の事毛嫌いしてたんだな」
「あー……、まー……。でもそれはお互い様だろう?」
 否定をしないティトリーは、話を逸らそうとしている風にも見て取れた。その雰囲気を敏感に察し取った女性二人は小首を傾げつつ、馴れ初め話の続きを急いた。






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