13.予感

 ルーベとカノンが自由都市ディジー・アレンに滞在する期間は一ヶ月というようになっていた。それがルーベが帝都を離れられる最長期間である、という結論に達したのは今から半月前の話だった。
 その間、ルーベの仕事周りは帝都に残っているもう一人の軍権力者が片付けるということになっている。それはルーベにとって快くないものではあったが、そうも言っていられない現状があったため、彼自身の折り合いをつけた。
 もう一人の軍権力者、それは軍務省長官であるヴィルター・ロッシュ・クロイツェルである。ルーベがいけ好かないとし、カノンが苦手だというそれはそれで珍しい人物であるといえる人間は、彼らがいない帝都で執務をこなしていた。
 既に今日で二十日を過ぎる。あと一週間もすればで彼らが戻ってくるという時分だった。
「……どうぞ」
「失礼します、クロイツェル卿」
 扉の叩き方ひとつとっても人の性格が現れるのだろうか。酷く事務的に且つ単調に叩かれた扉。その主に対して、入室の許可をしたヴィルターは、変わらず柔らかな微笑を浮かべて来客を迎えた。
「フィアラート卿。これはまた珍しいお客人だ。いかがされましたか?」
「いえ、書類を見ていただきたいものがありましたので。ご多忙の中申し訳ありません」
「それも仕事のうちです」
 現れたのは、ルーベの腹心の中の腹心であるシャーリルだった。ヴィルターとは対照的に、無表情の王弟の臣下は軍務長官の机に書類を置いた。彼が近づいてきたことをいいことに、ヴィルターはシャーリルに語りかけた。
「それにしても、騎士団長はご多忙でいらっしゃいますね。管轄外の市民の声まで届いてきます」
「それだけ、彼に助けを求めるものがいるということでしょう。皇帝陛下の耳に入る前に、平民の言葉は消えてしまいますからね」
「当然といえば当然ですが」
 さらりとそういってのけるヴィルターに、シャーリルは無反応を返す。そもそも、貴族と言う生き物はそういう生き物だという事を心得ている。ただ、己の周りにいる貴族が、貴族らしからない行動をとるものが多いというのも知っている。
「フィアラート卿もご苦労なされておいでのようで」
「自由奔放な主君を持ちますと」
 この時、ヴィルターの唇に僅かに深く、笑みが刻み込まれた。
「デルフェルト卿もご苦労されているご様子です」
「……そのようですね」
「未来を担う王太子様のご教育は、熱心にならざるを得ませんしね」
「そうですね」
 シャーリルは一定の答えを繰り返す機械仕掛けの玩具のように言葉を繰り返す。この男の底が見えないとルーベが言っていたことは、あながち間違いではないことを彼は今体感していた。
「貴方にばかり忙しい思いをさせて心苦しい限りです。早く彼が戻ってくればよろしいのですが」
「折角、恋人との旅行をそのようにいっては彼も気の毒ですね」
 柳眉を八の字にし、苦笑ととれる笑みを浮かべていた若き軍務長官は、一拍間を置いた後、温度のない声でポツリと音を紡いだ。
「戻ってこられない、などという無粋な事にならなければ良いと思いますよ」
「……それはどのような意味ですか?」
 それは、今まで僅かにでも穏やかだった空気が凍りついた瞬間だった。シャーリルも、無表情から警戒の色を強めた表情でヴィルターをみやる。美貌のレイターの鋭い眼光にも一切動じず、彼は言葉を続ける。
「言葉のままです。彼らが今いる土地は、今帝国にとって折り合いが良いとは決していいがたい場所。何もこの時期に足を運ばれなくても良かったのではと思います」
「……彼も恋人には弱かったということです」
「そうでしょうか? カノン様がそのような人間には思えません。道化を演じきるには、いささか素直すぎるお方だ」
「……そのお言葉がシェインディアの耳に入れば、厄介な事になりかねませんよ」
「そうですね。フィアラート卿、くれぐれもご内密に頼みます」
 こともなげにそういうヴィルターから、温度のない声色は消え、普段『人当たりの良い温和な』彼が戻ってきているように感じた。その、鮮やかとも言える二面性を目の当たりにしたシャーリルは不覚にも、背筋に冷たい汗が流れるのを自覚する。
「それでは失礼致します」
「ええ。また何かあれば、及ばずながらお力添えをさせて頂きますよ」
「お心遣い感謝します」
「それも、軍務長官の役目ですから」
 早次にそう告げると、シャーリルは早々に踵を返した。長く艶やかな黒い髪を靡かせて彼は足早に退室した。一刻も早く、この男から離れたいと思ってしまったのだ。彼にしては、珍しい感覚だった。
 退室し、廊下を歩きながらシャーリルは思考に耽る。あの部屋に入って、解せない点が二つ。一つは、彼以外の気配があの部屋にあったこと。それはカノンの部屋にリュミエールがいるような雰囲気だった。ささやかではあるが、あの銀狼のような獣の気配を感じていたのに、それを視認することが出来なかった。もっと言えば、獣じみた人間の気配。それはまるで、シャーリルの首を狙っているかのような鋭利な気配だった。
 最も、それは押し殺された微々たるもので気のせいと言ってしまえばそれで済んでしまいそうなものであった。それでもあの部屋でそれを感じたことが、解せなかった。ヴィルターの配下のものか、それならば姿を隠している方が不自然である。
 この時、彼の脳裏にある単語が浮かんでしまった。浮かんだ単語は迂闊には音にしてはいけない類のもので、それがそれだと答えを出すには早急すぎものであった。警戒するには十分すぎるほどの意味を持つそのことを、早急にルーベに伝えなければならないものだと、彼は判断した。
 そしてもう一つは、彼に対する違和感。普段は言いようもない雰囲気が、というものが彼を取り巻いている。ルーベの言葉を拝借すれば、“いけすかない雰囲気”というそれは、悪寒に近い何かを感じさせる。そう、感じる日もあれば、温和な笑顔の人格のまま春の日差しのような柔らかな雰囲気を醸し出している日もある。まるで人間が違うかのようなその差に、ルーベもシャーリルも戸惑うことがある。それがやつの狙いなのかと勘繰ることも出来るが、どこかなにか根本的なことを見落としているのではないかとさ、彼は思う。
 とにかく、彼の存在は不気味以外の何者でもない。
「いずれにせよ……」
 不信なことがあったら、すぐに知らせるようにとルーベから言付かってるシャーリルは彼にこの違和感についても伝えなければならないと思っていた。この時シャーリルは、これから先に起こる事態をまるで想定もしていなかった。
 
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