5.女の子の約束


 見慣れた木造の建造物が近づいてくるごとに、カノンの心音は早まってきていた。品の良い緑色の瓦の張られた半円球の大きな屋根の建物は数ヶ月前と変わっていないことに、安堵も覚える。
 建物には鮮やかな深緑の蔦が絡み、幻想的な雰囲気を増していた。入り口には季節の花が咲いていて、相変わらず細やかな配慮の行き届いた店だとカノンは感心していた。店に近づいてくると、柔らかな香りが鼻腔を擽る。
「カノン様、カノン様!」
「何?」
 道々、マリアと敬語で話していたカノンだったが、彼女が猛烈な勢いで抗議をされ、年下と言うこともあり普通に喋るようになった。翡翠色の目は驚愕に彩られていた。無理もない、とカノンは苦笑する。
「こ、ここって」
「いわゆる娼館よ?」
「ななななな、何でシェインディア家のお嬢様のような方がこんな場所に!?」
 ひぃと悲鳴を上げるような勢いで絶叫するマリアを、カノンは必死で宥める。
「ここには友達がいるの。……会いに、来たの」
 少しだけ躊躇って言葉を紡いだカノンは、思いのほか緊張してしまった。その様子を敏感に察したマリアは小首を傾げて彼女を見上げた。
「カノン様のお友達でしたら、きっとカノン様をお待ちしてますよ?」
 彼女も彼女なりに、カノンを励まそうとしているらしく、必死に言葉を紡いでくる。その姿を見て柔かく微笑み、顔を上げて建物を見つめた。彼女は館に入ることを決意した。
「え?!」
「正面から入るのはお客様でしょう? 私はいつも裏口から入るの」
 そういうとカノンは正面玄関ではなく、隣接する建物との間の狭い道を入っていく。その後ろにリュミエールとマリアが続いた。

 小さな取っ手のついた扉を取り、ゆっくりと開いた。すると中からはざわざわと女性たちの声が溢れてくる。それと同時にむせ返るような甘い香りが漂う。
 空気の入れ替わりに気がついたのだろう、中の一人とカノンの目が合った。
「あーっ!! カノンじゃないーっ!!」
「え!? カノンお嬢様!?」
 一人の叫び声からその情報は細波のように広がっていき、一番扉の近くに居た女性が勢いよく扉を開き、転がる勢いでカノンは室内に入ることになった。
 色とりどりの薄い絹に似た布を幾重にも重ねた夜着を纏った女性たちが、次々に彼女に殺到する。
「ちょっとどうしてたのよ! 連絡もないから心配してたのよ!!」
「誘拐されたって! しかも怪我したんですって?! こんな綺麗な肌に傷残ってないでしょうね!!」
「いやーっ! カノンの肌に傷残ってたら、傷つけた奴私許さないーっ!」
 賑やかだった場所がそれ以上に賑やかになる。カノンはどれだけ自分が馬鹿な危惧をしていたのかと思った。この歓迎が、演技などとは到底思えなかったのだ。少しだけ目頭が熱くなるのを感じながら、彼女は入れ替わり立ち代り話しかけてくる娼婦たちと言葉を交わした。
「ねえねえ、カノン」
「何ですか?」
「そこのちっこいのは何?」
 彼女の指差した先には一人と一匹が不思議そうにこちらを見つめていた。久しぶりの抱擁に一瞬でも二人を忘れていたカノンは、そうだと言わんばかりに二人を手招いた。
「まずこっちからね」
 そういってリュミエールを持ち上げた。
「この子はリュミエールっていうんです。私の飼ってる狼で」
「狼!?」
 娼婦たちはどよめきだす。無理もない、街中では決して見かけない肉食の獣が、よもやカノンに抱き上げられ嬉しそうに尻尾を振っているなど信じられようもない。
「犬じゃないの?」
「犬じゃないんです。多分、鼠とか見たらかみ殺しちゃいますよ」
 朗らかにそう告げる少女に、娼婦たちは眉間に皺を寄せる。確かに、家畜用に飼い慣らされたそれなら鼠を見ても戯れて終わりかもしれない。だが、リュミエールは狼である。彼女自身は見たことはないが、恐らくどこかで狩りはしているのだろう。
「触っても平気?」
 カノンが大丈夫、と言う前に誰かが手を伸ばした。銀色の手入れの行き届いてる毛をゆっくりと撫でると、彼は目を細めた。リュミエールはカノンに害を及ぼそうとする人間には牙を向けるがそれ以外には無関心に近い者がある。
 故に、この場でもここで彼女たちに怪我を負わせればカノンが悲しむと咄嗟に判断した狼は彼女たちが満足いくまで構ってやろうという心積もりになったのだ。彼は、自分の頭を撫でていた娼婦の手を舐めた。
 その瞬間、娼婦たちの黄色い悲鳴が上がる。
「可愛いっ! カノン、抱かせて抱かせて!!」
「あ、いいですよ」
「あったかーい! 可愛いー!!」
「私も抱きたい! 次貸してっ!!」
 結局の所、女性は小動物が好きな生物である。まだぎりぎりその範疇から脱しえてないリュミエールはかわるがわる女性に抱きしめられ、撫でられながら、ただ大人しくそれに答えていた。
 それを見ていたカノンは苦笑しながら、屋敷に戻ったらうんと褒めてやろうと心に決めていた。あの狼は主思いの忠狼である。
 一通りリュミエールを堪能しきった少女が、再びカノンに向き合う。
「で、そっちは?」
 指を指されて身体を跳ねさせたのは、マリアである。翡翠色の双眸は、明らかに困惑していた。
「え、と。あの……」
 言いよどむマリアのかわり代わりにカノンが言葉を紡ぐ。
「そうだ、この子のことで、リリアさんにお話したいことがあるんです。今日、いらっしゃいますか?」
「姐さんに?」
「はい。ちょっとお願いしたいことがあって」
 そうカノンがいうと、階段から駆け下りてくる足音が聞こえてきた。その方向に彼女が視線をずらすと駆け下りてきたのは、今日彼女が一番会いたかった人物である。薄い紅茶色の髪は下ろされて、緩く巻かれていた。駆け下りる動作で柔かく揺れる。顔には薄い化粧が施されていて、唇に塗られた紅が鮮やかで人目を引く。他の女性たちと同様に、桃色の薄布を幾重にも重ねてある夜着を軽やかに翻しながら、他の人を押しのけて彼女はカノンに飛びついてきた。
「カノンーっ!!」
「ヴィルチェっ!!」
 彼女はヴィルチェの身体を強く強く抱きしめた。それは離れ離れになっていた恋人同士の再会の抱擁のようであり、それを仲間たちは微笑ましく見つめた。
「あんたどうして姿現さなかったのよ!! 心配しちゃったじゃない!!」
「ごめん、ヴィルチェ」
 絶対に離さないという勢いでカノンの身体を抱きしめるヴィルチェは怒鳴るように彼女に言う。誘拐事件以来の再会ということで、彼女も言いたいことがたくさんあるらしいのだが、会えた喜びが邪魔をする。
「あっ、あたしがっ! 会いたくても!! 会いに行けないんだからっ!!」
「……うん」
「怪我したって、聞いて! でも、会いにこないから、悪いのかって思って!」
「うん」
 だんだんとヴィルチェの声が涙声になってきたことで、カノンは彼女の背をそっと撫でた。涙声から嗚咽に代わり、彼女は強く強くカノンの身体を抱きしめる。
「ごめんね、ヴィルチェ」
「謝るなぁ……っ!」
 しゃくりを上げながら言葉を紡ぐ彼女はこれ以上言葉を紡げなくなった。ただひたすらカノンの身体にすがり付いて涙を流す。一介の娼婦と、大貴族の令嬢という肩書きの壁はこれ以上ないほど厚く二人の前に立ちふさがっている。
 しかし、それは二人の心の壁ではないのだ。身分は違えど、立場は違えど、二人は友達である。その事実は以上も以下もない。妙な気負いなど必要なかったことをカノンは改めて実感する。ここは友達の家だから、いつでも顔を出しに来てもいい場所なのだ。
 気後れする方が、よっぽど失礼なことである。
「や、やくそく、して」
「……え?」
「約、束」
「何を?」
 カノンの身体にしがみ付いて顔さえ上げていなかったヴィルチェが顔を上げると、紫色の双眸が涙に濡れ、照明に照らされ輝いていた。その瞳が真っ直ぐに彼女の琥珀色の瞳を見据えたまま言う。
「もう絶対、遠慮なんてしないで。誰に何て言われたって、あたしたちは友達なんだから」
「……ヴィルチェ、もしかして、カズマ様に……」
「あんな人関係ないもん! ねえ、カノン、約束して」
 カノンの腕を掴んで、まるで縋るように言うヴィルチェに彼女は驚いた。しかしその驚きを凌駕するほどの喜びに胸が震えた。自然と顔が笑みを形作るが溢れてくる気持ちのせいで上手く作れているか彼女は不安になる。
「うん! うんっ! ごめんね、ヴィルチェ。約束するっ」
「謝るなって言ったでしょ! 馬鹿カノン!」
「うん、ごめんねっ」
 そう言うとカノンは再びヴィルチェを抱きしめた。そして薄く淹れた紅茶色の髪をゆっくりと撫でる。以前、カズマに“娼婦たちの気持ちも考えろ”と言われたのだ。友達とはいえ、身分の差はある。向こうが気を使っているかもしれないし、惨めな思いを抱いているかもしれない。
 無意識であったとはいえ、無神経すぎたとカノンは思っていたのだが、それは杞憂でしかなかった。自分が訪れないだけで、これだけ寂しがってくれる人がいるのだから全部もう関係ないとさえ思ったのだ。
「えらい騒ぎになってるね、どうしたのかと思ったよ」
「リリアさん!」
 二人の会話に一区切りしたことを確認したのだろう、この店の店主が先ほどヴィルチェが降りてきたのと同じように降りてきた。明るい灰黄色のワンピースでふくよかな身を装い、それに白い前掛けをつけ、着物よりも濃い色の布で、くすんだ癖のある金髪を結っている。数ヶ月前にみたままのリリアの姿を確認したカノンは彼女に微笑む。
「ご無沙汰してます。リリアさん」
「全くだね。……色々聞いてるよ、随分大変な目に合ったらしいね。無事で何よりだ」
「お陰様で。暫くこちらに顔も出さないですいませんでした」
「うちのお姫さんたちも随分気にかけてたよ。でもま、今日来てくれたからね、帳消しだよ」
 ヴィルチェを抱きしめたままのカノンと会話をしながら移動してきた彼女は、人の良い笑みを浮かべていた。そして彼女の前までくると、仕事をする女の手でそっと彼女の頭を撫でた。
「王弟殿下のお屋敷ほど広くもないし、品のいい場所でもないけど、ここはアンタのもうひとつの家だと思ってくれて構わない場所なんだからね。誰にも気兼ねするんじゃないよ?」
「はいっ!」
「いい返事だ」
 満足そうに笑ったリリアは少しだけ乱暴にカノンの頭を撫でた。二人の目が合い双方笑いあうと、彼女は手を叩いた。
「さあお嬢さんたち、開店の準備はまだ終わってないよ! 早く動かないと時間に間に合わないんだ、きびきび働いておくれ!!」
「はいっ!!」
 美しい少女たちの声がひとつに響き、それと同時に再び室内はあわただしくなる。
「ほら、ヴィルチェも。いつまでも引っ付いてないで仕事しなさい」
「……はい」
 ぐすっと鼻を啜るヴィルチェの目元は涙で化粧が少しだけ崩れていた。それを見たリリアは苦笑する。
「おやおや、折角綺麗に仕上げた化粧が台無しだよ。店が開く前に直しておいで」
「……はぁい」
 ヴィルチェはカノンから離れ、目を擦りながら別の部屋の奥へと引っ込んでいった。その後姿を見て、リリアはやれやれとため息を付く。
「あの子も今年から客を取れる年齢になったからね。少しずつ客を取ってるのさ」
「あ……」
 この店では十七になるまで少女たちは客を取れず、下働きをする約束になっていた。年が明けて、ヴィルチェは一歳年を重ねた。つまりは、彼女はもう娼婦として仕事が出来るということだ。
「カノンお嬢様」
「……はい」
「同情なんて無用の長物だよ。分かってるだろう?」
「……わかってます」
「あんたにはあんたの生き方がある。私には私の、この子たちにはこの子たちの。だからそれについてとやかく言っちゃいけないし、自分と比べて同情するなんてもってのほかさ」
 リリアの言葉にカノンは頷く。
「ええ、分かってます。分かってはいるんですけど……。私そんなに顔に出ますか?」
 カノンが苦笑しながら彼女に問うと、リリアは頭を振る。
「いや。ただお嬢様は優しいからさ。きっとそう思ってんだろうなと思った。それだけさ」
 その言葉にますます苦笑した彼女は、一歩リリアに近づいた。
「何だい? そういや話があるんだってね?」
「はい。そうなんです。ひとつお願いしたいことが出来てしまいまして」
 カノンは入り口付近で一部始終を硬直しながら見ていたマリアを手招きした。翡翠色の双眸に明らかな不安を映し出しながら、彼女はカノンの言葉に従った。そろりそろりと歩み寄り、彼女の後ろに隠れるように立つ。
「この子が何だい?」
「この子を、このお店に置いてあげて欲しいんです」
 この言葉に、リリルはもとより、マリアが目を丸くして驚いた。
「か、カノン様?!」
「今日このまま、この子を屋敷に連れては帰れないんです。だからといって放ってはおけません。それで、頼れるのがここしかなくて……」
 つれてきてしまったのですが、と語尾を曖昧にカノンは濁した。リリアは品定めをするようにカノンの影に隠れてる少女を見つめた。
「随分若い子だね、幾つ?」
「今年で十五になります」
「ふぅん。なるほど? この子いつまで預かればいいんだい?」
 カノンの方は見ず、マリアを観察するリリアに、彼女は答えた。
「厳密にいつ、と言えないんです。ルーベ様に聞いてみないと」
「あんたの願いを王弟殿下が断るとも思えないけどね、よしわかった。面倒見てあげよう」
 リリアの言葉に、カノンの表情が明るくなる。
「本当ですか?!」
「嘘ついてどうするのさ、この場合。身寄りのない子を放っちゃおけないからね」
 そう言うとリリアは彼女に向かって片目を瞑って見せた。それを見て、カノンは肩の力を抜いた。この人に預けておけばひとまず安心だ、と思いながら今にも泣き出しそうな面持ちの少女に対して思案する。
 結局具体的に説得とも慰めともつかない言葉を紡ぎながら、カノンはしばらくこの娼館で久々の娼婦たちとの語らいを楽しんだのだった。

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