6.許せないこと


 日はめまぐるしく過ぎていく。娼館に足を運べない日々がまた続いており、カノンはマリアのことが気にかかっていた。その日のうちにルーベに話をしたのだが、『身元がはっきりしたら』屋敷に連れてきてもいい、と許可は貰った。彼がサナンに頼み、マリアの身元を調べてはいるものの、まだはっきりとしたものが出てこないらしい。
 忙しい仕事の合間を縫って探ってくれている帝国一の軍師とも誉れの高い彼にそんなことをさせているとおもうと、少し、いやかなり申し訳ない気持ちになるカノンだったが、こればかりは人を頼るしかない。
 小さくため息をつきながら、彼女が歩いている廊下は、ルーベの執務室へと続く道だった。屋敷ではなく、騎士団長として宛がわれている彼の部屋に。ここでは、彼女が身にまとう服はドレスではない。ミリアディアには、華美でなければと言われているのだが。上は白い詰襟のシャツ、その上に紺色の上着を着て、漆黒のスラックスをはいて、髪を一筋の乱れもなく結い上げれば否応なく気合いが入るという物だ。
 今のカノンの姿は、さながら男装麗人のようである。
 ここはルーベの屋敷ではなく、城の中である。彼女にとって、敵陣と言っても過言ではない場所だった。しかし、サナンと共に城内に入り、軍務の会議に出席することにもだいぶ慣れてきたカノンは、会議の場でも適切に気負いなく発言ができている、と彼に褒められる。
 思ったことを言う、のではなく、何が必要であるかを考えて発言することがどうしてもディジー・アレンについて気になることがあり、話を聞きたいことがあったのだ。幾度となく公の場で上がる『ディジー・アレン』に興味を持つな、というほうが無理である。
 元々、自由都市ディジー・アレンはエルカベル帝国の中で唯一、帝都から派遣された総督によって治められていない自由都市だったという。犯罪者や外延大陸からの流れ者、主人の下を脱走した奴隷などが一箇所に集まり、身を寄せ合うようにして生活する共同体に過ぎなかった場所である。
 しかし、今から七百年以上昔、皇歴八〇〇〇年、前王朝を妥当したジェシス・ロウ・ジス・レヴァーテニアによって自治を認められ、以来、特別に税を免除された場所として、独自の地位を築くに至っている。
 ディジー・アレンの前身だった傭兵団が、ジェシスに協力を近い、前王朝コルトラーンを打ち破るに当たって、多大なる功績を残した。皇室の盟友とも言える存在だったディジー・アレンと、ジェシスによって樹立されたエルカベル帝国の間に亀裂が生まれたのは、第三十代皇帝の治世が半ばを過ぎたころだった。折りしも、数十年ぶりといわれる大規模な飢饉に見舞われ、農民や奴隷による反乱が相次ぐようになったエルカベル帝国は、自治を守っていた自由都市にも税を課すことを決定した。その要求は突っぱねられ、帝国からの使者が手荒い歓迎によって追い払われて以来、ディジー・アレンとエルカベルの仲は急速に冷えていった。
 そして、皇歴八四ニ九年、地方都市連合が自由都市ディジー・アレンを盟主と担ぎ上げ、即位してまもない黎明帝シェルダートに反旗を翻したとき、両者の間に横たわる溝は修復不可能なほど決定的なものになった。
……歴史書を紐解いて得た情報を基にしていくと、帝国と自由都市とは、犬猿の中、というほど仲が悪いわけではないらしい。『皇室の盟友』とさえ称された時代と、修復関係不能ななほど溝が深まった時期とを繰り返している。
皇祖帝の時代は、旧帝国を打倒することに力を貸したといわれている。今の時期は『盟友』として称されている時代なのに、どうして今、自由都市に攻撃を仕掛ける必要があるのだろうか。カノンはそれについて思うところがあった。
 廊下を歩いていると、前方から見知った顔の人物が二人、歩いてきていた。向こうもこちらに気づいたらしく、人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべてこちらを見やる。彼女は嫌な顔ひとつせず、微笑んでみせた。
「ごきげんよう、ベッケラート卿、ディッペル卿」
「ああ」
 強い癖を持った栗色の髪を高い位置で一本に結んでいる、焦げ茶色の目をしている男がナダル・キリア・ベッケラート。濃い亜麻色の髪を下の方で緩く結んでいる茶色の目の男がレディス・ウォール・ディッペル。この二人の壮年の男は軍務省の人間であり、ディジー・アレンへの攻撃推進派でもある。彼らの来た道を推測すると、おそらくはルーベの部屋に訪れたのだろう。騎士団と軍務省は歴代仲が悪いと言われてるにもかかわらず、それでも彼のもとに訪れるということは、何が何でも強行したいということなのだろうか。
「あなたの婿殿は非常に頑固でおられるな」
「これだけ言っても聞く耳さえ持っていただけないとは。……何かディジー・アレンを庇いだてをしているようで。一体あの方が何を考えているのか、卑賤の身には考えも及びませんよ」
 彼らの悪意を隠さない言葉に、カノンは隙のない笑みを浮かべて言った。
「あの方は正しい道をお進みになりますから」
 その一言で、彼らの顔が強張る。それに彼女も気が付くが、それ以上も以下もない笑みを浮かべてただ相手の出方を待っていた。
「正道は、皇帝陛下にあるのだ! いくら弟君とはいえ、騎士団長という地位にありながら、皇帝陛下の御心を踏みにじるような行為はあってはならぬはずだろう!?」
 唾を飛ばさん勢いで言葉を放つナダルに涼しい顔をしてカノンは答える。
「最もです。皇帝陛下はこの世で最も尊いお方。その方の御心が心安らかでいられるように、政を行うことが臣下の務めであることは、心得ております」
「ならば! なぜ、足並みを揃えぬ!! 今こそディジー・アレンから自治の権利を剥奪し、団結せねばならぬときではないのか!」
 レディスもナダルに加勢するように言葉を放った。ルーベに投げつけ、そして粉砕されたであろう言葉を次々とカノンに投げつける男たちは大人気ない、以外の何者でもない。それを少しは怖がったように聞いていれば少しは可愛げがあるかもしれないが、彼女は動じず、毅然とした態度で言い放った。
「それこそ、陛下の御心を乱すことに繋がるのではないのですか? 悪戯に兵力を使い、死人を増やし、民の不信感を買うことが、今の政に必要だと本気で思われていらっしゃるのですか?」
 その言葉に、表面上平静を保とうとしていた二人は取り繕うとことも忘れて、怒鳴りだした。
「女風情が政を語るな!!」
「軍務と政の折檻役である軍務省のあなた方が、このような偏ったことを語るんですか? 折り合いをつけるためとはいえ、あまりにも偏りのあるご意見だと常々思っておりました」
 カノンは一歩も引かない。
「色狂いした騎士団長なぞの言うことを信じるほうが、愚かだというのだ!! このような小娘に意見されるようでは、騎士の恥だろうっ」
「全くだ! 情勢も分からず、自らの立場もわきまえぬとは!! 貴様など、シェインディア家の威光がなければ、われらとこのように言葉を交わす機会さえない卑賤の身でありながら、何たる侮辱! 恥を知れっ!!」
 むしろ恥を知るのはお前たちのほうだ、とカノンは無表情に思っていた。その態度が気に食わないのか、男たちは顔を赤くしてますます怒鳴る。
「何とか言ったらどうなのだ、この売女の娼婦風情がっ」
「え?」
 その言葉には、さすがのカノンも驚き、目を見張る。
「男に縋らねば生きていけぬ分際で偉そうに!! お前らのような奴隷はおとなしくわれらの言う言葉だけに頷いておればいいのだ!!」
「その奴隷に言いように誑かされ、脳が溶けているような器にはなりたくないものだな」
 彼らの言葉が、誰の何を揶揄しているのかを分からないカノンではなかった。声高に笑う男たちに対して、彼女は静かに、ではなく紅蓮のような怒りを抱いた。腸が煮えくり返る、とはこのような時に使うのではないかと思うほど、彼女は怒りを覚えた。
 さすがにその空気に気づいた男たちはわずかに顔を引きつらせる。しかし、所詮は……と思うのか、彼女の鼻で笑う。
 彼らは彼女に対して、許せないことを言ったのだ。自身について言われるならいざ知れず、ルーベのこと、シェインディア家の兄弟のこと、ペディグレインの友たちのことを悪く言うのだ。聞き逃せばいい、そ知らぬ顔をすればいい、そう頭の片隅では思うものの、彼女はどうしても聞き捨てならなかった。
 この世界に来て、自分に優しくしてくれた人たちを悪く言う人間を許せるほど、カノンは優しくなかった。また、受け流すことが出来るほど大人でもない。琥珀色の双眸が怒りに彩られ、怒りのあまり身体が震える。
「ふざけていらっしゃるのは、どちらですか?」
「何?」
「自分の低能を棚に上げて、人の悪口を仰る語彙力だけはおありなのですね。関心いたします。私の出自が例えどのようなものであっても、あなた方が仰った言葉は全て、我が家とライザード家を愚弄すること。それに娼婦を蔑むあなた方が、どれほどその世話になっているか想像することは容易いことですけれど」
 相手が言葉を詰まらせている間に、彼女は再び口を開く。
「このような小娘相手に反論さえ出来ないような方々が、政の中枢を担っていると思うと、この国の未来も危ぶまれますね!」
 そうカノンが言い放つと、憤慨した二人は彼女との距離を詰め怒鳴りつけた。
「黙って聞いていれば好き勝手いいよって!!」
「黙っていたのはそちらでしょう? 何も黙って聞いていてくれなんて頼んでませんが?」
 そういうと、ナダルが太い指で彼女の細い手首を掴んだ。手首を捻じ切るように強く握られた皮膚が小さく悲鳴を上げるが、カノンはそれを表情に出さず、ただ彼らを睨みつける。
「ああいえばこういう!! 生意気なガキがっ!!」
「そのガキ相手に口で勝てなければ、力でねじ伏せようと? 随分と浅はかなお考えですこと。ですからルーベ様にも門前払いをされるでしょうし、娼婦にも馬鹿にされるんですよ」
 負けずに彼女がそう言い返すと、レディスのほうが彼女を怒鳴りつける。
「黙れ毒婦めっ!!」
「私が毒婦と言うのなら、貴方たちは城に寄生する害虫ですね。お互い様じゃないですか」
 毒婦とはまた言われようだ、と思っていると次の瞬間、頬に熱を感じた。遅れて耳に音と、頬に痛みを感じ彼女はしばし呆然とする。殴られた、と気づいたのはまたその一拍あとだった。自覚すると痛みはどんどん広がっていく。
「礼儀を教えてやるっ! こいっ!!」
 鼻息荒く、興奮した様子のレディスのほうが自分を叩いたのかと冷静に思いながらも、当然連れて行かれるつもりのないカノンは叫ぶように言う。
「あなた方に教えて頂く礼儀など、必要ありませんっ! 離してくださいっ」
 手首を掴んだ手を離そうと、自由の効く手で爪を立てるものの、ナダルはびくともしない。ルーベの執務室として使用している部屋からここまでは、まだだいぶ距離があるため気づけというほうが無理な話だろう。もっとも、執務室に近い場所であったなら、この二人もこのような暴挙にはでなかったはずである。
 カノンが渾身の力を込めてナダルの脛を蹴ると、彼は顔を歪める。
「貴様っ! 卑賤の身でありながら、誉ある貴族の足を蹴るとはっ!!」
「……っ!!」
 レディスがもう一度カノンを殴ろうと、手を彼が上げ、彼女が反射的に目を閉じる。しかし、衝撃は襲ってこなかった。彼女がゆっくりと目を開くと、彼女の双眸に映ったのは軍務省の長官の姿だった。
「クロイツェル卿……?」
 カノンが彼の名を呼ぶと、振り上げたディッペルの手首を掴んでいる彼が申し訳なさそうに微笑んだ。
「大丈夫ですか? シェインディア嬢。……ああ、頬が少し腫れてしまっていますね。申し訳ありません」
 そういいながらも、ナダルの手首を強く握り締めているのか、彼は苦悶の声を上げていた。
「いつまでシェインディア嬢を拘束しているつもりなんだ、ベッケラート。離せ」
「はっ!!」
 即座にカノンを掴んでいた手を離すと、カノンは解放され、赤くなった手首を押さえる。
「二人とも、どういうつもりだ」
 突き飛ばすようにレディスを解放し、二人並んでヴィルターに跪く姿を、カノンはただ見つめるしかない。
「大の男が、女性に対して何てことをしている。あまつ、暴力を振るうなど言語道断」
「いえ、ですが閣下。あの女が……っ!」
 ナダルが顔を上げ、懇願するようにヴィルターを見つめるが、彼は絶対零度の視線を彼に投げつけた。
「あの女? それはシェインディア嬢のことを言っているのか? ディッペル家も偉くなったものだな」
 その言葉に、彼の表情は凍りつく。
「お前もだ、ベッケラート」
「はっ」
「図星を指されて逆上するなど、もってのほかだ。お前たち二人、しばらく謹慎していろ。追って処罰を言い渡す」
 冷たく放たれた言葉に、二人は顔面蒼白になりながらも弁明をしようと口を開く。しかし、彼の眼光に声をつむぎだすことが出来なかった。
「ここで騎士団長殿にこのことを告げれば、そっ首刎ねられかねないだろう。早く消えろ」
「はっ! し、失礼致しますっ!!」
 二人は言うが早いか脱兎のごとくその場を後にした。まるで嵐が去ったように、その場には静寂が訪れる。ヴィルターが現れたことで、収拾がついた場であるが取り残されたカノンとしては安堵の息をつく、というよりも面白くないといったほうが強い。
 確かにあの場では彼に助けてもらえなければ、どうなっていたかわからない。しかし、まだまだ言い足りない怒りを胸にしている彼女からしてみれば、素直に礼を言うのが難しかった。
 ふと視線を上げると彼と目が合い、カノンがどうしようか口を浅く開くよりも早く、彼の手がそっと叩かれ彼女の頬に触れる。ひんやりと冷たい手が、熱を持った頬には気持ちよかった。
「腫れてしまってますね。申し訳ありません、シェインディア嬢。管理が行き届いていないばかりに、貴女の顔に傷をつけてしまった」
 眉を顰めて痛々しそうな表情を浮かべる軍務省の長官に、カノンは逆に申し訳ない気持ちが生まれてきた。何もこの人が悪いわけではなく、この人の責任でもない。
「いえ、クライツェル卿のせいではございません。私も多少口が過ぎてしまいましたから。こちらこそ申し訳ありませんでした」
「いいえ! 貴女が謝罪をする必要なんて微塵もありません。それよりも、手当てをしないと」
 そういうが早いか彼は彼女の手を取り、カノンが歩いてきた道を早足で歩き始めた。
「え?」
「その顔で騎士団長殿の下へ行くおつもりでしたら、止めはしませんが?」
「あ……」
 確かに、硝子窓に映る自分の横顔は確かに赤く腫れている。この顔を見たら優しいルーベは烈火のごとく怒ってくれるだろう。そしてその分心配もかけてしまうことになる。困ったように眉を顰めているカノンに、ヴィルターは優しく微笑みかけた。
「大丈夫です。冷やしておけばすぐに治ります。私の部屋にとりあえず行きませんか? ここではいつ人目についてしまうかわかりませんからね」
 カノンは彼の言葉に納得し、とりあえず手当てをしようと考え彼に手を引かれるまま、付いていくことにした。その様子に小さく笑ったヴィルターに、彼女は気づくことが出来なかった。


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