4.鴉の欠片


 蒼穹は何処までも広がっていた。降り注ぐ太陽の陽射しは暖かく、頬を撫でる風は心地よかった。晴天の下歩くカノンは自然と自分の頬が緩むのを感じながら、久々に一人での外出を楽しんでいた。思えば、リファーレに連れ去られた時以来、一人で外出する機会はなかった。自ら外に出たいということもなかった。
 それはペディグレインに足を向けないということに対していい口実でもあった。以前、カズマに娼婦たちの気持ちを考えたことがあるのかと問われた時、自分はどれほど無神経だったのかと気がついた。
 カノンとしては、同じ年ごろの友達が出来たと、ただそれが純粋に嬉しかった。そればかりで、相手の気持ちを考えていなかったことは否めない。今日も今年に入って初めて彼女たちの元へ赴こうと思っているのだが、受け入れてもらえるだろうかと内心不安で仕方がない。
 琥珀色の双眸が揺らめいたのを感じたのか、足元に温もりを感じる。
「……リュミィ」
 くぅんと鳴きながら、彼女の足に鼻を押し付けるように顔を押し付ける愛狼に、カノンは微笑みかけ持ち上げた。
「ありがとう」
 顔の高さまで持ち上げるには、困難な大きさになってきているが、まだ中型犬よりやや小さい程度の大きさの為彼女でも持ち上がる。リュミエールはぺろりと彼女の頬を舐めた。カノンは擽ったそうに目を細める。この狼は、少しでカノンが落ち込んでいると側に寄ってきて、こうやって慰めるように頬を舐める。
「大丈夫よ。行こう、リュミィ。……私の友達を、貴方にも紹介するわ」
 そう言うと、リュミエールはうれしそうに吼え、尻尾をはちきれんばかりに振る。そんな生き物に微笑みかけると、カノンは彼を抱えながら道を進んだ。
 緩く一つにまとめた、亜麻色の絹のような髪とスカートの裾が、彼女が動くたびにふわりと揺れる。膝丈よりやや下ぐらいの長さのそれは、太腿に巻きつけてある隠し武器を仕込ませる為にある程度の長さは必要である。
青藍色が地となり、襟元やそで口、スカートの裾には白いレースがついている。カノンが普段屋敷で着ている服に比べると、大分簡素な装いだが、ルイーゼと壮絶な衣装談議の結果、彼女が勝利を収めこの装いとなったのだ。
久しぶりに足を出しているせいもあり、少しだけ落ち着かない感じはしているカノンは、随分こちらの世界に慣れてきたと感じていた。一年前、この世界に誘われて以来、普段では絶対に着ることはないドレスを身にまとっている為、足を出すことが少なくなってしまっている。
 そんな自分に苦笑しながら、店の並びを覗きながら歩いていくカノンはまた別の違和感を感じた。数ヶ月前に来たときは、もっと出店が多かった。数ヶ月前というものであっても、はっきりと彼女は記憶していた。辺りを見回しながら、ここには宝飾屋があった、ここには洋服屋があったと。明らかに空間が空いてしまっている場所もある。にわかに以前よりも活気がない道を歩いていると、前に買い物をした肉屋が残っていたことに安堵する。
 だが、数ヶ月前には列が出来るほど盛況だった店が、店の前には一人、二人いる程度でお世辞にも繁盛している店、とは言い難い有様になってしまった。
「……こんにちは! 一本、いただけますか?」
「へい、らっしゃい! 毎度ご贔屓にどうも……って、ああ、お嬢様! お久しぶりですな」
 店主は軽く目を見張らせてカノンを歓迎した。だが。大柄で、人懐っこい笑みを浮かべる店主は覇気がないように見えた。炭で焼いている肉の量も以前に比べたら遥かに少ない。
「お久し振りです、お元気でしたか?」
「へえ、手前どもは元気にしておりますとも! お嬢様は? 体調を崩されたと聞きましたが?」
「あ、もう大丈夫です」
「そうですかぃ。そいつぁ良かった。 てっきり赤ん坊でも出来たのかと思ってやしたよ」
 カカカカっと豪快に笑う店主にカノンは少しだけ頬を赤く染める。そのカノンの姿を見た店主はさらに笑い、肉を焼き始める。
「少し待っててくだせぇな。今から焼きますんで」
 手際よく、生肉が櫛刺され火に乗せられる。時折割れるような音を立てて燃える炭の音を聞いていると、程なく肉の焼けるいい匂いが漂ってきた。その匂いに反応したのはカノンよりもリュミエールなのだが。ぱたぱたと尻尾を振って、じっとカノンを見上げる生き物に苦笑しながら、言った。
「あの、すいません。お金、払うんで生のお肉を一切れいただけませんか?」
「えぇ?」
「この子も食べたいらしくて」
 カノンがそういうと、足元でリュミエールは自分の存在を店主に示すべく、大声で鳴いてみせた。
「お嬢様、犬でも飼い始めたんで?」
「……ええ」
 ここで狼といっては驚かれるだろうと思い、彼女は語尾を濁した。
「でもお嬢様、肉は今値が上がっちまいまして、一人前カルス銅貨一枚と、アルク銅貨五枚になっちまって」
「そうなんですか?」
「最近ものの値段が上がっちまいましてね。こっちもこんだけ値ぇ上げないと商売できないんですよ」
 肉が焼けていく音と匂いが鼻腔を擽る中、焼いている店主の表情は徐々に暗くなっていく。
「物が回らなくなってきちまってるんすよ。何でもお偉い様方がみぃんな買い占めちまうって話で、一体何が起こってるんでしょうかねえ」
 カノンはそれを聞きながら、最近妙に宴の類が多くなり、貴族の面々がいつもに増して煌びやかな装いをしていることを知っていた。競うように開かれ豪華な宴に、貴族たちは贅を尽くす。そのため金に物を言わせて、さまざまな物を買い集めてしまう。
 当然、物の流通に混乱が起こる。市井の者に物が回らなくなってしまうのだ。どこかの歴史で聞いた事のある出来事に、彼女は嫌な予感を感じざるをえなかった。
「ああ、気を悪くしちまったら、すいません。ただこっちも商売ですからねぇ。愚痴っぽくなっちまって」
「い、いえ。大変ですね」
 カノンはそういうのが精一杯だった。

 この後、カノンは串焼きを購入し、リュミエールに生肉を貰いそれを与え、店を後にした。串焼きを待っている間も、客足は芳しくなかった。
「このこと、ルーベ様は当然ご存知よね……」
 柔らかな肉を咀嚼しながらカノンは一人呟く。彼のことだから気付いていないはずはない。だが、ルーベは貴族たちの行動を制するような権限もなく、仮に口を出したとしてもそれほどまでの効果はない。
 思案をめぐらせていると、リュミエールが身体をカノンの足にこすり付けてきた。
「どうしたの、リュミィ……?」
 カノンが下を向くと、遠くから男の怒声が聞こえてきた。恐らくその音を感じた彼が、彼女にそちらへ行くなと合図をしているのだろう。主人思いの狼に、カノンは小さく微笑みかける。確かに、揉めている場所へ足を運ぶのは得策ではないと思い、彼女は別の道を行こうと踵を返すと、後背から走ってくる音が聞こえてきた。
 誰かが負われているのだろうか。カノンが少しだけ振りかえると、走っているのは年端もいかない少女だった。恐らく、ヴィルチェと同じ年齢か、それよりも年下かといった頃合の少女である。
 肩まで伸びている金色がかった茶色の髪を乱しながら走る少女の、翡翠のような美しい双眸は恐怖に彩られていた。肌は薔薇色の輝きをしており、あどけなさはあるものの、数年もすれば国でも評判の美女になりえそうな少女は、これでエプロンを着けたら侍女服と何ら遜色がなくなってしまうような、漆黒のワンピースを身に纏っている。胸元が僅かに乱れている所を見ると、何者かに襲われてしまって逃げている最中なのであろう。
 少女はカノンと目があうと、一目散に彼女に飛びついた。
「え?」
「た、助けてくださいっ!!」
 縋りつくようにカノンに抱きついた少女は、しゃくりを上げて泣き始めてしまった。カノンは片手で串焼きを持ち、片手で少女の背に手を回すという珍妙な形になってしまい、小首を傾げる。とりあえず、串焼きを足元に落し、リュミエールに与える。
 カノンはとりあえず、自分よりも小柄な少女の肩を抱き、狭い路地裏へと入っていこうかとしたその時だった。
「居たぞ!」
 普段彼女が聞いている声とは真逆といっても過言ではない男の声に、カノンは素直に嫌悪を表してみせた。一人の男の声に反応して、やってきた仲間は四人。四人がかりでたった一人の女の子に何をしようと言うのか。腕の中の少女は男の声を聞いて、体の震えが増してしまっていた。
 カノンはそんな少女を落ち着かせるように背を撫でながら、男たちを睨んだ。
「何だァ? お嬢ちゃんも、その女の仲間か?」
「そうよ、と言ったら?」
「じゃあお嬢ちゃんも付き合ってもらわねぇとなぁ。コイツは俺たちにぶつかっておいて謝りもしねぇで行こうとしたんだ。随分とまぁ不躾じゃねえか」
「そうなの」
 カノンは平静なふりをして言葉を紡ぐ。
「何に付き合えばいいの?」
 彼女の言葉に男たちは下卑な笑みを浮かべながら言う。
「かまととぶんなよ、分かってんだろ?」
 男の一人がカノンと少女に向かって手を伸ばす。カノンは無表情でただ下劣な存在を見つめていた。次の瞬間、悲鳴を上げたのはカノンたちではなく、その手を伸ばした男だった。
 鋭い牙が、彼の足に突き立てられたのだ。
「いってぇぇ!!!」
 耳障りなほどの悲鳴を上げる男に噛み付いたのは、他でもないリュミエールだった。素早く、深く牙を突き刺した彼は、振り払われる前に、自ら離れ地面に着地する。唸り声を上げながら毛を逆立たせ、牙をむき出しにしてカノンの前に立つ彼は、さながら騎士のようだった。
 男は地面に転がり血の流れ出した足を押える。
「もしも、本当にこの子が貴方たちにぶつかったのなら謝ります。申し訳ありませんでした」
 リュミエールが噛み付いたことには一切謝罪せず、男たちの指摘したことだた一点においてのみ、カノンが謝罪の言葉を紡ぐ。
「見たところ、骨が折れたとか、出血多量とか、そのような怪我は見受けられないですし? 必要なのは謝罪なのでしょう? これで終わりにしてくださいませんか?」
 顔を上げたカノンは輝かんばかりの笑顔だった。男たちは口元を引くつかせて怒鳴った。
「ふざけんなっ! 今こいつが怪我しただろうがっ!!」
「あら? それは私のせいになるんですか?」
「その犬っころはてめぇのだろうがっ!!」
「否定はしません。この狼は私の飼っている子ですから」
 その単語を聞いた男たちは一瞬怯んでみせた。彼らは今だ牙を向き、今にも襲ってきそうな獰猛な生き物を飼いならしている得体の知れない女がどれほどの手練かはかりかねている。
 このまま立ち去ってくれたらいい。そう思っていたカノンは、少女を抱いていない片方の手で自分の太腿あたりに手を持っていく。直ぐにでも裾を翻し、短剣を掴む準備をする。生身の人間を相手に刃を使ったのことのない彼女にとってそれは、緊張を強いるものであった。
 ……カノンの願望は叶いそうに無かった。一人の細身の男が一歩前に出た。顔色の悪い、くすんだ茶色の髪に、生気の無い藍色の双眸を持つ男は、まるで幽霊のようにゆらりゆらりと安定しない立ち方をする。
「随分じゃじゃ馬みてぇだな」
「今時じゃじゃ馬なんて言葉使わないんじゃないですか?」
 あまりにも素直に言葉を出す。しかし、その男は挑発には乗らず、顔を下げてクツクツと笑って、靴で地面を蹴る。
「長く飼うなら、多少傷がついてもかまやしねぇよなぁ」
「兄さん!?」
 他の男たちが『兄』と呼ぶ男。どうやら彼がこの一段の首謀者らしい。その男の目には狂気の色が見て取れた。それを見たカノンは背筋に嫌な汗が流れる。腕力でこられてどこまで対応できるか自信が無かった。護身術程度に身につけたものが実践でどこまで役に立つのかは未知数である。
 そのようなことを思っていると、男はニヤリと笑いながら手をかざした。その仕草に、カノンは見覚えがあった。
「火力は調節してやるからよっ!!」
 放たれたのは紅蓮の、というには若干弱い炎。シェラルフィールドの人間は皆魔力を持ち、それを操れると聞いているが、市民にこのような火を操れる人間がいるのだろうか。頭のどこかで冷静にカノンは思っていた。
「きゃあっ!」
 少女の方が目をきつく瞑り、カノンにしがみ付く。彼女を庇うように抱きしめ、愛狼に声をかける。
「リュミィ、私の後ろに!」
 それと同時に炎がカノンに到達する。酸素を巻き込み燃える炎を見て、逆に男たちが青褪めていく。
「に、兄さんちとやりすぎじゃあありませんか?!」
「これじゃあ無事じゃすまないでしょう!」
「大丈夫だって。調節してあるっつったろ? 熱さは感じるだろうが着てる物がボロボロになる程度だ」
 その言葉に、にわかに男たちが活気出す。その声を聞いていたカノンは浅く笑った。男たちは頭的立場の男を囲み喜びの歓声を上げているので気付かない。だが一人。魔力を放った男だけは気付いてしまい、みるみるうちに表情が青褪めていく。
それに気付いたカノンは嫣然とした笑みを浮かべて言った。
「……これで終わりなら、私たちはもう失礼して良いですか?」
「なっ!?」
 カノンの声に愕然とする男たちは、信じられない物を見るような目つきで彼女をみやる。当然、腕の中の少女も目を丸くしてカノンを見上げていた。少女にカノンは優しく微笑みかけた。
 一拍後、魔力を放った男がさらに愕然とした表情で絶叫する。
「あ、アンタ、まさか……っ!!」
「貴方、もしかして騎士団にいた方?」
「……っ!」
 男の態度は明白だった。
「なら、ルーベ様にお聞きしたら直ぐに面が割れますね。今、ここで私を殺したとしたら、なおのこと足がつく可能性が高くなりますよ?」
 カノンは歌うように言葉を紡いでいく。
「カノン、様っ!!」
「あら、ご存知でした?」
 わざとらしく意外そうな顔を作るカノンをみて、あからさまに男たち態度を変え、腕の中の少女は身を硬直させる。
「今すぐこの場に第一位階の騎士の皆様を呼ぶことも私にはできます。さあどうします?」
 分が悪いことを察した男たちは意味不明な叫び声を上げながら、蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。巷でも、『王弟殿下の婚約者』の話題は有名である。ましてや理由はわからないが“騎士崩れ”の人間が、彼女を知らない訳が無い。
 それにしても、とカノンは思った。
「まるで水戸黄門の印籠ね」
 ルーベの名、ひいてはライザードの名は効果絶大である。それはさながら時代劇の一幕のように。この世界では誰にも理解されないであろう単語を呟きながらも、ほっと息をつくと、腕の中の少女が小さく動いた。
「あ、大丈夫ですか?」
 少女は何度か金魚が餌を求めるように、ぱくぱくと口を動かした後、ようやく音を発した。
「あの……っ! 助けてくださって、ありがとうございました!! そして、ご無礼失礼致しました!!」
 バッとカノンから離れ、少女は深々と頭を垂れる。その動作に彼女のほうが慌ててしまう。頭を下げる少女の顔を上げさせながらカノンも言った。
「え、え! そんな恐縮しないで大丈夫ですよ! たいしたこと出来てないですから」
「ですが、王弟殿下の婚約者様に助けを請うなんて! ま、ましてやその、抱きついて、しまって」
 かあと顔を赤く染める少女の反応を見て、カノンも一緒になって赤くなってしまう。
「でも、あの状況じゃ仕方が無いですよ?」
「でも、あの、私、どうしたら……。こんなご無礼を働いてしまって」
 赤くなったと思ったら、今度ははらはらと泣き出してしまった少女を見て、彼女はゆっくりと頭を撫でた。
「じゃあ貴女の名前を、聞いてもいいですか?」
「え?」
「私はカノン・ルイーダ・シェインディア。貴女は?」
 同性でも惚けてしまいそうなほど、柔らかな笑みを浮かべ、あまやかな声で聞いたカノンに、少女はすんと鼻を啜ってから、答えた。
「私は、マリアと申します。」
「マリア?」
「はい。と、年は今年で14になります」
 カノンは彼女の名前を復唱した。
「……どこかで、侍女をしていたの?」
「いいえ」
 マリアは頭を振る。
「いいえというより、分からないんです」
「分からない?」
「はい。マリアとは呼ばれておりました。……先日、乗っていた馬車が襲撃にあいました。私は寸でのところで逃げおおせたのですが、他の仲間がどうなったのかはわかりません」
 カノンはその言葉に、禁じられている人身売買―――奴隷売買を感じ取った。
「普段はこの格好で鎖に繋がれて、石畳の部屋に何をするでもなく閉じ込められていました。呼ばれた女の子たちが呼ばれて出て行くと、二度と戻ってきませんでした」
 彼女の表情は暗い。カノンはその言葉を聞いていて、沈痛な面持ちになる。
「私、行く先もわかりませんし、これからどうすればいいのかも、わからないんです……っ」
 マリアは次第に涙ぐんできてしまった。その様子を見ていたカノンがどうしたものかと思案していると、俯いていた彼女が勢いよく顔をあげ、そしてそのままカノンの手をぎゅっと握り締めた。
「あの、カノン様っ!」
「はい?!」
「差し出がましいお願いなのですが、どうか私を拾ってくださいませんか!?」
「えぇ!?」
 カノンは突然のマリアの言葉に、面を喰らい逆に硬直してしまう。
「これから先、行く場所がないのです。またあんな悪漢に襲われたら、私……っ!」
 翡翠色の両目いっぱいに涙を溜めて見上げる少女に、カノンは即答しかねてしまった。しかし、身よりもない少女をそのままにすることも出来ない彼女は、必死に訴えかける少女を、とりあえず目的地へ連れて行くことを決意した。


BACKMENUNEXT

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送