14.赤の語り部と


 剣をルーベの屋敷に持って返ってからしばらく経って、カノンは夢を見た。今まで幾度もなく夢は見てきたが、これもまた不可思議な夢だった。冷たく澄んだ空気が肌に心地よかった。カノンはゆっくりと瞳を開くと青い闇が広がる。
 そのあとすぐに何とも表現しがたい浮遊感に襲われ、一瞬息を飲んだが、地面に足がついた感覚を感じると、彼女は苦笑した。そして、これが夢だということを確信する。
 蛍の灯火のような粉雪がさらさら、さらさら降りしきり、目に見えない大地を通り抜けて闇の底へと消えていく。そんな幻想的な雰囲気に、カノンは目を細める。辺りを見渡しても、どこまでも続く青い闇と、降り注ぐ銀光と、底の見えない闇。
 世界を彩る僅かな灯火と色彩を視界に捕らえつつ、カノンは靴を履いていない足を一歩、踏み出した。冷たい大地を踏みしめた感覚が、身体に伝わり、大地もまた水滴の打たれた湖面のように波紋を広げるた。
 水の音が静かに反響する世界には何もなく、しんしんとした静けさに僅かな不安を抱きながら進んでいくと、程なく人と出会った。いや、正確に言えば人を『見つけた』のだ。
 恐ろしく、人離れした『人』、を。その人物はしんしんと降り注ぐ銀の光を手で掴もうとしていたのかもしれない。それともただ、手の平にその銀の光を集めたかったのかもしれない。
 いずれにせよ、彼の思惑通りに事は進んでいないようだった。銀色の光は彼の手の上で霧散する。それ見て、カノンから見える彼の横顔は浅く笑っているように見えた。

 彼女の琥珀色の瞳が捉えたのは、青い闇と、銀光と、暗闇の世界に浮かんだ紅蓮の炎。しかしそれは、浮き上がる炎ではなく、彼の首筋に遊ぶ短めの髪色。カノンは今まで数人、彼女は「赤」という色を映してきた。
 しかし今目にしている赤は、どこまでも赤い。それは人の液体ではなく、どこか落日を思わせる赤。見ているだけで、体の奥がジンとするような色だった。髪の赤と、衣服の黒のせいか、覗く肌の色がとても白く映ったが、それは錯覚だった。
 彫の深い顔に、均整の整った体躯、鮮烈な姿に目が奪われ、目がそらせない。しかし、その顔にカノンは見覚えがあったのだ。嘘だ、と思いつつその人物は確かに彼女の脳裏に刻まれていた。
 忘れようとしても、そう忘れられるものではない存在。
「……嵐(らん)、先輩?」
 元の世界で、地球で、日本で、学校で。名前を効かない日は無かった。少なくとも、女子校に通っていた頃は毎日聞いていた有名人にあまりにそっくりで。カノンはそれ以上の言葉を失った。陽宮女子学園の近隣に建つ月篠学園、その『月篠四兄弟』と称される、叶の四兄弟を知らない人間などいないといっても過言ではない。
 生徒会に関わることで、カノンも彼等と多少の面識はある。だからこそ、カノンは今、彼の名を唇に乗せたのだ。だがしかし、そんなことはあるわけないと、早まる鼓動を抑えようとしつつも、そんな事が出来ないまま、彼女はその人物を見やる。しかし、瞬きをした瞬間先ほどまでいた人物が消えていた。
「……っ?!」
 先ほどまで、存在したいた人が消えカノンは息を飲んだ。しかし……。
「それは」
 穏やかで、静かな低い声がカノンの真後ろで響く。
「それは、“あっちの世界”でのオレの名前?」
「え!?」
 驚いて振り返ると、紅色の青年は笑いながら言葉を続ける。
「そうか。それが機械仕掛けの沃野での『オレ』の名前なんだ。『ラン』、か。いい響きじゃん」
 満足そうに、屈託なく笑いながら彼は言い、黒衣の人物とはまた異なる黒の衣服を揺らしながら体ごとカノンと向き合う。その動作で空気が揺れる。動いた分キラキラとした銀が舞った。
 その視線に気がついたのか、紅の青年はゆっくりと、カノンの方を向いた。また、彼女の鼓動が早まる。至高の宝玉に勝る、まるで太陽のような鮮烈な輝きを持つ双眸は、瞳を潰す苛烈な光ではなく優しげな光を宿していた。
 落日の赤と、日昇る赤。二つの赤は似て非なる色を醸し出している。ただ、人の心を惑わすも、どこか落ち着く色合いであった。その瞳がカノンを捉えると、彼は言霊を発した。
「驚かせた? 悪いな。ここで人に会うのが久しぶりだったからつい、な」
 だから兄貴たちに怒られるんだ、と楽しそうに笑う。その仕草さえ、彼を彷彿とさせるのだ。
 彼の行動ひとつひとつに目を奪われる。それは、学校生活を送っているときもそうだった。数度言葉を交わした時の言い方。笑う仕草。目を奪われる行動全てが、彼に繋がる。一つ、年上の先輩に対する思いは有名人に対する憧れ以外の何物でもなかったけれど。
 カノンを見ていた彼が再び口を開いた。
「よくもまぁここまで来られたな」
「え?」
「ここは世界の狭間。餓えた荒野と機械仕掛けの沃野の境界。『鍵』の役目を負う人間を除いて、どちらの人間だろうと足を踏み入れることのできない世界、なんだぜ?」
 しんしんと、銀光が降り注ぐ中彼は声を紡ぐ。まるでそれは聖歌のように彼女の耳に響いた。
「あんた……お嬢ちゃんは『鍵』だが、こうしてオレに会いに来た人間は久しぶりなんだ。兄貴に言わせれば、オレたちはこの世界にただ静かに溶け込んで、自分勝手な贖罪の行く末を見守るだけの存在だから」
「オレ、たち? 兄貴?」
 カノンは言葉を区切って彼に問うた。それに、彼は笑う。
「そう、オレたち。お嬢ちゃんの生きていた世界でもそうだっただろう? オレが兄貴たちの側離れてるわけねぇさ」
 一瞬その言葉に悩んだが、カノンはすぐに相手の意図を察した。そして淡く笑って肯定の言葉を口にする。そして、彼が彼であることを改めて確信する。
「叶(かのう)先輩、……いえ、雫(しずく)先輩も蛍(ほたる)先輩も、律(りつ)くんと一緒にいらっしゃいました。いつも一緒で、ずっと一緒で。本当に、羨ましくなるぐらいお互いを大切になさってる綺麗で素敵な兄弟です。私の知ってる先輩方は」
 カノンの紡いだ言葉は真実。そして、自然と敬語になるのは彼が彼だから。カノンの学校の先輩と仲がいい、一つ年上の先輩に対しての敬意。彼女の真摯の言葉を受け、紅の青年はとても満足そうに頷き、瞳を輝かせた。
「やっぱりな。……まぁ当然といえば当然だけどな。オレたちが世界を二つにわけたのは、結局オレら四人でいるためだったし」
「……え?」
 彼は淡く笑って言葉を続けた。
「大切で、大切な存在と共にあるために、オレたちはお嬢ちゃんを、『鍵』の役目を負うことになっちまった“かわいそうな愛し子たち”を、何度でも何度でも犠牲にする決断をした。でも、オレ最悪なことに兄貴たちほど良心が傷んでないんだな。」
 しかし、言葉には後悔の色が伺えない。そこには、彼の、彼等の確固たる意思があることは間違いなかった。そして今度は苦笑しながら、彼は言葉を紡ぐ。
「オレたちはまぁ、この世界のためなら死んでも良かったんだ。死なら、辛うじて甘受できた。だが、世界のために他の三人と引き離されることだけは我慢できなかった。それだけは、な」
 まるで苦杯を飲まされるように、美しい柳眉をゆがめ、眉間に皺を寄せた彼は告白する。押えようのない怒りと、許されざる罪を紡いだ彼。
「そんなこと、絶対出来なかった。オレ達は、互いがいないと、存在さえ出来ない。オレ達はオレ達のために、お嬢ちゃんたちを、犠牲にした」
 そんな彼に向かってカノンはふるふると首を横に振った。貴方は、悪くないと伝えたくて。あまりのことに声もでないが、それでも貴方は悪くないと彼女は伝えたかった。彼女は彼らを知っているから思う。あの四人が離れていいはずがないと。そう思えば思うほど、自然と双眸に涙がたまる。
 それを見た青年は苦笑する。
「お嬢ちゃんは、優しいな」
「そんなこと……っ」
 カノンは搾り出すように声を吐き出した。彼らに罪はないと。彼らを離れ離れにしようとする世界にこそ罪があるような、彼女はそんな気持ちにさえ襲われていたのだ。そんな少女を見つめながら彼は言葉を続けた。
「今更、こんな事言うのもなんだけどな。……お嬢ちゃんを呼んだ、この世界に誘った人間を助けてやってな。お嬢ちゃんを必要としている、あの『獅子』とこの世界のためにさ」
「ルーベ様を? でも、私あの方を導けるほどの力も、裁量も何もなくて……」
『獅子』と聞いて彼女はすぐにルーベを連想した。しかし、むしろ彼なら自らその道を歩むだろうとカノンは思っていた。頼まれなくとも、強い彼はきっとシェラルフィールドを平定させることができるだろう。なぜ、そんな事を言うのだろうと彼女が思っている涙を潤ませている少女を諭すように彼は言う。
「覇王に『鍵』はたった一人。お嬢ちゃんが導くのは、お嬢ちゃんを呼んで、お嬢ちゃんを招いて、お嬢ちゃんと出会うべくして出会った唯一の覇王。そいつだけ」
「それは……」
「仮に、だ。お嬢ちゃんが別の人間に頭を垂れて、そいつを覇王にするために尽力したとしても、だ。『鍵』は唯一の存在の傍らにいねぇと何の意味もねぇ。黎明帝シェルダートに忠誠を誓ったジンのように、皇祖帝カイゼルに使え尽力したシオンように、銀狼帝ヴォルフの友となったシキのように」
 まるで朋友の名を挙げるように彼は虚空を見やりながら、懐かしささえ含みながら淀みなく名を紡ぎ上げる。そして、再びカノンを見やりそっと彼女の頬に触れた。そしてそのまま目尻にたまった涙を指で拭うと、すぐにその指を離した。
 彼女は頬に、彼の触れた温もりがいつまでも残っているような感覚に襲われた。
「こんなもん頼める義理じゃねぇと思う。だけど、お嬢ちゃんを呼び求めた覇王に未来を、どうか玉座を。勝手過ぎるのは重々承知だけど」
 また彼は苦く笑う。
「オレたちはここで、お嬢ちゃんたちが襲う痛みや苦しみが僅かでも、軽くなるように祈っている。つか、オレたちそんなことしか出来ねぇから」
「そんな……っ」
 その言葉があまりにも悲しげだったため彼女は必死で言葉を捜す。言葉を、乗せる。
「そんなことありません」
 カノンは拭ってもらった瞳に、再び涙を溜め彼に告げる。
「身勝手じゃ、ありません」
 はっきりと、全てが分かっている訳じゃないですけどでも、と彼女は言外に言う。
 ただ、必死に彼女は言葉を紡いだ。脳裏のどこかで一つの仮説が真実に結びつきながら。彼は言葉に分かり易く手掛かりをくれた。世界を二つに分けたと。そして彼の纏う浮世離れした赤の色と。幾度となく繰り返される『オレたち』という言葉と。
 だから、彼らは特別だったのだ。古の昔も。今生の世も。確信を持って彼女は彼を呼ぶ。
「四玉の王、紅玉の王」
 しかし彼は、答えない。
「貴方が、現状は全て貴方がたが悪い訳ではないと思うんです。……そんな大きな罪を背負わなきゃならないのは……おかしいです。それに、貴方は」
 カノンは言葉に詰まった。抑えきれない涙を零した。そんな彼女の姿を見た紅の青年は表情を歪ませる。まるで二人の感情は合わせ鏡のように苦痛と悲しみを共有しているようだった。
「言葉では、罪の意識なんて感じてないって仰ってても、そんなに苦しんで、償おうとしていらっしゃるじゃないですか」
「……お嬢ちゃんは」
 紅の青年は目を細め、目の前の少女を慈しむよう、いとおしむような光を宿した瞳でカノンを見やる。
「優しいなお嬢ちゃんは。オレの兄弟たちみたいだ」
 彼女はその言葉に、再びふるふると首を振った。
「まぁ、兄貴たちが感じてる罪悪感をオレも少し分けてもらって、少しで兄貴たちが傷つかなけりゃいいとは思ってるけど。オレ、そんぐらいだぜ?」
 首を振る仕草で亜麻色の髪は淡く揺れ、琥珀色の双眸からほろほろと涙がこぼれる。
「……覇王に選ばれた導きの鍵。餓えた美しき荒野は、お嬢ちゃんの持つその優しさを求めたのかもしれねぇな。戦いには、到底向かないその優しさを」
 カノンは顔を伏し涙を拭い、力なく首を振る。そんな仕草に、彼は苦笑する。
「オレ達は祈るよ。祈り続ける。お嬢ちゃんの未来に祝福があるよう。その道程で傷ついても、これ以上ないほどの悲しみに襲われても、最後は笑っていられるように。……導きの鍵であるお嬢ちゃん。名前を聞いてなかった。教えてくれないか?」
「……名前、ですか?」
「ああ、お嬢ちゃんの名前」
 ゆらりと、空間が歪み始めたのを彼女は感じた。悪戯っぽくそう告げた彼と、青い闇が少しずつ色合いを失われていく。眩暈の様な、このぐらりとする感覚は目が覚める直前のそれに似ている、映像が曖昧になっていく。
 まだ、だめ。彼に、王に名を告げていないから。
 彼女は意識を何とかつなぎとめようと必死になりながら、言った。
「桜……。いえ、カノン・サクラギと申します」
 彼は彼女の名を一度唇に乗せると、そっと腕を持ち上げた。それは、祈りの仕草に似ていた。彼は彼女の名の形に動かしたように彼女は見ていた。それを合図に彼女の今意識していた世界が朧となる。そのまどろみに身を任せ、ゆっくりと目を閉じていく自分に、意識の片隅でそれを理性で押し留める。
 まだ彼女は王の名を聞いていなかった。先輩の、面影を持つ悲しい笑みを浮かべる赤玉の王の名を。しかし彼は曖昧な表情を浮かべたまま、水面に浮かびゆらゆらと揺れる月のように徐々に姿を歪ませていく。
 もう一度彼と出会えるかはわからない。今、この時彼に触れ合えたことさえ奇跡に近しいのだから。あるいはこれは、彼の愛刀である『ラグナ・フォール』の力の欠片が、彼女を誘ったかもしれない。
 触れなければならない真実に触れるために。知らなければならない、いずれかならず手に入れる真実を手に入れるための断片を。剣は、彼女に何を見せたかったのだろうか。


BACKMENUNEXT

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送