16.穏やかな眠りを君に


 真夜中にカノンは目を覚ました。まだ、窓から朝日は入り込まない。部屋の中には篝火程度の灯しかない。彼女は上半身を起き上がらせると、ごしごしと目を擦った。虚ろな意識が徐々に覚醒して行く。
 この世界に来てからよく、夢を見るようになったと思う。それは覚えている物もあるが、大半は夢を見たことしか覚えていない。覚えていなければいけないもののはずなのに、と彼女は小さくため息を付く。
 しかし今日、剣を触れたときに見た白昼夢に近い皇祖帝の姿と、今夢で見た赤玉の王の姿ははっきりと覚えてる。涙を伝った頬に触れた王の温度が、まだ残っている感じさえするのだ。彼女は自分の頬にそっと触れた。
 窓が風を受けて僅かに音を立てた。梢も、さわさわと小さく歌う。カノンが身じろぎをしなければ、衣擦れの音さえしない部屋は、ただでさえ彼女の身ひとつでは広々と感じる。それになぜだろうか、今時分のせいであることもあり、ますます心もとない雰囲気を醸し出してた。
 彼女は手持ち無沙汰になり、自分の亜麻色の髪を遊んだ。そうしながら、脳内で紅玉の王の言葉を反芻させる。
 『覇王に『鍵』はたった一人。お嬢ちゃんが導くのは、お嬢ちゃんを呼んで、お嬢ちゃんを招いて、お嬢ちゃんと出会うべくして出会った唯一の覇王。そいつだけ』
あれは、何を意味しているのだろうか。否、言葉の意味通りだろうが。幼い頃から耳にしていた声の主は、ルーベに違いない。
「彼が、私を呼んでいた」
 誘われ、この異世界にやってきた。
『仮に、だ。お嬢ちゃんが別の人間に頭を垂れて、そいつを覇王にするために尽力したとしても、だ。『鍵』は唯一の存在の傍らにいねぇと何の意味もねぇ。黎明帝シェルダートに忠誠を誓ったジンのように、皇祖帝カイゼルに使え尽力したシオンように、銀狼帝ヴォルフの友となったシキのように』
 黎明帝の名も、皇祖帝の名も聞き覚えがあったが、銀狼帝の名は聞いたこともなかった。銀狼と聞いて、寝台の下に専用の籠の中で健やかな寝息を立てている愛狼を見て、小さく笑った。
 自分が、ルーベ以外の元に身を寄せて、その人物を覇王にしようとしても何の意味もないという。例えばサンティエにつこうとも、クラウディオにつこうとも、彼らは王足り得ないと言う。カノンにとって、それはどこか遠い事実であり、納得の行く真実であった。
 唯一の存在の傍ら、この言葉の響きにカノンは少し頬を朱に染めた。しかしすぐに首を横に振りその熱を逃がす。そう悠長な思いを抱いてもいられない。現状、自分は荷物でしかないのだから。
 もう何度問いかけただろうか。自分に何ができるだろうか、と。歴史書を紐解いて、何度ため息をついたかわからない。何度、自分が本当に「覇業の鍵」であるかを疑ったかわからない。
 力が、欲しい。彼女は改めて思う。
 コンコンと、部屋の扉を叩く音が部屋に響いた。密やかな音であったが、静寂に支配された部屋の中ではひどく響いた。
「……はい?」
「カノン、起きてるのか?」
「え? ル、ルーベ様?」
「ああ。……こんな真夜中に悪いとは思ったんだが、今、いいか?」
「はい! あの、今開けます」
 カノンは夜着の上に側にあった上着を羽織って寝台から降りた。靴を履くことも忘れ素足で扉へ向かう。こんな夜更けにルーベが訪れるなんて今までなかった。何かあったのだろうかと、彼女は施錠を外し、扉を開けた。 最も、屋敷の主であるルーベに対してこの施錠は意味を成していないのだが。
 扉を開けると、そこから廊下の光が入ってきて、暗闇に慣れていたカノンの琥珀色の瞳は一瞬だけ目を細め、ニ、三度瞬く。そして、その瞳に少し困ったような笑いを浮かべているルーベが映った。
「悪いな、こんな時間に」
「いえ、何かありましたか?」
 夜着、とまではいかないがそれでも普段着ている物よりも楽な格好には変わらない服装をしていた。麻色の上着を上から二番目の鈕まで外して着こなし、下は漆黒のズボン。同色のブーツ。その簡素さは、騎士団長であり、王弟という地位にあるとは思えない。
 しかしそんな簡素な装いでも、彼の雰囲気が損なわれることはない。
「別に何も無いんだ。……ただ、今日あんなことがあったから」
 何となく、様子を見に足が向いてしまったと彼は言う。
「起こしたか?」
「いえ、目が覚めてしまったところです。……部屋にどうぞ。立ち話も、何ですし」
「……いいのか?」
「ルーベ様ですもの。どうぞ」
 これが他の騎士ならばまず施錠さえはずさない所である。ルーベはその言葉に小さく笑って部屋に足を踏み入れる。空気が、動く。
「あ、リュミィは寝てるのであまり音を立てないほうがいいかもしれません」
「ああ、だから静かなのか。オレが入ってくると咆えるからな」
「ルーベ様に向かって、本当に」
「誰を守ればいいかちゃんとわかってんだろ? いい傾向だ」
 彼は気持ちよさそうに眠っている獣を見てふっと笑う。
「でも、ルーベ様が入ってきても気持ちよさそうに寝てますよ? これが他の方だったらもう目を覚まして咆えてますよ」
「そうか? この寝てるの見てるとそうは思えないけどな」
「ルイーゼと、私と、ミディ夫人が部屋を出入りしても寝ている時は起きませんね。それ以外の方、まぁこの部屋にはあまり人はいらっしゃいませんが、気配があれば起きてますよ」
 カノンはクスクスと笑う。移動しながら二人は部屋の中央に置かれている長椅子に並んで座る。
「ああ、じゃあ明かりはつけない方がいいか?」
「そうですね。あ、でもルーベ様大丈夫ですか?」
「暗闇にぐらいすぐ慣れる」
 ここで二人の会話が途切れる。静寂が再び世界を支配した。暗闇の中で茶を用意するわけにもいかず、カノンも手持ち無沙汰になってしまう。
「……あの」
「……あの、さ」
 同時に声を出してしまいお互い沈黙してしまった。
「あ、ルーベ様からどうぞ」
「いや、オレはいいから。カノン、先に」
「え……でも……」
「いいから」
 ルーベは彼女の顔を見て柔かく笑う。促されてカノンは言葉を紡いだ。
「くだらない、ことかもしれないんですが。夢を見たんです」
「夢?」
「はい、四玉の王の、紅玉の王様とお会いする夢です」
「紅玉の王と?!」
 思わず彼は声を上がてしまい、二人は同時に振り返る。しかし、僅かに身じろいでみせたリュミエールだが、もふもふと寝返りを打って再び寝息を立てる。その姿を確認すると二人は同時に息をついた。
「悪い……。紅玉の王と? 間違いないのか?」
「はい。あの方は、間違いなく紅玉の王様でした」
「……そうか。で、王は何を仰ってた?」
「……」
「何か、言われたからこうやってオレに話そうとしてくれるんだろう?」
 一瞬これ以上言うのをやめようかと思ったカノンの心を見透かしたのか、彼は言う。穏やかに光る黒紅色の双眸を見て、彼女は再び口を開いた。
「王に、鍵の意味を、少しだけ教えていただきました」
「鍵の意味、か」
「はい。鍵は唯一の存在の傍らにいないと、何の意味もない、と」
 カノンは言葉を噛み締めるように言葉を紡いだ。今もまだ耳の奥に残る王の声を、彼に伝える。
「……そうか。それで?」
「え?」
「それを聞いて、カノンのことだ。少し、いや、結構気、沈んじまったんじゃないか?」
 図星を指されて彼女は身を強張らせる。
「黎明帝シェルダートに使えたジン・ヒューガ、皇祖帝カイゼルに使えたシオン・ミズセ・レイヴァーシェリー。二人とも智力も武力も有していたって言うもんな。カノンが気落ちするのも無理もない」
 改めてルーベにそういわれると、さらに胸が痛んだ。確かに、男と女の差はあるかもしれないが、それでも使えなさを言い出したら圧倒的にカノンのほうが上である。
「でもさ、カノン」
「はい?」
「あんま表には出てないけど、ジン・ヒューガも、シオン・ミズセ・レイヴァーシェリーも最初は何にも出来ない鍵だったらしいぜ?」
「まさか……」
「本当だって。……あの二人も、カノンと同じで争いも何もない世界から来てるなら強くなくて当然だろう?」
 確かに、言われてみればそうである。少なくとも日本から来た人間であるならば、よほど特異な世界にいなければ平和に生きていられる。力と関係ない場所で一生を終えることが出来る。だがしかし、文献で伺い知ることが出来る彼らは、残っている記憶玉に生きる彼らは胸が痛むほど強い。
 だからこそ、自分の不甲斐無さを感じざるを得ない。
「弱いなら強くなれるし。でも、オレはカノンに歴代の鍵みたいな強さを望んでるわけじゃないんだ」
 伏してしまった少女の髪を、彼はそっと撫でた。手触りのいい絹に触れているような感触に、自然と彼の口元も緩む。
「オレは、横に並んで剣を振るってもらうことなんて望んでない。ただ……」
 彼は言葉を一瞬言いよどんだ。彼にしては歯切れの悪いことに、カノンはゆっくりと顔を上げた。その表情は不安に彩られていた。
「……ただ、側にいて欲しいんだ」
 危険な目にあわせることなく、傍らに寄り添っていて欲しいと思い始めたのはいつからだろうと彼は自分の胸に問う。しかし、気がつけばそう思っていた、としか言いようがない。
 カノンは驚いて目を丸くする。それからゆっくりと表情は落ち着き、ふっと首を横に振った。
「それは、出来ません」
 彼女ははっきりと彼に告げる。
「それでは何故、私がこの世界に『鍵』として誘われてきたのか分かりません」
「だけど、カノン」
「ルーベ様」
 カノンは彼の言葉を遮り、体の向きさえルーベを見つめはっきりと言葉を紡ぐ。
「確かに私は弱いです。貴方の力になんてなれないほど。それを思うことさえおこがましいほど」
 彼女は言う。
「それでも思うんです。貴方の力になりたいと」
 自分の膝の上に置いていた手を彼女はぎゅっと握る。
「私は、この世界に、貴方を覇王にするために来たんです」
 貴方に呼ばれて、ただ一人、貴方のために。カノンの声は旋律のように部屋に響いた。守られるだけなら楽である。傍らにただ人形にいるだけでもいいと、それは一番安全な場所であり、一番居心地のいい場所であるのは間違いない。
 けれど、それだけでは駄目なのだ。
 あの、優しい王の意志を、そして何より自分の意志で彼女は彼に告げる。そんな彼女の真摯な言葉に、ルーベは小さくため息をついた。自分の腕の中で大人しくしていてくれれば一番良いのに、というのがまがうことのない彼の本音である。
 しかし、少女はそれを拒んだ。
「……わかった」
「え?」
「ここまで来てもまだ言おうか言うまいか悩んでたんだけど、わかった」
「何ですか?」
「仕事を一つ、頼めるか?」
「私に、ですか?」
「ああ」
 それは以前より、軍師であるサナンが彼女の才を説いていた。そんなもの、身近にいるルーベが一番わかっているところだったが、彼は言うのだ。『彼女を使える』と。何にどう、と言われるまでもなく彼女の手腕を発揮できる舞台を用意することはできる。
 それは彼女を皇帝側に送り込まなければならない事態になり得る。だからこそ、傍らにいるだけでいいとルーベは口にしたのだ。しかしそれは今となっては彼女に対する侮辱にさえなってしまうだろう。
 異世界からやってきた少女の覚悟を、彼は間近で感じた。
「嬉しいです! 私でも、できることがあるんですね!!」
 カノンは嬉々としてた笑みを浮かべる。
「どんなお仕事なんですか?」
 期待に満ちた琥珀色の双眸は、暗闇でもまるで星のように輝く。それを見て、ルーベは彼女に気付かれないように小さくため息をついた。
「言う前に、一つ約束をしてくれ」
「……はい?」
 カノンの肩をそっと掴みルーベも彼女の方に身体を向け言う。
「オレも、なるべく同席するつもりではいるし、カノンを一人きりにするつもりはない。けど、どうしても一人になっちまう時が出てくる。そういう時、何があっても、絶対に無理するな」
 ルーベは真剣に言う。
「……わかりました」
 出来うる限り、という言葉は胸に秘め、カノンは頷いた。ここで仕事によっては出来ません、と馬鹿正直に答えては、きっとこの話をなかったことにされてしまう。そう直感したからあえてカノンは言葉を削った。
そしてさらに言えば、肯定はしていない。理解はしたが了承は出来ないという小さな意思表示。仕事に就けば甘えなんて許されない。
 そう思っていたとき、カノンの肩に触れていたルーベの手が離れ、そのままその手が、腕が彼女の背に回った。彼は、そっと彼女を抱き寄せたのだ。
「えっ?」
 ふわりと動いた髪が落ち着きを取り戻した頃には、カノンはルーベの腕の中だった。抱きしめられているという現実を認識してもカノンは固まって動けない。ルーベも何も言わない。先ほどとは違う静寂が部屋を包んだ。
 ただ、心拍数だけが上がって行く。考えてみれば、幾度か彼女は彼に抱きしめられたことがあったはずだった。その時は、今ほど緊張もしなかった上、こんなに緊張しなかった。でも、今は状況が違う。つり橋効果の実践など考えている余裕もない。
 徐々に、身体に入った力が抜けていく。カノンはただ静かに、自分を抱きしめる人間の体温に身体をあずける。カノンは何も言わない。ルーベも何も言わない。お互いの心音と、微かな息遣いだけが二人の耳に届く。
 どれぐらい時間が流れただろう。まだ全く時間は経ってないのかもしれないが、力が抜けた身体は、人の温度を身体で感じゆるゆると睡魔に苛まれ始めていた。それでもルーベに声をかけることも出来ず、睡魔の甘い誘惑にも堪えることが出来ずに瞼がどんどんと重くなっていく。
 さっきの夢と同じだ、とカノンは内心で思い、もしかしたら今の状況も夢なのかもしれないとさえ思い始めた頃、抗いがたい睡魔に彼女は身をゆだねた。まるで、魔法にかけられたように再び夢の世界へと舞い戻ったのである。

「……カノン?」
 時間にしたら、五分ぐらいだろうか。ふいに抱きしめたくなって彼女を抱きしめてから。
しかし気がつけば、腕の中の少女から規則正しい寝息が聞こえてくる。本来ならみんな寝ている時間だということをそれで自覚する。無理をして起きていたのかもしれないと考えると、やはりこんな夜更けに訪れたのは失敗だったかと苦笑する。
 しかし、どうしても会いたくなってしまったのだ。腕の中で健やかに寝ている少女の顔は穏やかなものだった。大よそ、争いになど向かない女の顔だった。……ルーベは苦笑する。
 彼女を起こさないようにゆっくりと抱き上げた。夜明けが近いとはいえこのまま寝かせておく訳には行かない。ルーベはそっと寝台に向かい、彼女をそっと横たわらせた。彼女は、目を覚まさない。
 外は俄かに白んできて、空気が朝の訪れを告げる。ルーベは陶器のようなカノンの頬にそっと触れ、そのまま頬に口付けた。
「……お休み、カノン」
 ただ静かに、穏やかに。


BACKMENUNEXT(五章へ)
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送