6.知識と言う名の楯


 明日国を挙げての皇太子殿下の誕生日会が催されることを、カノンは昨日知った。しかし、この表現は厳密ではない。食事時などに、ルーベがカノンにその旨を告げていたということはシャーリルの口から彼女は聞いた。と、いうことはカノンは話を聞いていなかっただけ、という話になる。
 もしかしたら話していなかったのは自分かもしれない、と謝罪するルーベに対してカノンは首を横に振った。証人であるシャーリルがルーベの事で間違えるはずがないし、聞き忘れるということは絶対にないカノンにとって覚えてないということは、やはり話し自体を聞いていなかったのだ。
 そこで初めて、カノンは自身がこのライザード家についての情報を殆ど持っていないことに気がついた。皇太子の名前さえ知らない、というのはさすがに大問題である。シェラルフィールドに召喚されてから三つの季節を越えたというのに、その名前が全く上がらなかったのが不思議である。

 今、カノンはサナンから勉学を習っている。軍師である彼は歴史にも長け、様々な内部事情にも精通している彼からは学ぶことが多い。
「あ? 皇太子??」
「はい。私、考えてみたら名前も存知あげてなくて」
「……あー。まあ話題に上がる奴じゃないしなぁ。仕方ないんじゃね?」
 サナンは対して面白くもなさげに言って捨てた。
「いやあの、それでは困るんですよ! 明日殿下のお誕生日のお祝いで」
「そいや、そんな事も言ってたな」
「はい、それでさすがに殿下の名前も知らないで参加するのは……、と思いまして」
 カノンがそういうと、サナンはああ、と呟く。歴史書をパタンと閉じて机の上に置くと『一時休憩』の姿勢を見せたので彼女もそれに習う。
「考えてみたら、皇祖帝の歴史のばっか話してて、現皇帝の話とか全然してなかったよな」
 両腕を汲んでわざとらしいぐらい神妙そうにそう言った。それにつられて、カノンは首を縦に振る。二つに緩く結ばれた髪が軽く跳ねる。
「お嬢」
「はい!」
 この世界でカノンのことを『お嬢』と呼ぶのは彼だけである。時々『お姫様』と呼ぶこともあるが、この呼び方がカノンは好きだった。自分はルーベと出会うことがなければ、ヴィルチェたちのように娼館に身を寄せることになっていかたもしれない。いや、それさえ出来ずに奴隷として何をされていたかわからない。
 だからこそ、自分の立場を否が応でも確認できる彼との会話は彼女にとって淡い痛みを伴いつつ、現実に思考をとどめておくことが出来るというのである。
「三百年前に実際にあった戦闘」
「え?」
 ふいにサナンの唇から発せられた言葉は、カノンは理解できなかった。その様子に気付きながらも、かの軍師は言葉を続ける。
「エルカベル帝国に地方都市が団結して戦争を仕かけてきた。その時に行われた戦闘の一つ」
「……レマ山が両陣営の激突の地になった?」
「そう。エルカベル帝国時代、外壁都市トランジスタの向こう側、かなり広い平原から続く山」
 彼はまるでその場にない読み物を朗読するように言葉を紡いでいく。それはまるでパズルのピースを一つ一つはめていくような、そんな緩慢な作業のようにカノンは感じた。
 そして、すぐに彼の意図を読み解く。
「そこで都市の連合軍はレマ山の山頂付近に布陣。戦争にあって高地に布陣するのは定石。エルカベル帝国側としては相手に有利な場所を取られてしまった……」
 カノンは、彼が言葉を紡ぎきる前に、言葉を継いだ。これはある意味、簡単な言葉遊びのようなものである。彼が彼女に課す実力試しは常に不意打ちだ。休憩中だろうと、退出直前であろうと、それは突然やってくる夕立のよう。
 しかし、カノンは事態を理解すればそれ以降、決して動じることはない。
「……遅れて平原にやってきた帝国側は、山に布陣した連合軍に対して、山全体を自軍の兵で包囲して、持久戦に持ち込んだ。敵が山頂に布陣しているなら、当然補給もままならない。から、相手の補給戦を絶って、こっちはじっと待っているだけ。痺れを切らして山から下りて来たとしても、平地にいるように全軍がそろって、というわけにはいかない。疲弊した連合軍が、自棄になって山を下りて来たところを散々に打ち破った。それを実行したのが、当時の騎士団長ジン・ヒューガで……」 
「合格。次トランジスタ包囲戦」
「サナン様?」
 いつもならばこれで終わり、になるはずなのに。それ以上に、自分の質問にまだ答えてもらっていないという小さな憤りからカノンは彼の名を呼んだが、彼は気にも留めなかった。
「いいから。トランジスタ包囲戦」
 答えればきっと、自分の問いに答えてくれる。むしろ、確実に答えてくれるという確証が合ったカノンは、小さなため息を付いてから唇から言葉を奏でた。
「……反乱勢力の人たちが一つの統一された組織ではない。帝国軍側に敵の内通者がいる。だから、敵に情報が流れるというのがわかった上であえて兵力を分散させ、敵の補給線を絶ってから合流して全面的に攻撃する、という報告を『帝国に』してから出撃した」
 カノンもまた、物語を読み上げる語り手のように言葉を紡ぎ上げていく。彼女には、三ヶ月以上前に頭に入れた言葉たちが、完璧に再現することが出来るのだ。
 それどころか、カノンは一瞬でも見聞きして、脳に入れた記憶を一切忘れない。忘れることが出来ないのだ。じっくり勉学に取り組んで覚えたものなど、暗証する必要もなく頭に残って離れない。
 ある意味では、脳内に読み物の本があるようなものだ。記憶を辿って読み薦めていけばいいだけのこと。
「敵が嘘の報告に踊らされ、功を焦って門から打って出てくるのを待ち構えていた。しかし、他の部隊が合流しようとしている『本陣』は囮であり、実際に皇祖帝カイゼル・ジェスティ・ライザード陛下が率いる騎士団の主力は外壁の裏手に布陣していた。それにもかかわらず、反乱勢力の者たちは今が好機と思い込み、騎士団が目くらましの術の中に潜んでいることにも気づかず、みすみす自分たちで堅牢な外壁を開け放ってしまった。そこから一気に皇祖帝はこの反乱軍を制圧した。後に、このトランジスタは首都に移され、現在のフェルシオンになった。ですよね?」
 確認するようにサナンに問うが、間違っている自身が彼女にはなかった。真っ直ぐにカノンを見つめて聞いていた彼は、降参、とばかりに両手を上げてみせた。
「ああ。実際歴史上ではそれで片がついてたさ。……他にもやり方があった、ってお嬢は言った。覚えているか?」
「はい」
 頷いた時、彼女の髪が緩く揺れた。カノンも真っ直ぐにサナンを見つめながら言う。
「打って出て来なくても、いくらでも内部で分裂させることは出来たでしょう。例え一番単純な方法で陥落さることが出来ずとも、策はまだまだあったと思います」
 彼女の口ぶりは、まるで六百年以上昔の出来事をその目で見てきたような口ぶりだった。その琥珀色の双眸で見据えた事実を、客観的に分析して見せているように、この時サナンには映っていた。
「時のディライト様の部隊が捕らえた捕虜に嘘の情報を吹きこんで、わざと解放するとか。敵の指導者が皇祖帝と共謀している、という噂をもっと徹底させて、わざと見つかるように密書を送るとか。もっと手段を選ばないのでしたら、レイターがお二人もいらっしゃったのですから、城内に潜入して、敵の糧食に火をつけるなり何なりできたはず、と申し上げました」
 カノンが言い切ると、室内には一瞬沈黙が降り注いだ。外から、風になびいた枝が寂しげに音を奏でる音さえ聞こえてくるほど、室内は静かになったのだ。
「……お嬢はすげぇな。随分前にやったことなのに、ちゃんと覚えてるなんてさ」
「一度覚えたことっていうのはあまり忘れないんです」
「普通は半年ぐら前にやったことなんて、記憶から薄れているもんさ」
 彼は手の平をひらひらと動かした。
 感心したような笑みを浮かべたまま、この時サナンの脳裏をよぎっていたのは今後のカノンの身の振り方である。彼としては、シャーリルと同様ルーベのために利用できるものはすべて利用したい所である。
 丸暗記なら誰でも出来る。しかし彼女はそれだけではなく、そこから必要な知識を最大限利用し、それ以上のことを構築できるだけの才覚を有している。知識は、何よりも武器になることを軍師であるサナンは知っている。
 だからこそ、この才能をどこに使うかと算段してしまう。彼女の異様なまでの記憶力は、この世界でも他の追随を許さない。この時点でもうある程度文官として仕事をさせることさえ可能である。
 また、この時彼は『鍵』の片鱗を垣間見たようにも感じていたのだ。
「……あの?」
「ん? いやなんでもないさ。こっちの話」
 サナンが何食わぬ顔でそういうと、すぐに話題を切り替える。
「皇太子の話だったよな」
「はい」
 ようやく本題に入り、カノンの表情はやや強張る。
「アイツの名前はクラウディオ・ハイメ・ライザード。正妃の子で、第一王位継承権保持者」
 正妃である貴族の母は、滅多に表に出てこない。そもそも他にサンティエには数え切れない妾も存在している。しかし子宝には恵まれず、今まで皇帝の子どもとしてこの世に生を受けた人数は、両手で事足りる。その中でも生き延びた男子は彼一人だという。他は女であったり、先天的に何かを抱えていてかげながら闇に葬り去られたりと、あまり穏やかな話ではない。
 良くある話、と片付けてしまえば良くある話であるのだが。
「クラウディオ殿下」
 彼女は、その名を唇に乗せてみる。
「そ。性格は至って直情的。周囲を見るってことが出来ない、まぁ良く言えば猪って感じさね」
「猪?」
 カノンの脳裏にはフゴフゴと鼻息荒いこげ茶色の丸い生き物が浮かんでは沈み、を繰り返しているが、それを察したサナンがいち早く否定する。
「可愛らしいウリ坊想像してると、絶望感が半端なく来るぜ? アイツはほんっと暑苦しいだけだから」
 一拍間を置いて、彼は続ける。
「かの、皇祖帝の伝説を、大真面目に信じてる」
 その言葉に、一瞬室内の空気が凍りつく。
「国が滅びかけたときに現れる、異世界からの『鍵』のことを。そして、自分がその『鍵』に選ばれて。次の王になるっていうことも」
 張り詰めた空気に罅が入る音をカノンは聞いた気がした。
「え?」
 カノンの琥珀色の双眸が点となるのを見ると、サナンはわざとらしく肩をすくめてみせる。
「そっ。この国じゃ誰でも知ってるお伽噺。巷で言われている『伝説』はオレ達が知ってるのよるも遥かに脚色されてるのさ」
 人づてはあてにならん、とばかりに彼は言う。
「王家に近ければ近いほど、その伝説は正確に伝わっていく。それがやっかいだったさ」
 ガリガリと頭を掻くサナンの言いたいことが、カノンには伝わってきた。
「……つまり、皇祖帝に近い自分は、父王を廃して玉座につく、と?」
「そゆこと」
「ルーベ様のことを横においておけば、労せず玉座にいずれ収まることが出来るのに?」
「そーそー」
 カノンは苦笑するしかない。
「……何ていうか、可愛らしい方なんですね」
「十六歳の男が可愛いねぇ」
 げんなりとしたように言うサナンの、クラウディオに対する評価は限りなく低そうである。彼の口から出た年齢に、自分と同じ年齢だということがわかり、少しだけ親近感が沸いた。
「あつっくるしい奴さ。見りゃ一発で分かる」
「はぁ」
「想像つかんと思うけど、一つだけ言っとく。アイツにゃ気をつけろ」
 真顔でそう告げるサナンに、カノンは静かに首を縦に振る。彼女としては最初からそのつもりである。
「よーし、イイコだ。アイツぁ何しでかすかわからないからな」
「そんなに腕の立つ方なんですか?」
「そこそこ。王族として必要最低限の力はあるけど、それ以上のもんはねぇさ。魔力はやっぱライザード家の直系だからな。半端ないけど、その辺はお嬢には関係ない」
 すっと伸ばされた手がカノンのさらさらの髪を滑る。それは彼女を安心させるように、不安を感じさせないような柔らかな動作だった。
「では、何に?」
「簡単な話。どっかに連れ込まれたりしねぇように気ぃつけろってことさ。明日の会場じゃ立場上、オレもルーベもシャーリルも、シャーリルんとこの奥方もお嬢の側にいられねぇから」
 会場内は広い。故に、カノンがこの世界に召喚された頃に催された晩餐会での出来事が起こらないとも限らない。彼らが危惧する問題は、それだけである。いくら周囲に目を配っていても、広い場所で多くの人間に囲まれていたら、どう頑張っても隙が生じる。そこを狙われては、ひとたまりもない。
「肝に銘じておきます」
「よっし。ま、一番いいのは、『王弟殿下の婚約者』として、ルーベの側から離れないことさ」
 ニコっとした笑みを浮かべたサナンに頭をくしゃりと撫でられると、カノンもまた微笑を彼に返す。ルーベの側を離れない、何てことは絶対に出来ないことを彼にしろ、彼女にしろ気付いている。
 だからこそ、危険を孕んだ場所に行くということをしっかり念頭に入れなければならないというのである。
 部屋の空気が再び重みを帯びたものに変わってしまった。
「……随分と無駄なことくっちゃベっちまったな」
 サナンが窓から外をみやると、話し始める前に見た空よりも太陽の位置が大分ずれている。
「話に戻るぞ、お嬢」
「……はい」
 机の上に閉じられていた本に、二人は手を伸ばす。それはまるで先ほどまで何も会話をしていなかったかのような仕草で。
 少し遠い過去の話と、目の前の現実と、近い未来の話。カノンはこの時間が酷く充実しているものと感じていた。
「お嬢にとって、知識はきっと、剣以上に武器になるさ」
 それは彼女を守る鉄壁の楯に。


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