5. 花と蝶とお茶と


 寒さのため、空は澄んでいた。空の青と雲の白の境界線がはっきりと見える。この日カノンは、屋敷の広縁に純白の机と椅子を並べ、その上にレースの机掛けを被せた。
 これもすべてこれからささやかに開かれるお茶の席の準備である。いつもなら、シャーリルの妻であるミリアディアと二人でこの午後のささやかな時間を満喫するのであるが、今日は客人が一人増えるのである。カノンにとって今日初めて顔を会わせる人物である。
 先日、ミリアディアとの会話で判明したのだが、第一位階の騎士の中には当然妻子持ちの人間もいるのである。ヴァイエル・グライドの妻がいると話題が出た。彼女とは数度交流を持ったことがあるミリアディアが、今日お茶を一緒にしようと言う事で用意した席なのである。
 第一位階の騎士であるヴァイエル・グライドは平民からの叩き上げの男という。ルーベよりもいささか身長が高く、体つきもルーベよりもがっちりとしている。カノンから見れば、大岩といっても過言ではない大柄の男である。
 強面ではあるものの、気さくでカノンもよく修練場で話をする騎士である。カノンの細腕を見て、弓が射れるかと真剣に心配をしてくれているというのも有名な話である。そんな人の妻を務め上げる人物であるのだから、素敵な方なのだろうとカノンは密かに胸を躍らせていた。
 ミリアディアと二人で茶会の算段を立てるに当たって、屋敷を使わせてもらうことをルーベに許可を取らなければならなかったが、夕食の席で遠慮がちにこの話題を振ると二つ返事でそれを許可した。
 王弟殿下の屋敷で気軽に開けるものでもないだろうと推測していたカノンだったが、あまりにもあっさりと許可してもらえたことに驚きを隠すことが出来なかった。短い夏と長い秋を経て彼女が感じたことは、ルーベは自分に対して相当甘いということだった。
 ……先日、自分の我侭のせいで人を不快にさせていることを知ったカノンにとっては、怒られて断られても仕方がないと思っていた。もしも駄目なら、ミディアリアがフィアラート家で茶会を開けばいいとまで言っていたので、難しいことだと思っていたのに、と思わずにはいられない。
 しかし当のルーベは仕事が一段楽していたら自分も参加したい、と言う始末だ。何が起こっているのかカノンは自分で振ったないようにもかかわらず理解するのに一瞬時間を要してしまった。

「今日は風もなく、寒すぎずようございましたね」
「ほんとに! お客様を招くにはちょうどいいお天気ですよね!」
 広縁には柔らかな冬の日差しが降り注いでいる。肌を刺すような寒さがないのは、広縁まで魔力で覆われ気温の調節が適度になされているからだった。
 肩掛けをかけていれば、充分な気温の中準備は着々となされていく。あとは客人を待つばかりである。ミリアディアが連れてくる、との約束でカノンはただただ二人の到着を待つばかりである。少しだけいつもよりも繊細な装飾の施してあるドレスを身にまとっていた。
 カノンが自分で選んだドレスの色は、どこか日陰芍薬のような淡い淡いクリーム色。綺麗な色合いのそれはカノンのお気に入りのものと言っても過言ではなかった。髪もアップに上げるのではなく緩く一つに束ねる程度にしておいた。あくまで第一印象が肝心である、と勝手に彼女が意識しているのである。
 この世界にやってきて半年と少し。腹を割って話せる友達も出来た。彼女は自分自身を恵まれていると思っている。否、実際恵まれているのだ。それを充分に自覚しつつ、それでもなおかつ彼女は努力を怠らない。この世界に受け入れてもらうための努力を。
 その第一歩として、知り合いを増やすことだと彼女は思っていた。だからこそ、誰とでも言葉を交わしたいと考えているのだ。

「……お嬢様、フィアラート夫人とグライド夫人がご到着なさいました」
「あ、お通しして下さい!」
 カノンはようやくやってきた来訪者の報にただ純粋に喜んだ。
「いらっしゃいませ、ごきげんよう、ミディ夫人、グライド夫人」
 扉からゆっくりと入って来る二人に、カノンは満開の花のような笑みを浮かべて二人を出迎える。
「ごきげんようカノン。お約束どおり、連れてきたわよ。さ、シャーラ」
 とん、と軽くミリアディアに背を押されて出てきた女性は、ミリアディアよりも若干若い雰囲気を醸し出していた。にわかに緊張しているのか、視線が若干泳いでいるように見えた。
ここでカノンも緊張してしまったら、会話がきっと成立しなくなると判断した彼女は、笑みを浮かべたまま唇を動かした。
「初めてお目にかかります、グライド夫人。私はカノン・ルイーダ・シェインディア。この屋敷の主人、ルーベの婚約者です。どうぞお見知りおきを」
 言葉に対する罪悪感が、大分カノンの中で薄くなってきた。すらりと唇に乗る言葉を、少しだけ誇らしくさえ思いながら彼女が言うと、相手も少し肩の力を抜いて見せる。
「今日はお招きありがとうございます。私の名はシャーライア・グライドと申します。第一位階の騎士ヴァイエル・グライドの妻です。以後お見知りおきを」
 ドレスの端を掴んで礼を取るシャーライアの姿は、自然と見ているものの唇を緩ませる効果がある。明るい灰黄色のドレスには、細かな花の模様が描かれていてそれが控えめな可愛らしさを醸し出している。
 二人が控えめに微笑みあっていると、ミリアディアが苦笑した。
「ほらほら、二人とも。そんなところでお見合いをしていないで! カノンも、自分が折角お茶の席を用意したんでしょ? そこでゆっくり話しましょう」
 彼女がそういって二人を促すと、ハッと気がついたように二人は苦笑した。そして、そのまま広縁に用意された机に向かう。
「ルイーゼ。お茶の準備をお願いします」
「畏まりました」
 こうして三人の茶会が始まったのだった。
 自己紹介から始まり、運ばれてくる甘い菓子と暖かいお茶が三人の緊張を徐々に解していった。小一時間もする頃には、彼女たちの話はまるで雑誌のようにめまぐるしく変わって言った。
「そういえば、カノン。リュミエールは元気にしているの?」
「はい、元気にしてますよ! 最近は庭を走り回ってますし」
「リュミエール?」
 耳慣れない単語に、当然シャーライアが小首を傾げる。カノンとミリアディアが目配せをした。カノンの部屋の外の広縁に今、机を用意して三人はお喋りに花を咲かせているのだ。彼女たちが声をかければ、部屋の中で待機しているルイーゼをはじめとする侍女達がすぐに反応する。
 しかし、彼女が唇に乗せたのは彼女たちの名ではなかった。
「リュミエール、おいで!」
 鈴のようなカノンの声が響いてから数秒、銀色に輝く毛並みを持った生き物がテシテシと机に向かって走りよってきた。カノンの肘から指先までの大きさのその生き物は、主の方へ歩み寄ると、伸ばされたその手に己の顔を擦りつけた。
 いい子、とカノンに頭を撫でられると、それは嬉しそうに目を細めた。
「それは……犬?」
「いいえ。狼です」
「狼?!」
 予想外の単語に、シャーライアは小さく悲鳴を上げた。カノンにゆっくりと持ち上げた生き物が、その越えに反応して一瞬シャーライアを見つめた。だが、すぐにその目を逸らす。確かに、初めて会った人間に警戒心を持つなというほうが無理かもしれない。しかし、その行為は少なからず彼女を傷つけた。
「リュミエール? シャラ様は私の友達よ。怖くないから」
 穏やかな声でカノンがそういいながら、整えられた気を撫でると、リュミエールは自らカノンの腕の中から降りて、シャーライアの方へ歩いていった。
 触れた事のない獣に一瞬彼女のほうがビクリと身体を反応させるが、ミリアディアの双眸が穏やかな光を宿して彼女を見つめたので、シャーライアはそっと近づいてきた獣に手を伸ばした。
 柔らかで、暖かな毛並みに触れる前に、リュミエール自身が彼女の手をふんふんと匂いをかいだ。ニ三度かいだあと、ペロリと獣のほうが彼女の手を舐める。
「その子が、そうやってやるっていうのは、貴女を仲間として認めた、ってことらしいわよ?」
 ミリアディアが片目を閉じてそういうと、シャーライア自ら獣に触れた。彼女たちの間に何かが生まれた。

 用が済むと、銀色の塊は再び部屋の中へ帰って行った。そこで何やら暴れているようだが、カノンの部屋の一角に出来た『リュミエール部屋』で暴れる分には、何の問題もない。
 リュミエールは推定、生後二十日前後。ようやく走れるようにいなってきたぐらいである。最近は動くものに反応したり、肉を食べたりと『狼』としての性に目覚め始めているが、カノンには従順である。
 彼女が『狼としての性をきちんと養えるように』と色々周りの人間から助言を受けて、なるべく狼の成長過程にあわせて育てられるように配慮しているのだった。この広い屋敷の中では造作もないことである。
 時々広い庭に連れ出すこともあり、ネズミに反応するようになったリュミエールを見たルーベが狩りもしだすだろうと予見して見せたりもしている。平和な日常を垣間見える光景を思い出し、微笑を浮かべながらカノンは言った。
「拾ってきた頃は犬だと思ってました。それにまだ両手の平に乗る程度の大きさだったのに。成長が早くて私のほうが驚いています」
「拾った?」
「そう、神殿の木の下で雪に埋もれてるあの狼を、カノンが拾って看病して母親代わりに育てているんですって」
「……よく、王弟殿下がお許しになられましたね」
「ほら、殿下も最愛の人間には随分と甘くていらっしゃるもの」
 フフフと笑うミリアディアとシャーライアが顔を見合わせて小さく笑うと、カノンは苦笑いをするしかない。ミリアディアはともかく、シャーライアは彼女の詳細を知らない。『地球』という国から召喚されたことも、『鍵』としてのことも。
 だからここは、素直に笑っておくしかない。仮初の婚約者として演じなければならない。否定してはいけない。……ただこの時、カノンはいささか不安だった。自分がちゃんと笑えているかどうか。最近特に酷くなってきたのは、この手の会話だった。
 事情を知っている人間であるならばいい。しかし、事情を知らない人間に対してどう振舞っていいのか。勿論、感情を封じて微笑んで応対すれば言いだけの話である。だが、カノンは自分の胸の中に痛みを自覚してしまったのだ。
 浮かんでは消えていく感情の名を否定して過ごす。そんな頃にリュミエールを拾った事でカノンの心は大分平静を保つことが出来ていた。
 いずれは、元の世界に変えるのだから。


「……ちょっと、カノン聞いていて?」
「え? あ、はい! 聞いてましたよ!」
 気がつけば、自分の世界に入ってしまっていたカノンは二人の会話に取り残されていた。何の話をしていたか、カノンには皆目検討もつかないが、とりあえず頷いておく。
「お疲れになってしまわれましたか? ああ、気がつけば随分と長居をしてしまいましたわね」
 シャーライアの言葉に、三人は同時に視線を上げた。青空だった天は、既に夕焼けの翳りを見せていた。冬は日が沈むのが早いとはいえ、結構な時間をお茶の時間と称して費やしていたらしい。
「あ、よろしければ夕食を一緒にいかがですか?」
「折角のお心遣いですが、帰って主人の食事の支度をしなければなりませんので」
 ふんわりとした笑みを浮かべたシャーライアの言葉に、カノンは納得する。家に旦那が帰ってきた時に、出来立ての料理が並んでいたら嬉しいだろう。主婦として、当たり前のことであるけれど、当たり前だからこそ実行することは難しい。
「じゃあ私も今日はお暇するわ。シャーラを送っていかなければいけないし」
「いえ、ミディ。私一人でも……」
「歩いて帰るというの? そんな事許さないわよ」
 椅子から二人が立ち上がると、カノンも席を立ち二人を玄関まで見送るべく一緒について行く。主たちの移動に気がついたのか、リュミエールも当然のように彼女の傍らに寄ってきた。侍女たちは、主の客人に深く頭を下げる。
 他愛ない話をしながら赤い絨毯を敷き詰められた廊下をすすみ、階段を下り、玄関まで辿り着くと、ミリアディアがここまでで、と目でカノンを制した。
「じゃあカノン。また明後日に会いましょう。その時が楽しみね」
「? はい。それではミディ様、シャラ様、ごきげんよう」
「ごきげんようカノン様、リュミエール」
 ミリアディアとシャーライアの声が綺麗に重なると、それは余韻となって扉が閉まったあとでもその場に響いた。馬蹄と車輪の音が屋敷から遠のいて行くのを感じたカノンは、ゆっくりと振り返り後ろに控えているルイーゼに問うた。
「……明後日に、何かありましたっけ?」
 それはカノンの真摯な言葉であったが、カノン付きの侍女の責任者でもあるルイーゼのよどみない返答がここで発揮されなかった。一瞬、鳩が豆鉄砲を食らったような表情になってしまったのだ。
「はい? あの、お嬢様、お忘れ、に?」
「え? ごめんなさい。何のことだかさっぱり……」
 同じ言語を操っているのに、会話がかみ合わない不可思議さ。心持愕然とした表情のルイーゼがゆっくりと唇を動かし、音を紡いだ。
「明後日は、皇太子殿下の御生誕日でございます。それで、例年にない規模で王宮で催し物がなされると。第一位階の騎士様をはじめ、貴族の方々は皆さんご出席なされると伺っておりましたが……」
 彼女たちは当然のようにカノンの衣装の支度もすべて完璧に調えられている。しかし、カノン自身は初耳であった。鳩が豆鉄砲を食らったような表情でただただ立ち尽くしていた。そんな彼女を心配した忠狼が、そっと彼女の手に鼻先を押し付けたり、ペロリと温度の下がった手の平を舐めたりとしていた。


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