1. 遊戯

 
 リファーレの元からカノンを取り戻した日。この日の午後、ルーベは皇帝であるサンティエに城に赴くよう知らせが来た。これ以上ないほど行くことを躊躇ったルーベであったが、その感情を無表情の仮面の下に押し込め、皇帝との謁見へ赴いたのだった。
 王へと続く道には、深紅の絨毯が真っ直ぐに引かれている。その横には当然のように衛生兵が槍を持ってずらりと並んでいた。ある意味圧巻な風景であるが、ルーベにとっては何も感じることが出来ない、強いて言えば煩わしさしか感じ取れない空間なのである。
 窓から差し込む光が、彼の赤茶の髪を照らす。リファーレに油断したとはいえ切られてしまった髪は整えられ、今では肩にも届かないほどの長さしかない。しかし、その髪型になっても侮蔑の視線が送られるどころか、王城に使える女官たちの視線を一手に引き受けてしまうほどで。長髪であるよりも、短髪であるほうが似合うのではないか、と部下たちもにわかに囁くほどであった。
 彼の髪が短くなってしまった事で、一番怒っていたのは他でもない彼の腹心、レイター・シャーリル・フィアラートである。漆黒の絹糸のような長い髪を持つ彼は、ルーベの長い髪を言葉には出さないがいたく気に入っていたのだ。故に、彼の髪が短くなっていることに気がついたとき、真剣に崖から落ちたリファーレを救出しようとしたのだ。
 曰く、「直々に殺してやる」と。
 決着が付いた話を蒸し返すなとその場はルーベの一言で収まり、彼も片手を上げて冗談だよ、と言ったが、側で見ていた人間から言わせれば、あの瑠璃色の双眸の中に、絶対零度の炎を見たとさえ感じたのだから、冗談であるはずがない、という所である。

「騎士団長、ルーベ・フィルディロット・ライザード。皇帝陛下の御前に参りました」
 階段の手前、窓から差す光は相変わらず彼を一心に照らし上げたまま、ルーベは膝を折った。顔を上げず、玉座に座る兄の姿を見ないように。
「この度は、反逆者の討伐、ご苦労であった」
「……勿体無いお言葉、誠に光栄で御座います」
 ここでルーベは内心舌打ちをする。いつの間にか、リファーレは反逆者の汚名を着せられていたのだ。死人にくちなしとは言ったもので、当然それが偽りの真実であっても、覆されることはない。彼は『王弟であるルーベの婚約者を誘拐し、人質として彼と取引をし、国家転覆を図った』というのが専らのリファーレの計画だと言う。
 真実は闇の中、全てを知る者がどれだけ叫ぼうとも、皇帝の言葉が絶対なのである。ルーベは悪態をつくのを必死に堪えたまま兄の言葉に機械的に答えていく。その嫌々な態度はサンティエにも伝わっているのだろう。年齢よりも年老いて見える顔に歪んだ笑みが浮かぶ。
「お前の婚約者には随分と災難な事であったな。大事はなかったか?」
「はい、お陰様で。今は私の屋敷で静養させております」
 現在、カノンはルーベの屋敷で静養中である。わずかに負った怪我が身体に痕が残るほどの物でなかったものの、心労は計り知れなかったのであろう。彼女は今昏々と眠り続けていた。眠りたいだけ寝かせておこうと、ルーベはカノンの寝顔を見ただけで今日の政務に当たっていた。
「突然のこととはいえ、奴の奇行を見逃した我にも責任はあろう。いずれ詫びを届けさせよう」
「お心遣いありがとうございます。しかし、それは無用です。陛下のお心遣いだけしかと受け止めさせていただきます」
 ルーベは慇懃無礼そうに答えた。その後、この謁見の間には沈黙が降り注いだ。動けば音を立てて崩れ落ちるほど、肌に痛い沈黙である。衛生兵はこの沈黙の中、身動き一つすることが許されず立ちつくしかない。
 ルーベとサンティエの前には見えない壁があると言っても過言ではなかった。実際、彼らは今、脳内で会話をしている状態であった。口には出せない、口に出さない言葉の応酬をしているのだから、当然場は緊張した空気に包まれる。この世界でも屈指の魔力を誇る二人の会話に、割っては入れないだろう。それが例えレイターであっても。
 凍りついた時の中、それはまるで漆黒の空間にたった二人だけで会話をしているような感覚で彼らは言葉を紡いでいた。玉座からルーベまで大分距離があるというのに、今この世界には二人だけしかいない。
 距離を詰めれば、互いの息の根を止めることさえ可能と思わせる距離しか感じられない、そんな世界に彼らはいたのだ。
「ルーベ、本当に大切ならば離さぬことだ。片時も離さず、籠の中にでも閉じ込めておくがいい」
「お言葉ですが、陛下にそのような心配をしていただく必要はありません」
 微動だにしないサンティエが、ふと足を組んだ。光を浴びないくすんだ金髪が、主の動きにあわせて少しだけ揺れた。そのわずかに生じる音でさえ、まるで空中に響くようであった。
 それでも、ルーベは動かず、彼もまた動かない。
「真綿で包み、季節の移ろいも、その日の気候も何もかも分からないように、奥に奥に閉まっておけばいい。お前にはそれが可能だろう?」
「仰っている意味が良くわかりません。これ以上用件がなければどうか退出の許可を。まだ仕事が残っておりますゆえ」
 この時、張り詰めていた空気が緩んだ。時が凍りついたような空間から開放された兵士たちは、久方ぶりの酸素を肺へと送り込む思いだった。クツ、と喉で笑ったサンティエはまるで邪魔者を追い払うように一度、宙で手を払った。
「……下がっていい。追って褒賞については言い渡す。大儀であった」
「勿体無いお言葉、ありがとうございます。では、御前を失礼させていただきます」
 ルーベは決して顔を彼に向けることはしなかったのだが、立ち上がる折ゆっくりと、サンティエを睨みつけたのだ。誰にも悟れないように静かに、誰にも悟られないように怒りを抑えようとしても、抑え切れない黒紅色の双眸を、彼は鼻で笑った。
 第一位階の騎士の証とも言える紫色の外套を翻し、ルーベは威風堂々と言った態度で扉をあとにした。ルーベが一瞬発した殺気を感じ、冷や汗を流した兵士は一人や二人の話ではない。ただそれだけでも、皇帝が不敬罪と言えばしょびかれても仕方がない。しかし、ルーベの真正面からの浴びてもサンティエは不敵に笑うだけであった。

「陛下……」
 サンティエの座る玉座の側から、囁く声が響いた。しかし、それは一般兵には気付かれない。
「随分、ご機嫌がよろしいようで」
 姿のない声は、なおも響く。
 皇帝は、暗闇と同化しながら、決して皇帝の側を離れないずにいたマハラが、サンティエに声をかけた。ルーベが睨みつけたとき、真っ先に動こうとしたのは彼であり、また真っ先に彼の殺気を浴びたのも彼であった。
 この時、怖い物など何もないと思っていた氷の心臓を持つマハラの背筋にも冷たい汗が流れるほどの感覚に襲われていたのだ。乱れるはずのない呼吸が、一瞬乱れたことに、誰よりもマハラが驚いた。闇に浮かぶ白い髪が、彼の動きにあわせて揺れる。それはまるで意志を持っているかのように。
 しかしその様は、やはり一般の兵士たちには見えない。気配を悟らせず、姿を晦まし、直接言葉で語りかけるのではなく脳に響くように彼はサンティエに声をかけた。その声に、返事がないことを承知しながら。
 サンティエの藍色の瞳が楽しげに揺らめく。それは、確実に彼が楽しんでいるときの瞳である。この微細な揺れに気がつけるのは、恐らくマハラだけだろう。彼は楽しんでいるのである。ルーベとのやり取り全てを。彼とのやり取りのすべてが、彼の細胞を蘇らせる。その証拠に、生きる意志さえ感じられずにただ生きてきた彼が、日々輝きを増しているのである。
 彼はただ、実弟と剣を交えるその日を楽しみにしているのだ。
マハラは、サンティエが満足しているのなら、それで構わないと思っている人間である。
 ルーベには、もっともっとより強力な力を持って欲しいと切望するほど。これ以上ないほどの力を持って、サンティエと剣をまみれて欲しいと。それが、マハラが心酔して止まない皇帝の心を慰めることになるのだから。
 彼が望むなら、マハラはいくらでもサンティエの手の平で舞う覚悟があるが、それを彼が望むのは、血の繋がった弟と、異世界からの来訪者にのみである。それをやや悔しいと思いつつ、マハラは皇帝の傍らに他人に姿を現さないままずっと寄り添っていた。
 これは、サンティエにとってはただの遊戯。いつか見えるその日までの、前戯にもならない時間なのである。それでも、彼は笑っていた。それはそれは愉快そうに。


「言えば皇帝ぐらい僕が暗殺してくるよ?」
「さらりと怖ぇこと言うなよ。それに、ここは王城だ。誰が聞いてるかわからないんだぞ」
「別にいいよ、聞かれても。聞かれたところで証拠はないし」
扉を出てしばらくルーベが一人で歩いていた所、当然のように壁に寄りかかり彼の帰りを待っていたのは、シャーリルであった。漆黒の髪と瑠璃色の双眸、そして美姫が望むすべての美貌を持つレイターは、ゆっくりと体重を預けていた壁から身体を起こす。
「お前に、兄貴を殺させるつもりはない。もしやるなら、オレの手で叩き斬るさ」
「……」
思わず誰もがゾクリと来るような表情を浮かべ、ルーベは言った。決してカノンの前では見せないその冷酷な表情は、この国の皇祖帝と良く似ている。それを口にしないで、シャーリルは当然のように彼の後ろに続いた。
「つーか、オレ、お前に屋敷の警護頼んでおいたよな?」
「敵陣に一人お前を送り込むことなんて出来ないだろう」
「まだ、オレを攻撃してくる理由はねぇから大丈夫だ」
「そういう問題じゃない」
 シャーリルは髪の長さが大幅に減ってしまったルーベの頭をベシっと叩く。
「……雑魚相手に、お前がやられるなんて僕だって思っていないさ」
 王城にいるのは、皆、腕利きの屈指の兵たちである。それを人くくりに『雑魚』と称してしまえば、ある意味暴動が起こるかもしれない。しかし、それも許されないだろう。第一位階の騎士であり、レイターの地位にある彼の言葉に逆らえる人間は少ない。
 その彼の発言に、ルーベは苦笑してみせる。彼の表情から、先ほどまで浮かんでいた鋭利な表情は消えていた。
「……わかってるつもりだ。悪いな、シャル」
「別に。謝罪されるいわれも、感謝されるいわれもない。当然のことをしているだけだし」
 廊下に高く、二つの踵の音が反響する。
 いつか。
 いつか、遠くない未来に、彼はその頂に至高の冠を戴く。そのためなら、シャーリルは何をすることも躊躇わない。自分の手を赤く染めることも、自分の命を捨てることさえも。しかし、彼は決してそれを望まない。
 気を利かせたつもりでも主の真意と異なっていたら、指示通りのそれ以上でもそれ以下でも、自分で自分をできない部下だと公にしているのと同じである。できない部下を重用している主はその才覚が疑われる。それは、ルーベの傍らにいると決めたその瞬間から、シャーリルに付き纏っているものでだった。自らの些細な言動一つが、ひいてはそんな部下を持つ主の評価を貶めることに繋がりかねないという事。主人の命令以上のことをやって、主の顔に泥を塗るつもりは、彼には毛頭ない。だが……。
「髪」
「あ?」
「髪、そのまま放っておくつもり? 皇帝の弟ともあろう身分の人間が」
 あるいはこれは出すぎた意見かもしれない。それでも、シャーリルは言った。
「そのうち放っておいても伸びるだろう」
「他の兵に示しがつかないだろう」
 この世界では、身分の高いものほど髪を伸ばしている傾向がある。ルーベは今、実質帝国第二位の権力を保持している。それほどの者が髪が肩よりも短いというのは、シャーリルにとっては許しがたい事態なのである。
 ロザリアの相手をしていなければ、ルーベの髪が不覚とはいえ切られることはなかったと思うと、なおのこと早くこの髪が伸びればいいのにと彼は思っていた。瑠璃色の双眸が語りたいことを読み取ったルーベは浅く笑う。
「平気だって。これはこれで似合ってるだろ? お前が気にすることじゃねえよ」
 今度はルーベが彼の頭を軽く叩くと、そのまま階段を下っていった。
 シャーリルは、ゆっくりと振り返った。王城の廊下をただ真っ直ぐに見据えた。いずれ自分が主と仰ぐ人物の居住地になるこの場所を、今は貸しておいてやるという視線で見やる。これは、彼にとって真実以外の何物でもない。だからこそ。
「シャル、何やってんだ。早く来いよ。兵士たちの様子見て、屋敷帰るから!」
「わかった、今行く。」
 季節は長い春の半ば、花びらが青空に舞う穏やかな日の出来事だった。


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