2.綺麗な拾い物

 
 シェラルフィールドにカノンがやってきて、初めての冬を向かえた。長い春と短い夏、そして長い秋を経てやってきた冬は、例年にない寒波に襲われていると口々に人は言っていた。
 確かに、東京よりも冷えているかもしれない。今はあまり寒くない所でここまで厚着をしているのも何だな、と思いカノンは上着も帽子も綺麗にたたんで今は膝の上である。
 彼女は今日の雪のような真っ白なドレスの上に、黒い毛の外套を羽織り、同じ毛の帽子までかぶせられた状態で馬車に揺らされていたのだ。しかし、暖房器具がないにもかかわらず、この馬車の中ではさして寒さを感じない。
 これは一重に魔力が働いているからだろうと彼女は推測する。だが、恐らく自分がいるから魔力も効きにくくなってしまっているのだろうなと、彼女は申し訳ない気持ちで一杯であった。
白銀の世界を窓から見るふりをして、腕を組んで目を伏せているルーベを見やる。
 春の半ばに、カノンは皇帝の息のかかった人間に誘拐された。ほとんど何も抵抗が出来ずに。そして、何も出来ないまま囚われていた一週間。恐怖よりも絶望感に襲われていた。これほど無力であることを恥じたことはなかった。
 東京で生活している頃には、全く必要なかった問題に直面し、今は少しずつでも勉強し、身体を鍛えなければならない。そう思い今では徐々に身体も鍛え、知識も蓄えているものの、全てが全く足りない。最も、半年前後で剣を自由に扱えるようになったり、腕力や脚力が飛躍的に上昇したりと言う漫画の世界でも今時使われない状況に陥るはずもない。
 カノンがこの半年間上達した、と思えるのは多少の弓と乗馬、そして膨大な歴史を紐解いていきそれをすべて頭に叩き込むことだけである。ルーベの役に立ちたいと思いつつも、実際に今自分が何が出来ているか、と自分に問えば何も出来ていない。自分の不甲斐無さに辟易しながらカノンは小さなため息を付かずにはいられなかった。

 神殿も、他の場所と違わず雪化粧をしていた。ますます神秘的な雰囲気を醸し出しているその建物を、彼女は白い息を吐きながら見上げた。神殿への祈り上げは案外短時間で終わるものである。少なくとも、カノンが彼に連れられてくる日は滞在時間より移動時間のほうが長いぐらいなのだ。
 彼女は、今だ神殿へルーベが足繁く通う理由を知らない。四玉の王に何を祈っているかも話題に上がらない。傘がない世界のため、神殿の外に出れば自然と雪を浴びることになる。耳が痛くなるほど静かな世界で、触れればすぐに解けてしまう、淡い存在のそれを全身で受けながらカノンはただ神殿を見つめていた。
「カノン、外に出てたのか」
 サクサクと雪を踏む音が、静謐の世界の中彼女の耳に届いた。
「中にいないから、探した」
「申し訳ありません。……あまり外が綺麗でしたから、つい……」
 外套をしっかりと着込んでいるため、あまり彼女は寒さを感じていなかった。それでもわずかに髪や肩に積もった雪を、ルーベはやさしく払う。
「風邪引くぞ」
「これぐらいでは風邪なんて引きませんよ。大丈夫です」
 カノンはにっこりと笑って見せた。そんな彼女の頬に、ルーベは繊細な飴細工に触れるような手付きでそっと触れた。
「こんなに冷えてるじゃないか。中で少し温まってから戻るか」
「いえ! ルーベ様はお忙しいでしょう? グレスリィ様にもう一度ご挨拶してから屋敷に戻りましょう」
 ルーベに触れられたところから、じんわりと暖かさが広がっていく。灰色の空から降り注ぐ白い雪を、随分長く浴び続けたことにこの時初めてカノンは気がついた。彼は苦笑しながら彼女を見つめていた。

 ルーベは白の世界に一人佇むカノンを見て目を奪われた。そして次の瞬間、不安に襲われた。このままカノンが雪のように消えてしまうのではないかという不安に襲われたのだ。そんなはずはないと思いながら、気がつけば彼女の側に駆け寄っていた。
 もう二度と、誰かを自分の力不足で失いたくないと、彼は思っているのだ。神官であるパルティータが命を落としてしまったのは己のせいだと自分を責めなかった時はない。今度こそ、守りきってみせる。その思いに微塵の揺らぎもないが、ふとした瞬間カノンが消えてしまうのではないかという漠然とした不安に駆られていた。
 出来ることなら、屋敷の奥で大切に守って暮らさせたい。危険な目に一切あわせたくないと彼は思っているのだが、鳥籠に飼われることを彼女は望んでいないことを知っているためそれも出来ない。
 最も、そんな事をしてしまえばカノンもルーベ自身も駄目になってしまうことを彼は自覚していたのだ。そんなことが、出来るはずもない。

 ルーベはカノンの頬に触れたまま、二人はしばらく静止したまま動かなかった。それはまるで一枚の絵画のように、そこだけ世界の動きが止まってしまったかのように。幻想的な風景であることは間違いない。
 その完全な一枚の絵が動いた。
「え……?」
「ん? どうした、カノン」
 ルーベがそっと頬から手を離す。先ほどまであったわずかな温もりが離れてしまったことに一抹の寂しさを彼女は感じたが、琥珀色の瞳が見つめるのは一点だけであった。
「あの木の根元。何か……。すいません、見て来ます」
「おい、カノン。むやみに近づいたら!」
 ルーベが注意するよりも早く、カノンはそこへと駆け寄った。彼の伸ばした手は虚しく宙を掴む。彼の手につかまれなかったカノンは穢れない新雪の上足跡をつけながら目的の場所へ向かった。彼女が素早く駆け寄ると、そこには確かに雪に埋もれた『何か』がいた。
 カノンが両手で雪をどかすと、そこから出てきたのは雪と比べて遜色のない毛色の小さな生物であった。白の中に埋もれる白銀の獣。思わずその生物に目を奪われてしまう。
 雪に埋もれて震える体力もないのかぐったりとしている生き物はまだ僅かに呼吸はしているがまさにそれは虫の息、と言える状態だった。
「それ……」
 カノンの後ろから覗き込んだルーベは少しだけ目を見張った。
「この時期に、こんな所に狼がいるなんて珍しいな」
「この子狼なんですか? 犬じゃなくて」
「こんな所に犬が一匹でいないよ。……狼もいねぇけど。親とはぐれたんだな」
 いくら人間よりも完成して生まれてくる生き物であっても、まだまだ母親の側を離れては生きていけないぐらいの幼さの狼がこんな雪に埋もれていたら待つのは死だけである。可哀相ではあるが、これ以上永らえないであろうその生物を見つめていたルーベであったが、そう思っていない少女は狼を抱き上げた。
「カノン?」
「まだ息があります! 助けてあげましょう!!」
 雪にまみれた狼を抱き上げたカノンはそのまま勢い良く立ち上がった。
「は?」
「まだ息があるんですもの、駄目で元々と思って!」
 カノンは自分の外套に包むようにその狼を抱えた。少しでも体温が温まるようにとの配慮である。
「ちょっと待てって。助けてどうするんだ?」
 もし、ここでカノンの腕の中の狼が体力を回復させ、順調に成長したとしても一度人の匂いが移ってしまった獣は、自然に帰ることは難しい。それならば、いっそここで殺してやったほうがこの獣のためであるとさえ、ルーベは思っていた。彼の瞳から、彼の意思を汲み取ったカノンは一瞬、悲しげな瞳で抱えている命の灯火が消えかかっている狼を見やった。
 しかし、次の瞬間彼女の双眸から悲壮な表情は消え、必死の表情でルーベを見上げた。
「まだ生きてるんです。目の前で生きようとしてる命を見殺しにするなんて私は出来ません」
「……気持ちはわからなくもないけど」
「もしも自然に帰れなくなってしまったら、私がこの子を育てます! 人に害なさないようにしっかり躾ますから!! お願いします、ルーベ様。この子を助けてくださいっ」
 カノンは懇願した。この世界に彼女が訪れてから、これだけ必死に何かを人に頼んだのは初めてかもしれない。
 シェラルフィールドの生物は、魔力によって支配されている。その魔力を消してしまうカノンの側は獣にとっては安らぎの場所となりえるだろう。皇祖帝に仕えたという来訪者も、鷹を自在に操っていたという。ならば、カノンの側にも何か置いても良いかもしれない。この時ルーベの脳裏にはそんな事が浮かんでいた。
 犬のように忠実にとはいかないまでも、カノンに狼が懐けば彼女の異変に過敏に反応するかもしれない、と。万が一にも彼女に害を成すような存在なったら、殺せばいい。
 ルーベはカノンの腕の中にいる狼をそっと持ち上げた。
「神殿に戻ろう。ここじゃなにもしてやれないから」
「……はい! ありがとうございますルーベ様!」
 二人はそのまま早足で神殿へと向かった。


「この子、助かりますか?」
 神官長であるグレスリィの元へ駆け込んだ二人は雪まみれだった。風邪を引くといけないと神官たちが雪を払う布やら、身体を温める茶やらを忙しく用意している中、二人は凍える獣の生死のことで頭が一杯だった。
 布に包まれた小さな獣を見て、最初は驚いた初老の神官もすぐに事情を察し、獣の具合を確かめる。
「大分衰弱しているようですな」
「どうすればいい?」
「おや珍しい。ルーベ様もこの獣をお助けになりたいと?」
「まだ、生きてるからな」
 ルーベがそういうと、グレスリィは深く顔に皺を刻んだ笑みを浮かべ、そっと獣に触れた。淡い光が狼を包み込む。
「衰弱した身体を回復させるには、滋養のある食べ物を食べ、暖めることです。それ以上のことは出来ません」
 そっと指を離すと、震えていた狼の身体が安定した呼吸をしているかのように見えた。
「この獣はまだ意識がありました。しかし、ルーベ様やカノン様に抗う体力さえ残っていませんでしたね。とりあえず、今は眠らせたのでこの獣が目を覚ますまで冷えた身体を温めてあげてください。そして、目が覚めたら暖かい飲み物を与えて。まだこの年では肉は無理でしょうからね」
 先達者の言葉に耳を傾けながら、カノンは心配そうに銀色の毛玉のようにうずくまっている狼を見やった。
「屋敷に連れ帰るおつもりですか? ここで世話をすることも出来ますよ?」
「お心遣いありがとうございますグレスリィ様。ですが、この子を助けると言い出したのは私です。この子が命尽きるにしても、生きながらえるにしても私が最後まで見守ってあげたいんです」
 カノンはそっと厚手の布で狼の身体を包んで抱き上げた。少しでも自分の体温が小さな命を助ける力になるように、と。
「お嬢様は随分と心の優しい方ですな」
「……ああ」
 彼女のその姿を見つめていた二人は、口元に小さく微笑みを刻んでいた。自然の摂理に対してカノンが行ったことは禁忌と言っても過言ではないことであるのだが。
「強いお嬢様でいらっしゃいますね。さすがは『鍵』と……。いえ、ルーベ様が伴侶に選んだお方と言った所でしょうか」
「……グレスリィ」
 低く、念を押すように彼の名をルーベが呼ぶと、老神官は恭しく頭を垂れた。二人は、これ以上会話をなさなかった。
「カノン。今はそうやってそれを暖めることしか出来ないんだ。そのまま抱えて馬車に乗ろう」
「はい、わかりました」
 カノンは狼を大切に抱えたまま、グレスリィに頭を下げた。
「ありがとうございました」
「いえ、その獣の命が永らえますよう、微力ながら四玉の王に祈りを捧げております」
 グレスリィのその言葉に、カノンはもう一度深く頭を下げると、ルーベに促されるまま彼の後ろに続いた。

 馬車に乗って屋敷へ向かう。補整された道ではあるが、多少の揺れは否めない。
「そんなに心配そうな顔しないでも平気だって」
「……でも」
「結構いい感じで寝てるから。カノンがあんまり心配すると、その不安がそれに伝わるぞ?」
 そういわれてみて、窓硝子に映った自分の顔がそうとう不安な表情をしていることに築き、カノンは苦笑する。彼女はなるようにしかならない、この小さな生命力に賭けるしかないことがわかっていながら何か他にしてあげることがあるのではないかと思ってしまう。
「カノンが気にかける獣の命を、四玉の王が持って行くはずないさ。……皇祖帝に使えた人物も……」
「あ、確かその方も鷹を自在に操っていらっしゃったんですよね?」
「異世界からの鍵は、動物に愛されるらしいな」
 ルーベがそう言って笑うと、カノンもつられて笑う。
「屋敷に戻ったら、コイツの寝床を作らせるか。籠に布でも入れて、その大きさならそれで充分だろう」
「そうですね! ルイーゼと一緒に適当な籠と布を探してみます」
 命が永らえることを二人は祈りながら、屋敷への帰路を進んでいった。


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