序 忘れるための夢


 ここはどこだろう。カノンは思った。上も下も右も左もない空間に彼女は佇んでいた。そこは僅かに輝く銀色の星々と、一目にはその役目を担いきれない淡い光を放つ扉があった。そしてそこに溶け込むかのように一人佇んでいる人物が居る。……カノンをシェラルフィールドへと導いた人物である。
「……あなたは」
「おや、このような場所に訪れる者などいないというのに」
 世界に溶け込むような黒衣をまとった人物はゆっくりと振り返った。そして、佇むカノンを見て口元だけで笑みを形作った。
「我ら王に望まれた『鍵』がこのような場所に何用か?」
「何か、って言われると何もないんですけど」
 実際、なぜカノンは自分がこのような場所にいるのか分からない。これは夢なのだから、と彼女は勝手に思っているのだ。意識だけこの場にいる、など彼女は創造もしていないのである。漆黒の闇に浮かぶ光の中で人が動いているのを彼女は確認する。
「これは?」
 カノンは光の中で動く人を見つめる。そこは戦場だった。流血と破壊の旋風が移動しているのが素人目にもはっきりと分かった。二本の剣がそこかしこで激突し、火花が青くは願っている。刃鳴りが立て続けに響き、その残響が消え去らないうちに相手が一閃を放つ。素早く笛を吹き鳴らすような音がして、刃先に血の虹がかかる。
 矢風が咆えて、一方の群の隊列がもう一方の隊列を包み込んだ。馬が横転し、人が落ちる。苦痛の悲鳴と死の沈黙が入り乱れ、それを人馬の血が染め上げる。血の匂いがカノンの鼻孔まで流れてくるような凄惨な映像に、彼女は思わず眉をしかめる。今までの彼女の生活にない『戦争』を彼女は目の当たりにしたのだ。その中心で剣を振るうのは、血と泥に汚れた精悍な顔立ちの大柄な男だ。馬の手綱を手にしたまま彼は剣を振るい、生者を死者に変えていく。
「これは過去の出来事であり、今の出来事であり、未来の出来事」
 黒衣の人物が、感情が込めない声で紡いだ言葉をカノンは理解できなかった。過去であり、今であり、未来である出来事。少なくとも彼女の記憶にはない場面であり、もしかするとこれから遭遇する場面なのかもしれない。その光の中の喧騒が消えると、また別の映像を彼女の琥珀色の双眸は捕らえる。
 そこに現れた場面も、やはり『戦争』の絵。だがしかし、場面の中心にいる人物は先ほどとは異なっていた。先ほどは精悍な顔立ちの大柄な男性ではない。先ほどの人物とはあまりにもかけ離れている姿だった。カノンの目に映ったのは大軍を率いて剣を振るう人物。それは先ほどの人物と変わりはしないのだが、その外見は真逆と言っても決して間違ってない。薄茶色の髪を金色に透かしている。それは脱色や染色では決して出せない、自然な透明感を持った色彩だった。眇められた瞳は淡い碧色を有した人物は、とても男には見えない面差しをしていた。
 最前線ではないものの、声を張り上げて兵士たちを鼓舞する姿は、人の胸を打つ何かがある。しかし、初めて見る姿であるはずなのに、である。わずかにカノンは思案した。そして、一つの結論に辿り着く。
「水瀬……紫苑?」
 紡がれた言葉は、元の世界にいた頃に聞いた名。カノンの通っていた陽宮学園の上を行く伝統校に通っている人物。女子校だったせいもあるか、ことさら異性に反応を示す生徒たちが熱を上げていた人物の一人だ。他人の空似であるかもしれなかったが、彼女は一度見たものを決して忘れない。食い入るようにその映像を見つめながら、彼女は恐ろしい事実を思い出す。春先に、彼が行方不明になったというニュースが日本を駆け巡ったのである。物騒な世の中だ、とその時は誰もが思っていた。そしてその数ヵ月後に訪れた夏。その夏の頃に、カノンは誘拐されてしまったのだ。
 ……彼女の先輩である天城ひばりたちは彼の事を知っていたはずである。その彼女たちとて、彼を探さなかったわけではない。それでも彼を見つけ出すことが出来なかった。その理由は……。
 剣を振るう姿は、カノンの知る彼の面影はない。しかし、その姿は間違いなく彼であった。青ざめてさえいる彼女の耳に、男の声が響く。
「彼の者は、失われゆく国を守るため、彼の者は新しき国を築くため」
「え?」
 歌うように紡がれた言葉にカノンは反応した。黒衣の男は唇に笑みを形作ってみせた。
「機械仕掛けの沃野から誘われた鍵は、何もそなただけではない」
 彼は続ける。
「遠き日に四玉の王より託された、扉の番人たる我のつとめ。先の大乱より七百七十七の時が移ろう時に。また、先の大乱より七百七十七の時が移ろう前に、崩れゆく国を守るため」
「……何を言ってるの?」
 カノンは映像から目を話し、黒衣の男を見つめる。すると、彼女の背後から聞き覚えのある声が響き渡った。




「それでも、私は一緒に居たいっ」
「……怪我じゃ済まない事態に陥るかもしれない。オレは……」
「ルーベ様、私は何のためにこの世界に呼ばれたんですか?」
 琥珀色の双眸に映ったのは紛れもない自分の姿だった。だが、それは今の自分とは明らかに違う姿だった。自分の後ろに映っている場所も判然としなかったが、ルーベに向かって映像の中のカノンは言葉を続けている。
「私は、貴方を王にするために、この世界に誘われたのです。貴方のそばで、貴方のために貴方のそばにいることを咎められる云われはありません」
「それでも」
 ルーベはその柳眉を歪め、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。それでも頑ななまでにカノンの表情は変わっていなかった。所々衣服が汚れ、破れてはいるものの眼光の輝きは一部も失われていない。鋭いとさえ取れる視線を真っ直ぐに彼を見つめていた。
「全て、覚悟は出来ています」
 カノンにはその目が戦いに赴く者のそれに見えてしまっていた。




 決死の覚悟をした自分の顔を見て、彼女は何か不思議な気分にかられた。半ば唖然とした表情でその映像を食い入るように見つめていると、ふいにその映像が途切れた。
「これ以上は、そなたにはまだ早すぎる故」
「……あれは、私の未来?」
 彼は彼女の問いに答えなかった。沈黙は肯定、と取るには不確定要素が濃すぎる。恐らくは、事実なのだろうがそれを確かめる言葉を彼に投げかけることは出来なかった。
「我の役目は、引き裂かれてわかたれた二つの界の、慟哭と渇望の声を等しく叶えること」
 彼は言った。
「そして我が見る世界はすべて『今』」
「今?」
 カノンはますます困惑した。そんな彼女を見て黒衣の男はなお、笑う。……少し、カノンはこの世界の意味が分かった気がした。
 暗闇にぼうとまた違う映像が浮かび上がっていった。そこに現れたのはまた一人の青年と、外見はルーベに似ている雰囲気を持つ人物だった。カノンは仮定していた、一番最初に見た大柄の男性が国を建て直し、二番目に出てきた少年が国を作った、と。歴史は繰り返す。それはきっと七百七十七という時間を経て。すると自分の役割は……。思案にくれるカノンはまた別の姿を自分の視界に捉えた。
 それはまた別の青年と、どこかルーベに似た青年の二人組み。
「そなたの瞳に見るのは、最後の『鍵』」
「最後?」
「世界が、渇望した最後の鍵。王が望んだ最後の鍵」
 旋律を紡ぎあげる黒衣の男は、どこか寂しげに唇を動かしていた。
「否、最後であるはずの鍵。鍵が役目を果たさなければ、決して叶わぬ鍵ゆえに」
「叶わない、鍵?」
 男は多くを語らない。ただ、パズルの一欠けらを呈示して見せるだけで決して。
「……少し、我は言葉が過ぎたかもしれぬ。まあ目覚めればこれは忘却の彼方へ消えうせるだろう。そうせざるを得まいよ、まだ時は早すぎる」
「忘れる? ……これ、を?」
 カノンは決して忘れたくないと思った。忘れてなるものか、としかし彼は無慈悲に言葉を投げかけた。
「いずれ、辿り着くこと。今しばらくこのことに触れる必要はない」
「でも!」
 それでも、と彼女は言葉を続けて言うことを許されなかった。ゆっくりとあたりの景色が闇色だけに染まっていった。意識が堕ちて行く感覚に襲われつつもその記憶だけは決して手放すものかと強く強く脳裏に出来事を刻み込んでいた。それが無駄な努力であることをわかっていても。


「お嬢様、おはようございます」
 朝日を瞼に浴びて、カノンはゆっくりと瞳を開いた。柔らかな寝台に身を預けていたカノンは、ゆっくりと辺りを見回す。そこはいつもと変わらない屋敷であり、いつもと変わらないカノンの部屋であった。シャっと布を引く音が彼女をより現実に引き戻す。
「今日も良いお天気でございますね」
 ルイーゼの声も、いつも通りであった。しかしカノンは寝ぼけているわけではなかった。今が現実なのか、夢の中なのか判然としなかったのである。寝台の中でごろんと寝返りを打ちハタとカノンは気がついた。
 夢を見たことは覚えているが、夢の中であった出来事は何も覚えていない。その事実に気がついたとき、彼女はあまりのことに愕然とした。知り得なかった真実に触れた気がしていた。謎が解けたとさえ思った出来事を全て忘れてしまっているのだ。忘れる、ということをあまり体験したことのないカノンはもう一度ゆっくりと夢の内容を思い出そうと記憶を辿るが、それは決して表層に浮かび上がってくることはなかった。
 恐らくは黒衣の男の夢を見たのだろう、それだけは確かなことである。だが、それ以上はなにも思い出せないのである。まるで空白になってるいるようでカノンは気持ちが悪かった。今だ寝台の上で起き上がることもせずに、丸まっているとルイーゼに声をかけられる。
「どうなさいました、お嬢様。体調が優れないようでしたらお医者様をお呼びいたしますが?」
「いえ、大丈夫です。起きます」
 カノンはゆっくりと寝台から身を起こした。
 忘れるために見た夢であるならば、初めから見なければいいのに。そんな事を思いながら季節が変わっても決して変わらない太陽の陽射しを浴び、その眩しさに目を細めた。


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