15.朝焼けを浴びる時


 ルーベは、彼女の元へ駆け寄っていった。炎上する屋敷の上は脆く、彼が一歩を踏み出すたびにどこかが崩れるような音を響かせるが、彼はそんなことを気にも留めていなかった。
「怪我は?」
 そっと彼の手がカノンの煤に汚れ頬を撫でる。しかし、頬を触れられた少女の顔は心配そうに歪んでいた。
「ルーベ様こそお怪我を! 髪が、それに頬も……」
「こんなもんかすり傷の内にも入らねぇよ。髪だって何の問題もないし。むしろ風通しがよくなった」
 確かに、彼は怪我をしていたがこんなもの怪我のうちには入るほどの重症ではなった。貴族の証とも言える髪を切られたことは多少彼にとって痛手だったかもしれないが、それでもこの炎の中では楽に感じていた。苦笑したように微笑んだルーベはカノンの姿を見回して眉間に皺を寄せる。
「オレよりカノンのほうが重傷だな」
「え?」
 カノンは自分の姿を見つめて、改めて納得した。破ったドレスから伸びている白い脚には、どこかで火の粉を浴びたのだろうか所々赤くなっていた。腕もまた同様である。手のひらの鬱血もあるが、カノンとしてはまだ頭が平静ではないためか、全く痛みを感じていなかった。
「あ――……。そうですね」
「そうですね、じゃなくてさぁ」
 ルーベの表情からは一片、苦笑が抜け、心の底から彼女を心配しているような表情に変わる。誰の目から見ても、怪我の具合からしてみればカノンのほうが重傷といえるだろう。放っておけば傷も残ってしまうかもしれない。
 男の身体に多少の傷が残っても名誉の勲章で済ませることが出来るかもしれないが、女の子の身体に傷が残っては目も当てられない事態になる。
「早く手当てしねぇと」
 その場で手当てを始めかねない雰囲気を醸し出していたルーベに、横にいるのに完全に忘れ去られた感が否めないサナン制止する。
「ちょっと待て」
「何だよっ、邪魔すんな」
「邪魔とかそういう問題じゃねぇさ。この屋敷倒壊寸前だっつーこと忘れてねぇ?」
「……あ」
 一瞬、親の敵のようにサナンを睨みつけたルーベだったがすぐに思い出したかのように間の抜けた表情になる。
「オレたちはぎりぎりまでここでくっちゃべってても、さして怪我することなんてねぇよ? けどさ、お嬢連れてたら話は別だぜ? 万が一にも怪我させたらどうするさ」
 サナンは最もそうに講釈を述べてみせた。煤に汚れた姿で偉そうに言われても、凄みはなくルーベとカノンは小さく噴き出した。緊迫した空気が完全に払拭したことをこれを示していた。笑われたことに一瞬むっとしたような表情をしたが、すぐに笑っている二人につられて笑顔になる。
「それもそうだな。じゃぁさっさと下に降りて、んで手当てしよう」
 そういうが早いか、ルーベはカノンの腰に手を回して抱き寄せ、そのままそっと横抱きに彼女を持ち上げた。カノンの体が羽のようにフワリと浮かんだ。このような状況に陥ったのは、初めてではないにせよ、ルーベの端正な顔が近くにあると自然と彼女の心拍数は上がってしまう。エデルに抱き上げられた時とは、全く違うこの心臓の高鳴りをそのままイコールで恋に結び付けられないのは、つり橋効果のなせる技かもしれない。
「いやかもしれねぇけど。しっかり掴まっててくれな」
 苦笑しながらルーベが言うと、抱き上げられたカノンはいつもより近い位置で彼の顔を見つめる。
「……もしかしなくても、このまま屋敷の中を通っていく経路を取りませんよね?」
「え? ああ、そのつもりだけど。中危ねぇし」
 さらりと告げたルーベの言葉に、カノンは脱力する。確かに、いまだ炎上を続ける屋敷の中を通ることは危険以外の何物でもない。しかし、彼女としては再び屋根の上から地上へと飛び降りるという稀有な体験をすることになるとは思っていなかった。
 落とすつもりはないといわんばかりに、ルーベは彼女の身体を抱き自分のほうへと引き寄せる。エデルとは違う温もりに、正直にカノンは安堵していた。ゆっくりと彼女も、ルーベの首に腕を回す。
 いつの間にか、天に昇っていた月は地平線上から去り、変わって空には太陽が昇っていた。朝焼けの色が彼らを染める。朝焼けこそ見たことはなかったが、空に上る月の満ちるさまは嫌というほど見てきた。あの月が満月になる頃には、きっと助けに来てくれると、物語の登場人物のようなことを考えている自分を彼女はずっと恥じていた。
 一人で見ていた月が去り、身を寄せ合って昇る太陽を見つめたこの瞬間は、何を物語っているのだろうか。
「ちょっと、怖いかも知れないけど、絶対落とさないから」
「……はい」
 絶望の闇はもう広がっていない。太陽が輝き、未来への光が広がっているのだ。何を怖がる必要があるというのか。ルーベはカノンの身体を抱く腕に力が込められる。彼女も、ルーベの腕にまわす力を強める。ルーベが柔かく微笑んで見せると、カノンの瞳には薄っすらと涙が浮かぶ。それを見た彼は、そっと彼女の煤で汚れた額に口付けた。一瞬触れただけで離れた唇であっても、カノンのそこは柔かな熱をはらんでいた。
「あーもうへいへい、いちゃつくのは結構だけど、降りてからしたほうがいいんじゃね?」
 サナンが決して彼らのほうを向かずに言うと、先に屋根を蹴り、地面へと降りていた。確かに、屋敷の倒壊の音がすぐそばまで迫ってきているのが彼らにもわかった。カノンが顔を真っ赤に染めると、同じく少しだけ照れたような表情を浮かべたルーベも地面を蹴った。

 朝日に照らされた地上には、もうすでにシャーリルとシオンの姿があった。音もなく、二人が同時に地面に降りると、地面に寝かせられているシオンの傷を手当てしていたシャーリルが振り返った。
「ルーベっ、その髪!」
「ああ、やっちまった。でも、それ以外は無事だから」
「髪をアイツに切られたのか?」
「え? そうだけど?」
 カノンを抱いたままの状態で二人のもとに、ルーベが近づいていくと、シャーリルはその美貌を悪鬼のごとく歪ませていた。その表情に、二人は素直に恐怖した。
「リファーレ程度が? ルーベの髪を?」
 まるで呪いの呪文を紡ぐように唇を動かした彼に、ルーベは必死で声をかけた。
「いや、もう屋敷の屋根の上から落ちて死んだし!! それにリファーレの腕でって言うか、リファーレを操ってたマハラにやられたっつーか」
「じゃあマハラを殺しに行けば良いのか」
「うん、わかった。シャル、一回オレの話を聞くって所から始めようぜ。とりあえず、落ち着いてみようか」
 かみ合っているようで、かみ合わない会話を二人がしていると、今度はサナンが悲鳴をあげる。
「うっわあ、坊どうしたさ、その怪我!!」
 地面には隠せない血の痕が残っていた。いつもであれば、ここで一言、二言言葉を返すシオンであるが、今はそれすらままならない。腹部に空いた傷跡は、ようやく塞がっている感が強かった。彼の顔色も優れない。他にも切り傷や刺し傷があり、この戦いで最も怪我を負ったのは彼であることは明白だった。
「……エデルに手も足も出ずに負けたんか?」
「……負けたことは否定しませんが、手も足も出ずに、ということはありませんでしたよっ」
 吐き捨てるように言ったシオンの表情は、苦渋に満ちていた。天と地ほどとまではいかないものの、まだまだ埋まらない兄との差に彼は奥歯を噛み締めていた。そんな素直に感情を見せるシオンに、サナンは苦笑とも取れる笑みを浮かべることしか出来なかった。それでも、あるいはいつかは彼が兄という壁を越えられる日が来るかもしれないと心の内で思いながら。
「で? お前他に怪我はしてないな?」
「ああ。これぐらい後で自分で治す。シオンは?」
「傷は塞いだ。それだけでいいって彼が言うからね。次はカノン?」
 ルーベがゆっくりと地面に彼女を下ろすのを見ながら、ようやく何かに取り付かれていたシャーリルが平静を取り戻して言った。所々に重傷というほどではないが、決して軽くない傷を負っている少女を見やって言う。
「大丈夫だった?」
「はい! ……あの、本当にお手数をおかけしてしまって」
 申し訳なさそうに表情に翳りを落とすカノンに対して、ルーベもシャーリルも言葉を紡ごうとした瞬間、彼らの背後でけたたましい轟音が響いた。咄嗟にカノンを背に庇いながら彼らが振り返ってみたものは、つい数時間前までそびえ立っていた貴族の屋敷ではなく、焼け崩れた屋敷だった。その倒壊の破片に巻き込まれないよう、彼らはさらに屋敷から距離を取る。完全に、その被害が及ばないところまで来た時に、もう一度振り返るとそこにはあるべきものがなかった。
 わずかに残ったのは焼け焦げた黒い柱と、屋根瓦程度であり、それ以外は海へと落ちていった。倒壊の時に起こった風とは違う、朝の爽やかな風を受けながら彼らはことの終焉を見たことを共通に胸に抱いていた。どれだけ強固のものでも、崩れる時はあっという間なのかもしれない。
 それは建物であるかもしれない。人であるかもしれない。国であるかもしれない。この先より多く、彼らはその『倒壊』を見ることになるだろう。彼らにとってこれは、取るに足らない事象の一つでしかありえないのだった。



「ただいま戻りました。皇帝陛下」
 わずかな灯火しかない暗がりの室内に、声が響いた。玉座に座っていたサンティエの口元がかすかに歪んだ。彼の前に膝をつくのは三人。マハラ・エデル・ロザリアである。彼らの表情は玉座に座る彼らの表情は伺えないが、それでも彼にとっては構わなかった。
「陛下のご命令どおり、邪魔者を排除してまいりました」
「ご苦労だったな」
「勿体無いお言葉でございます」
 マハラは深々と頭を下げた。外套が外され、白い髪が頭を下げると暗闇にゆらりと落ちる。
「二人も、良く働いてくれた」
 視線がマハラから、エデル・ロザリアに移ると彼らもまたサンティエに向かって礼を口にする。
「愚弟はどうだった?」
「相変わらずご壮健そうでいらっしゃいました」
「そうか、鍵は?」
「お怪我もないようにお見受けしました」
「そうか……」
 サンティエの藍色の瞳が妖しく輝く。彼にとって、ルーベが、カノンが健やかでいるほうがより喜ばしい事態なのだ。いずれ、遠くない未来に訪れる抗争の敵は強ければ強いほうが良いと彼は思っているからである。そもそも、リファーレの行動は全て単独行動であったのだ。彼は、彼から一言も事態を知らされていなかった。
 それでも、国の情勢のほとんどを知っている彼はあえてリファーレを自由にしてやっていたのだ。マハラたちに彼に手を貸すように言ってまで、彼を泳がせていたのはルーベたちの行動を高みの見物をするために他ならない。実際に、くだらない虚劇を全部鑑賞し終わったサンティエの感想はやはり『くだらない』の一言であった。それ以上の感想を、もし抱けるものがいるのであれば会ってみたいと、彼が思うのも無理はなかった。
「いずれ、この件については愚弟の話も聞いてみるか」
「陛下の御心のままに」
 恭しく言葉を紡ぐマハラに対して口元を歪ませると、視線を再びエデルたちに向けた。
「貴様らはもう下がれ」
 これ以上用件はない彼らを、サンティエは解放する。すると、エデルとロザリアはほぼ同時に立ち上がりもう一度皇帝に向かって礼をすると薄暗い部屋に解けるように姿を消した。
「エデルはシオンと、ロザリアはシャーリルと相対した様子です。特にロザリアには少し荷が重かったかもしれません」
 【最強】のレイターである漆黒の髪を持つ、ルーベの腹心であるシャーリルの実力は、同じレイターであるマハラが一番知っていた。しかし、それを告げて事態がどうなることでもない。現在、ルーベについているレイターはシャーリル一人である。残りのレイターは全て皇帝側と言っても過言ではなかった。ロザリアは、エデルがいる限りこちらを離れることはないだろう。また、レイター・クレイア・ジェノサイトも、皇太子がルーベの人質に取られない取られでもしない限りこちらを離れることはないと踏んでいる。
 戦力的には、まだまだ皇帝側の有利である。今、危険因子としてルーベを潰すこともできるのであるが、サンティエはそんな愚かなことはしない。
「マハラ」
「何でしょう、我が君」
「あれはどこまで力を得ると思う?」
 サンティエは椅子の肘掛に肘を置き、マハラがどう反応をするか楽しみにしている、と言わんばかりの表情で見つめた。一瞬、彼も返答に窮するが彼はゆっくりと唇を動かした。
「陛下の、望むままのお力を、もしくはそれ以上の力を得るのではないかと思います」
 サンティエは、至極満足そうな笑みを、その皺の刻まれ始めた顔に浮かべて見せた。マハラの言葉こそ、彼が皇帝として、敵を求める者として最も求める言葉だったのである。
 ひとつ、またひとつと歴史は流れていく。ある時は春の小川の穏やかな流れのように、ある時は嵐に見舞われた濁流のように。人を慰め、人を翻弄し、それでも流れは止まることはない。例え、その流れがどれほどの人を傷つけたとしても。……あるいは、どれほどの犠牲を生むことになったとしても。


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