7.尊い言葉を口にする日

 
 屋敷の彼の自室には、既にシャーリルとサナンがいた。到着と同時に、ルーベの表情は引き締まる。室内には明かりが灯されていて、その明かりに照らされたルーベの表情はいつになく厳しいものだった。
「で?」
 彼はつけていた外套を邪魔そうにバサリと跳ね除けると、自分の机に座る。光に照らされてはっきり浮かび上がる影の濃さが、彼の気持ちを語っているかのようだった。それを確認してから早速、シャーリルに事情を話すように促す。
「今さっきだ。彼女の気配を感じた」
 シャーリルは一言そう告げた。カノンはこのシェラルフィールドの世界で唯一、魔力を微塵も宿さない存在である。故に、彼女の気配を探すときは人の気配はあれど、魔力が感じられない場所を探せばいいのである。そうは言うものの、これを実行するのは指南の技である。
 そのあたりは、さすがレイターと言ったところである。容易ではないこの作業に、彼も骨を折っていたのだ。それが突然。カノンのまとう独特の雰囲気は、一度感じればそうそう忘れられるものでもない。故に、彼女の気配を感じられたのだ、遠い遠い場所で。
「で、場所は?」
 ルーベがせかすように言葉を紡ぐと、今度はサナンが前に出てくる。広大なシレスティア帝国の地図をルーベの前に広げてみせる。
「この地図はシレスティア帝国ない全領土の地図さ」
「そんなもん、見りゃ分かる」
 前書きはいいからさっさとしろ、といわんばかりのルーベの表情に苦笑した彼はさらに話を進める。
「シャーリル曰く、方角的にはこっち」
 地図上で、彼は真っ直ぐに断崖絶壁のある海を指差した。そこでルーベは怪訝な顔をする。それもそのはずである。地図上に記された場所には屋敷の印は刻まれてない。
「そいうわけ。ここには国に報告されてない屋敷があるってことさね。かなりの高確率で」
 トントンと軽快な音を立てて叩かれた机を、ルーベは穴が開くほど凝視する。
「確認してこないと何とも言えないけど、何もわからなかったこの四日、日付変わったからもう五日か。よりはマシだね。明日にでも、僕かサナンが言ってみようと思ってる」
 シャーリルが淡々と言葉を紡ぐと、ルーベは決意と怒りを宿した瞳を上げた。思わず背筋がぞくりとするような鋭い視線を真正面に浴びた二人は思わず口を真一文字に噤んでしまう。
「オレが行く」
 水を打ったような静寂の中ルーベが発した言葉。その言葉は単純で、誰もが理解できるものだった。普段、朗らかな笑みを浮かべ時に真剣な議論を出来るだけの男とルーベを見る人間たちからは決して想像が出来ないような声と表情。ルーベの一番素に近い部分を知る人間は少ないのだ。
 こういう状態になった彼は何を言っても聞かない、ということはサナンにしてもシャーリルにしても理解できているため、有能軍師のほうは何も言わない。当然、稀代のレイターもそうであろうとサナンは思っていたが、シャーリルはルーベ同様厳しい表情を浮かべて言った。
「駄目だ。今お前が行ってどうこうなるような状況じゃないだろう」
「そんなもん関係ねぇよ。行って、カノンがそこにいるなら連れ戻してくりゃいいだけの話だろう」
「そう簡単にいくと思ってるのか? 向こうだって必死だ。お前にしても彼女にしても無傷ですむとは限らない」
「仮定の話は嫌いだ。向こうがこっちに向かってくるんだったら、片っ端から殺していきゃ言いだけの話だろう。皇帝じゃねぇけど、王弟に逆らった反逆者になるんだから」
「カノンがそこにいれば、の話だろう。連中が頑なに隠したり、本当はいなかったりしたら、お前だって処分は免れなくなる」
「……仮定の話だ」
「ああ、そこにカノンがいる、というのも仮定の話だ」
 淡々としている会話の中に生じる、肌に触れるだけで静電気のようにピリピリと感じる空気に、サナンは今すぐこの部屋から逃げ出したいという感情に強烈に襲われていた。ルーベの視線だけで人を殺せそうな眼光を浴びせられても、シャーリルは眉一つ動かさない。
 滅多に見ることが出来ないルーベの本気の姿をみてサナンはこげ茶色の髪を掻きあげながら、彼らの言い合いを見つめていた。
「何が言いてぇんだよ」
 明らかに苛立っている声でルーベはシャーリルに言葉を投げかける。感情的なルーベに対して、氷のように冷静な声で返す。
「さっきから言ってるだろう。僕かサナンが様子を見てくる。その上で、お前が動くべきか動かないべきかを決める、と」
「誰が?」
「君が」
 硝子に罅が入ってしまうのではないかと言う空気に、サナンはいい加減息苦しくなってきた。真面目に着込んだ軍師服の襟元を緩め、ため息をついた。この二人が真っ向からぶつかることはほとんど皆無と言ってもいい。シャーリルはルーベの安全を最優先で考える。それを彼も理解しているから不承不承でも彼の言うことを最終的に聞いているのだ。
 しかし、これほど頑ななまでに二人の意見が平行を辿るのはなぜだろう、と彼は思う。
「双方本気ってことか」
 サナンの呟いた言葉は二人の耳に届きはしなかっただろう。譲れないものは誰にでもある。シャーリルにとってそれはルーベであり、ルーベにとっては現在カノンであるだけの話である。サナンとしては二人の気持ちが理解できるので、どうしたものだろうと思っていた。思っているだけで、現状は何ら変化はない。
 高い天井を見上げてため息をついた彼は、二人の会話に参戦しない。したところでどうにもならないことを知っているからである。故に、傍観するしかない。彼等が手や足や魔力や剣を使い始めたら止めるつもりではいるが、これまでどれほどの口論をしても二人とも武器を出したことはなかったのでそれはない、とこの時まで彼は思いきっていた。
 いきなりガタンという音がたつ。それはルーベが立ち上がる音に他ならない。
「埒があかねぇ」
 ぐしゃっとルーベが自分の髪をつかむと、そのまま乱暴に梳いてみせる。
「お前が馬鹿だからね」
 安すぎる挑発は、頭に血が上ったルーベには充分の威力を発揮する。上から見下すような威圧感を持って彼はシャーリルを睨みつけていた。獲物を見つけた肉食獣よりも煌めく瞳に、誰もが一瞬たじろいでしまうだろう。しかし、その眼光を真正面から浴びてもシャーリルには動じない。
「ルーベ、どこに行くつもりだ」
「何度も言った」
 つまり、闇に乗じてそこまで行き、カノンを奪還してくるというのだ。いくらなんでも短絡的すぎだ、と傍観を決め込んでいたサナンが口を挟もうとした瞬間だった。ルーベの前に立ちふさがったシャーリルが、目を凝らさなければ見えない、と言っても過言ではない速さでルーベの頬に己の拳を繰り出したのだ。
 まさか彼がこのような行動に出るとは思わなかったため、サナンも動けず、それ以上にルーベは受けることも防御することも出来ず、その渾身の力が込められた拳を直接受けてしまった。シャーリルよりも一回り二回りも大きな彼の体が吹き飛び、勢いよく先ほどまで彼が座っていた木造の一目で丈夫とわかる机に直撃した。ルーベが勢いよく直撃しても壊れなかった変わりに、彼に衝撃が増し彼は苦痛に表情を歪める。
 殴った当の本人も、怒りにまかせその美貌を歪めていた。殴ったほうの手を、もう片手で押えながら怒りを押しつぶすような声で言葉を紡ぐ。
「馬鹿だ馬鹿だと思ってたけど、ここまで救いようのない馬鹿だとは僕も思ってなかったよ」
 怒りを含んだ彼の笑顔は壮絶な美しさを醸し出していた。彼を止めようと思ったサナンであったが、体が硬直して動かない。今のこの二人に口を挟んではいけないと本能が警鐘を鳴らしていたので、それに従い何も言わない。
「シャルっ!」
「何? 文句があるなら言えば? 聞いてあげるから」
 嫣然と微笑むシャーリルは、殴られて吹っ飛ばされたままの体制のルーベに目線を合わせるように膝を折った。しかし、彼は奥歯をギリっと噛み締めるばかりで何も言わない。
「何も言わないの? 言えるはずないか。……頭冷えた?」
 シャーリルがそう問うと、ばつが悪そうにルーべは頷いた。背けた顔、唇の端からは殴られた影響で切れた唇から血が流れている頬に手を翳した。軽傷ではあるが、傷である。柔かく暖かな光が彼に頬に集まり、彼の傷を癒していく。痺れるような痛みが徐々に薄らいでいく心地よさに、ルーベはそっと目を閉じた。
「……悪ぃ」
「僕こそごめん」
 先ほどまで漂っていた不穏な空気が嘘のように、二人の間には穏やかな空気が流れていた。ルーベの怪我を治癒しているシャーリルの頬に、手当ての邪魔にならないようにそっと触れた。
「お前に手、上げさせた。大丈夫か?」
「うん、全然」
 さらりという彼の表情に苦痛や苦悶の表情は浮かんでいないことに、彼はほっとした。力の入っていた四肢の力を抜いて、机に自分の全体重を預けた。
「サナン」
「あん?」
「悪いな、妙なもんみせた」
 ルーベが苦笑いをしてみせると、小さなため息をついた彼はゆっくりと彼に近づいて。シャーリルと同様座っている彼と目線をあわせるために屈んで見せた。
「お前らの痴話喧嘩なんて見慣れてるさ。ただ、今日はちょっち激しかったがな」
 そういうと、サナンはゆらりと立ち上がった。
「じゃ、日が沈むまでには戻ってくるさ。それまでシャーリル。コイツ頼むな」
「頼まれなくても目を離さないよ。いつ暴走するかわからないんだから」
 そういったときのシャーリルの表情は穏やかなものだった。それを見たサナンは安心する。
「サナン」
 先ほどの殺気さえ含まれていた声ではなく、耳に心地よい穏やかな声。立ち上がった彼が彼に呼ばれて振り返る。緑の強い瞳と黒紅色の瞳が交錯する。
「頼んだ」
「おう」
 これ以上の言葉は必要なかった。サナンは振り返らずに真っ直ぐ歩き、扉をくぐっていった。
「ルーベ」
「何?」
 サナンが一人消え、再び静寂が降り立った室内でシャーリルがルーベを呼んだ。
「お前にとっては辛いかもしれない。でも、彼女の身の安全が最優先だ」
「……分かってる」
「最低三日、遅くても四日あれば、彼女を救い出せる」
 その三日、四日と言う時間が恐らくルーベにとって苦痛を伴う時間だろう。それを承知でシャーリルは口にする。絶望と、希望を。しかし、先ほどのようにルーベは荒れることはなかった。ただ、苦笑する。
 時が流れるのは人に許された平等の一つである。早まることもなく、また遅くなることもない。ルーベは彼の前で項垂れて見せた。決して人の前で弱みを見せない彼であるが、シャーリルの前では別である。そんな彼の姿を見ても、シャーリルは何も言わない。ゆっくりと治療していた手をどかすと、その手で彼の髪をそっと撫でた。
「シャル……」
「何?」
「お前も、そうだったか?」
 言葉少なに言ったルーベの真意を正確に理解したシャーリルは柔かく微笑む。
「ああ、そうだったよ」
「そっか」
 彼は小さく頷いた。パルティータを失ったときも、半身を抉られるような感覚に襲われた。途方もない喪失感を感じていた。目の前で彼女が死んでしまった瞬間を目の当たりにしたとき。今はあの時よりも遥かに状況はいいはずなのに、あの時よりも焦燥感に襲われるのはなぜなのか、ルーベは合点がいった。
「シャル」
「何?」
 二人の声は、とても穏やかだった。
「オレ、カノンのことが好きだ」
「……うん、いいんじゃないか?」
 穏やかな、とても穏やかな声が室内に生まれる。
「だから、守りたいんだ」
「守ればいいじゃないか。お前にはその力があるんだから」
 言葉に出して、それは宣誓に変わる。先ほどのルーベと同一人物はと思えないような声で紡がれた言葉を、シャーリルは尊く思う。彼は瑠璃色の瞳を細めて、彼ただ微笑みかけた。不安は払拭することは出来ないけれど、共にあることは出来る故に。


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