8.近い未来に


「お嬢様、ご起床を」
 天蓋のついた寝台のそばにやってきた侍女に起こされる。眠ってはいるものの、安眠は出来るはずもなく、浅い眠りを余儀なくされているカノンはすぐにその琥珀色の双眸を開くことが出来る。
「……おはようございます」
「おはようございます。お嬢様」
 相手が誰であろうと、挨拶をせずにはいられない、というか条件反射で挨拶をしてしまう彼女に、侍女たちも挨拶をする。何不自由ない生活が、今日で五日目。後二日もすれば一週間たってしまうのかと思うと背筋が凍る思いだった。
 身支度を整えられると、朝食が運ばれてくる。朝食は大抵一人で食べるのである。食事は毎日同じものではない。向こうも気を使っているのか、栄養も考えられているのか、同じものが食卓に並んだことはまだ一度もなかった。
 大切にされているらしい、ということはカノンにも理解できていた。綺麗な着物を着せられて、食事を食べさせられて、籠から出してもらえない鳥は不自由の中の自由を楽しんでいるのだろうか、と暇を持て余して考えたことはこの五日間一度や二度のことではなかった。
 朝食を取ったあと、しばらくしてカノンは屋敷を警護しているエデルを部屋に連れ込んで、カノンばかり口を開いているが会話をしている。屋敷の外にほとんど出ていないのは彼とて同じのに、カノンが聞いたことにはほとんど答えてくれていた。ルーベが、今何をしているかということを。嫌な顔一つせず、というかほとんど彼は表情の変化を見せない。そんな中、僅かな表情の変化を見つけることが出来た時、カノンは純粋に喜んだ。
 時々ルーベのことを語る彼の表情が厳しくなり、柔かくなってみたりすることに気がついたとき彼女は、エデルという人間はきっとルーベの友人なんだと思ったのだが、それを口にすることは出来ないでいた。
 正午に近づくと、ロザリアが部屋を訪れる。毎度毎度一瞬だけ空気が凍る感覚に襲われるが、いまだその理由が分からない。しかし、三人で食事を昼食をとるこの時間が、この屋敷での生活の中でカノンの一番の楽しみだった。午後はロザリアとほとんど一緒に過ごしていた。教えられたナイフ投げも真っ直ぐ飛ぶようになってきていた。筋がいいと彼女は褒める。彼女もまたカノンより年上であるため、ミリアディアとはまた違う性格の姉のように思ってしまう。
 嫌われてはいない、可愛がられているという自覚が出来てカノンはとても嬉しかった。午後のお茶をしたあと、やはり他愛のない話をする。それもカノンにとってはこの屋敷にいる中で呼吸をしている、と感じる瞬間だった。カノンは基本的に夕食は食堂で食べている。しかし、そこにリファーレの姿はない。この屋敷に連れて来られた日以来彼の姿を見ていないと言うのは彼女にとっては安堵すべき出来事だった。夕食はカノンとロザリア、そして腕を引っ張って無理矢理席につかせるエデルで食事をするのである。
 決して会話は多くないが、一人ではない食事を彼女は嬉しく思っていた。夜になるとロザリアも屋敷を離れる。エデルも自然と姿を消していた。早く寝てしまいたくとも、一日のほとんどを動かずにすごしているため疲労から眠りに落ちることは出来ない。故に腕立てをしてみたり、腹筋をしてみたりと細々と身体を動かし、ついでに筋力がつけばとしているのだがそれにも限界がある。寝台に入って目を閉じても眠れず、必然的に広い部屋の中に一人取り残されたカノンの動悸が上がることはあったが、そういう時は決まってエデルが部屋の扉を叩いてくれている。そのままいつの間にか眠ってしまうと、また侍女に起こされるのだ。五日間、この繰り返しである。
 月が完璧な円の形を天空に形作るまであとあと一日ぐらいであろうというという日、この日も少しだけ発作に襲われた。襲われるのは余裕があるからだ、と自分に言い聞かせる程度の余裕も持ち合わせつつ、今日もまたルーベたちに思いを馳せて意識を手放した。


 屋敷中の誰もが寝静まった頃、一人の男がカノンの部屋から出てきた。寝着ではないが、騎士服というほど堅苦しくない格好である。帯刀もしている。女性の部屋から出てきた男にしては無骨な格好をしている。それはカノンと彼の間に何もないということを証明している。
「またお姫様の所? 随分ご執心ね」
 カノンの部屋から音を立てず出てきたエデルに、壁に寄りかかっていたロザリアが唇に指を当てて妖艶に微笑えみながら言う。彼女の視線に曝されても、エデルは顔色を変えることはない。ロザリアとしては、恋人であるエデルが別の女と仲睦まじくしていること事態が気に喰わないのである。
 彼等の間に何があるわけでもない、それは理解できるのだが、嬉しくはない。むしろ腹が立つのである。牽制のようにそこに立っていても顔色一つ変えない彼に対して尚苛立ちは募る。
「彼女、一人になると寂しくて、人に関心を持って欲しくてああやって貴方を呼ぶのかしら?」
「別に呼ばれているわけではない」
「じゃあなんで貴方が行く必要があるわけ?」
 ギロリとロザリアが彼を睨んでも、エデルは動じない。それどころかため息をついて彼女を見やる。
「では、お前が行くか?」
「ええ、行くわよ! 貴方があのお姫様の所に行くぐらいだったら、私が行って慰めてあげるわ!」
「……そうか」
 彼は淡々と答えて彼女を素通りする。小さな灯火に照らされた金色の髪がわずかに残像を残すように宙を靡くと、ロザリアはギリっ奥歯を噛んだ。
「エデル、真面目に取り合ってくれてる?」
「ああ」
 背中越しに問われた言葉に、エデルは答える。しかし、歩みは止めない。ロザリアは壁から身体を起こし、彼の背中に向けて声を荒げた。
「お気に入り?! 団長の彼女が!」
「別に」
 感情的な声を風のように受け流すエデルに対して、ロザリアの苛立ちは増すばかりである。赤丹色の美しい髪は、苛立ちに焦がされているように、第三者が見ていたら見えたかもしれない。
「……貴方がそうやって別にって言葉を言うだけでも珍しいって気付いていてやってるの?」
「そうか?」
 努めて冷静に言葉を紡ごうとしているロザリアだが、上手くはいかない。両腕を組んで廊下の真ん中に仁王立ちのように立ち、皮肉さを隠さずに彼の背中にむけて言葉を続けた。
「そうよ。でも残念ね!」
「何が?」
「昨日、あの子夜に外に出たでしょう?」
「出てたな」
「私もイラついていたから、原因の一端は担ってるけど、あの子私の張った結界に触れたのよ」
 彼女が張っている結界。それはカノンの姿をくらます術。この屋敷自体にかけらている大きなもので、それを張ることも、それを壊すこととて生半可なことでは出来ない。レイターであるロザリアだから出来たものなのだ。しかし、例外はある。ロザリアは組んでいた腕を解き、自分の美しい髪を梳きながらため息をついた。
「彼女が触れたのか?」
「ええ。せっかく寝てたのに、びっくりして飛び起きちゃったわよ。……それで貴方たちの姿を見たの」
 やはり見られていたのか、とエデルは内心思った。歩みを止めゆっくりと振り返るとロザリアは怒りと悲しみを両方均等に織り交ぜられた表情をしていた。
「珍しいわよね、ホント」
「仕事だ」
「その割には優しくしてあげてたわね」
 立ち止まり、振り返ったエデルにゆっくりと近づいていき、そしてそのまま彼の身体にその白い腕を絡ませた。
「エデル」
 彼女は艶やかな唇で彼の名を呼ぶ。
「好きよ」
 一言でも返ってきて欲しいと。
「大好き」
 万感の思いを込めて 
「愛してる」
 しかし……。
「……知ってる」
 彼から同じ言葉が返ってくることなど、皆無に等しかった。それでも思いを告げずにはいられない己は愚かなのだろうかとロザリアは思う。
 しかし、彼がまわしてくれる腕の温もりと伝わってくる温度があるから、彼女は彼を信じることが出来ていた。言葉なんていくらあっても足りない。少なくとも彼女にとってはそうだった。でも、欲しいと思ってしまう自分の気持ちに嘘も付けず、また間違っているとも思えなかった。
 無言で彼女たちが抱き合っていると、ふと風の変わる音が聞こえた。
「誰かいるわね」
「ああ」
 二人はどちらともなく離れた。理由は分かっている。あとは、どう対処するかである。
「どうする?」
「……どうしたい?」
 エデルは珍しく彼女に聞き返した。それが意外でロザリアも思わず目を丸くしてしまうが、すぐに笑みを浮かべる。少しだけ悩むような素振りを見せてから、唇を動かした。
「放っておく、っていうのは?」
「なぜ?」
 相変わらず無表情のまま問うエデルに、ロザリアはクスクス笑いながら言葉を続けた。
「私にとって、害がないから」
 二人とも、深夜の来訪者について見当がついているのである。ルーベ側の間者だろう。エデルのほうは正確にそれが誰だかわかっていないようだが、ロザリアにはわかっていた。軍師であるサナン。机の上に向かい頭脳を振舞っているよりも、隠密でもやったほうが向いているのではないかと思うほどの腕を持つ彼を、二人とはいえ捕まえることは難しいだろう。
 だからあえて放っておく、というのが彼女の建て前である。が、建て前よりも本音のほうを先に出すあたり彼女らしいと言えば彼女らしいのかもしれない。しかし彼女の言葉に笑いもせず、エデルの碧色の双眸何かを思案するように揺らめく。
「エデルはどう思うの」
 ロザリアが聞くと、彼は一拍間を空けてから肯定を口にした。それを聞いたロザリアはまた妙な勘繰りをしてしまう。エデルは立場上、カノンをこの屋敷から助け出すことは出来ない。だから、ルーベにその役を譲るというのではないかと。少なくとも、彼はカノンのことを嫌ってはいないのだから。
 不快感を顔に表さないために、彼女は多少なりとも努力する必要があった。
「部屋に戻れ、ロザリィ」
「え?」
 エデルはそういうと、彼女に背を向け歩き出す。
「放っておくのだろう? だったら、これ以上この場に留まる必要もない。どうせ外からはオレ達の姿が見えない」
 彼の言葉通りだった。外から中の様子が見えないようにとリファーレの命により、ロザリアはその通りに実行しているのだ。サナンがいかに腕が立ち頭が切れるといっても、レイターほどの魔力を有している訳ではなく、団長ほどの腕を持っているわけではない。
 不信に思っても手詰まりで今日は一度引くだろう。
「……そうね、部屋に戻るわ」
 ロザリアもエデルに同意すると、彼女も歩き出した。踵の音が高く天井に反響する。歩きながら、彼女は、部屋に戻り次第リファーレに連絡を取ることを決めていた。彼が来た、ということはルーベが勘付いたことに他ならない。ということは、近い内に彼は彼女を連れ戻しに来ると言うことである。
 彼女としてみれば、カノンは純粋に可愛いとは思っているのだが、エデルの前に出てくるのが気に喰わないのだ。エデルの恋人である以上、不安要素はすべて削除したい所である。故に、彼女から言わせれば、いち早く彼女がルーベの元に納まってくれれば何も問題はないのだが、そうも言えない立場が存在する。
 放っておく、と言いつつも報告の義務を全うしなければならないと思うと若干気が重いと感じていた。隣にいる愛しい人物を見上げてみても、表情が伺えない。エデルの意思は自分の意思、と思っている彼女から言わせれば寡黙すぎる彼の心内が読めない。
「もう少し、喋ってくれればいいのに」
 ポツリと呟いた彼女の言葉に彼は答えなかった。


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