4.無窮の闇に浮かぶ月


 この幽閉生活に、一つの転機が訪れてからまた二日経過した。少しだけ一日に変化が訪れたことを、カノンは嬉しく思っていた。レイター・ロザリア・シルフィールと知り合えたことは少なくとも彼女にとってはいい方向にことが進んだといってもいいことだったのである。
 ボスンとようやく眠りなれてきた寝台へ身体を横たわらせ、ふと視線を横にずらすと、月が目に入った。満月まであと少し、という完全な円ではないやや不恰好な月。あの月が満ちる頃にはルーベが助けてくれるかもしれない、と淡い期待を胸に抱いてみたカノンは小さく笑う。
 彼女は寝台から起き上がった。そして、肩掛けを掴んで吸い寄せられるように窓へ向かった。鍵のかかっていない窓はすぐに開かれる。

 季節は、日本で言う所の春。だが、一歩広縁に出ると海から来る風は冷たくカノンの肌を刺す。強い風でしっかりと梳かれた髪は乱れ、寝間着の裾もはためいてしまう。しかし彼女は部屋に戻らず、月を見上げていた。手を伸ばせば届くかもしれないと思わせるほど大きく見える月。無窮の闇に浮かんだ月は何も言わずカノンを照らしている。
 月の光が闇色の海を照らし、岩にぶつかり弾ける水滴一つ一つに、真珠のような輝きを与えていて、上からその幻想的な風景を目の当たりにしたカノンは思わず感嘆の声を上げてしまった。彼女は金色に輝く柔らかな存在を琥珀色の瞳に閉じ込めるようにずっと見つめていた。月の柔らかな雰囲気は、この世界に来てからカノンを包み込んでいた雰囲気に似ている。
 風が冷たいのではなく、身体が冷えてきたように思えたカノンは肩掛けをしっかりと押えながら、部屋に戻るべく踵を返した。そして窓に取っ手に手をかけた。最初に引いて入ってきたのだから、押せば開くと思った窓が開かなかった。なので引いてみるが、それでも扉は開かない。
 横に動かしてみても駄目だった。でたらめに、力任せに取っ手を動かしてみるものの、窓は開くことはなかった。冷たい汗がカノンの背筋に流れていく。扉を叩けばあるいは誰かが気がついてくれるかもしれないと思い、カノンは拳で容赦なく窓を叩いてみるものの、割れる気配はなく、音が室内に響いている気配もなかった。
 ベタリと冷たい窓にへばりついてみるものの、当然室内には誰もいないため助けを求めることさえ出来ない。窓に張り付いていても身体の体温はどんどん奪われていくだけだった。
 ついてないというか、あまりの事態にカノンは窓に背を預けてその場に座り込んだ。風と窓から身体の温もりを徐々に奪われていく感覚に、彼女は苦笑するしかない。両腕で身体を覆っても、それは弱まることはなかった。
 しゃがみこんだまま空を見上げても、相変わらず月は手を伸ばせば届きそうなほど近かった。星の瞬きも眩しくて、夜だというのにさほど恐怖はなかった。
 風に吹かれて、亜麻色の髪が揺れる。岩に打ち付けられては引いていく潮の音を聞きながら、カノンは思いを馳せていた。
 こんな冷たい場所ではなく、暖かな場所のことを。恐らく、自分を必死になって探してくれているであろう優しい人物のことを。


 突然、カノンの心臓が早鐘のように鳴り始めた。カノン自身、まずいと感じ必死で身体をちぢこませて自分を落ち着かせるように心の中で強く念じ始めた。
「大丈夫だからっ」
 思わず口から出た言葉は、過去の自分に幾度となく紡いだ言葉だった。 自分はいらない存在ではない。自分は分かってもらえない人間じゃない。置いていかれた人間でもない。
「大丈夫だから、平気だから」
 それでも全く落ち着かない自分の心臓に、カノンはさらに焦ってしまう。幼い頃、世界を飛び回ることを余儀なくされてた両親が、彼女を預けた施設。母方の祖父母は海外に、父方の祖父母とは折り合いがあまりよくなかった為、昔から少しだけ変わっていたカノンは、ある施設に預けられたのだ。
 そこではカノンは『人』ではなく可能性を秘めた『実験体』だった。そこにはぬくもりはなく、無機質な冷たさだけがあった。ただあの時の記憶は彼女の中で曖昧で、あまりはっきりと残っていない。残っているのは強烈な孤独感だけ。
 子どもなりに反抗もしたが、所詮それは子どものわがまま程度。いい子に待っていてと親に言われてしまえば、泣き喚いて親に縋る事も出来ない。周囲の大人たちは、彼女にとって温もりをあたえてくれる存在ではなかった。
 必ず迎えに来てくれる両親に、怖いとも言い出せず、ただ迎えに来てくれる日を待つ日々。それは幼い彼女にとって苦痛でしかなかった。もしかしたら捨てられたのではないか。いい子じゃなかったから、こんな場所に連れられてきたのではないか。
 不安だけが募り、時折彼女は発作のように、呼吸困難に陥ってしまったり、不整脈で倒れてしまったりしていたのだ。
 暗く、冷たく、人のいない場所でたった一人になってしまうと今だカノンはそれを思い出してしまう。両親が一人寂しい思いをさせるより、同じ年頃の子どもたちがいると言ってきた施設に彼女を預けたのは、彼女を思っての行動だったことを理解している。だからこそ彼女からこそ、胸の内をいまだ両親に話すことが出来ずにいたのだった。
 誰かと、自分以外の誰かと共に過ごしていれば、決して起こらない発作が彼女の身体を蝕んでいく。カノンはさらに震える自分の身体をきつく、きつく抱きしめてその身を丸める。
「……ルーベ様っ」
 最初に叫んでしまった名前が、あまりにも意外でカノン自身も少しだけ戸惑ってしまう。しかし、一度発してしまった言葉たちは止まることなく彼女の口から紡がれる。
「ミディ夫人、シャーリル様」
 それはカノンにとって誰もいない世界で優しくしてくれた人々の名。
「ルイーゼ、……ヴィルチェ……」
 いくら大丈夫と、いくら平気と叫んでも、心の中の誰かが甘く囁く。本当に? と。どうして? と。その不安と打消しの言葉が彼女の心を侵蝕していく。
 呼んだ所で、誰もこられないということがわかっていながら紡がずにはいられない自分の弱さを恥じる。しかし、とうとう堪えることが出来ずカノンは涙を零し始めた。生暖かいそれがとめどなく彼女の頬を濡らしていった。
 涙を流したことでではなく、徐々に息苦しくなっていくのを感じながら、カノンは震える身体と乱れた呼吸を元に戻そうと必死だった。

 ふと、月明かりがカノンに届かなくなった。雲にでも光が遮られたのかと思い、涙目のまま顔を上げると涙に濡れた琥珀色の双眸が捉えたのは空ですらなかった。そこにいたのは人。
「風邪を引いてしまいます。どうか部屋へお戻りを」
「……誰?」
「エデルです。カノン様、お部屋にお戻りください」
 ニ、三度瞬きをして、ようやく眼前の人物がはっきりと視認出来るようになる。そこにいたのは間違いなく、第一位階の騎士であり、シオンの兄であるエデル・ラウ・フェルマータだった。彼はカノンの前に膝をついていた。
「貴方……、どうし……ここ……?」
 息も絶え絶えに言葉を口にするが、彼は彼女の意図を汲み取って答えた。
「リファーレ卿にこの館の警護を申し付けられました。館内に貴女の気配を感じられませんでしたので、探していましたらこちらでした」
 エデルはすっと膝を折ると小さく、失礼、と呟いてから身体を震わせているカノンの背中に腕を回し、まるで泣き止まない子どもをあやすように背を撫でた。暖かな温度を感じた身体は先ほどとまで全く言う事を聞かなかったのに、徐々に落ち着きを取り戻していく。
 人の気配とぬくもりとが、恐怖感を溶かしていくのだ。涙腺が壊れたように流れていた涙も、眉を顰めずにはいられないほど苦しかった呼吸も嘘のように収まっていく。
 程なく、カノンの乱れた呼吸はおさまった。
「落ち着かれましたか?」
「……はい」
「では、お部屋に……」
「あ、この窓が開かないんです」
 顔を拭きながら、すべての言葉が出る前にカノンは言った。いぶかしげに眉を顰めたエデルは、失礼と言って立ち上がりカノンの後ろにある窓に触れた。
 数回扉を開ける努力を彼もしてみたようだが、結果は彼女と同じである。海風に煽られ、彼の月光を紡ぎ合わせたような色の髪が揺れ、外套がはためく。それを気にも留めずに、再び彼はカノンの前に膝をつき、今度は手を差し伸べた。
 これは暗に『立て』と要求しているのだとわかったカノンは、その手をとると、二人はゆっくりと立ち上がったのだった。
「では、ご無礼を先にお詫びしておきます」
「え?」
 言うが早いかエデルはそのままカノンを持ち上げる。彼の素早く、また当然のような動作に彼女の瞳には混乱と焦りしか発生させることが出来ずにいた。
「エ、エデル様?!」
「掴まっていてください。このまま入り口まで行きます」
 真顔でそう告げられてしまうと、納得できそうだが、この状態でどうこの中に入るのか分からないカノンは碧色の瞳を覗き込みそこから読み取るしかなかった。それを察したエデルが言葉を紡ぐ。
「これは魔術による仕掛けではありません。仕掛け扉になっているので、この扉は外から決して開きません。中から外の様子は見えても、外から中の様子は見えないようになっているはずなのですが、貴女には関係なかったようですね。」
 手が込んでいる、とうざったそうに言うエデルを少しだけ意外そうにカノンは見ていた。このように少しでも感情を露にする人物には、晩餐会の時に一度だけ顔を合わせた時には分からなかったからである。
「なので申し訳ありません、入り口まで回ります」
 回ります、と言っても広縁から飛び降りた所であるのは断崖絶壁がそびえ立つだけであり、彼と一緒なら死にはしないだろうが怪我は免れないだろうと思われる。カノンを抱き上げたまま、数歩歩いて広縁の中心辺りまでやってくると、彼は歩みを止めた。
「壊せば中に入れないこともありませんが、それはそれで問題なので。お手数ですが、しっかり掴まっていてください」
 なぜ、と理由を問うよりも先に、彼女の耳には地面を蹴る力強い音が届き、身体は奇妙な浮遊感を感じた。その理由は簡単だった。エデルが飛んだのだ。
 それは鳥のように飛翔したのではなく、跳躍だった。三階建ての建造物の三階に部屋を持つカノン。故に広縁に出て、屋根に上るというのも無理な話ではない。その跳躍力があればの話であるが。それを人一人を抱えてもやってのけてしまう辺り、さすがは第一位階の岸なのかもしれない。
 屋根の上を軽く歩く余裕のエデルに対して、カノンは驚きのあまりに彼の腕の中で硬直してしきってしまっている。無理もないと言えば無理もないことではあるのだが。
「大丈夫ですか?」
「……大丈夫です」
 そうとしか答えられないカノンを彼は改めて抱えなおした。ギュッと抱えられてカノンは端正なエデルの顔とより近くなる。
「しっかり掴まっていてください」
 疑問しか口に出来ないまま、とりあえずカノンは腕をエデルの首に回してギュッとしがみついた。この時点で嫌な予感はしていたのだ。上に上がる、ということはこれ以上は空が広がっているだけでありそれ以上には何もないと言うことである。
 すると次に起こるとすれば……。
「では、降ります」
 やっぱり、と叫ぶ前に、カノンは落下する感覚に身体がついていくことが出来ず、ヒっと小さな悲鳴を上げるだけでこれ以上悲鳴を上げることが出来ず、彼の肩に顔を押し付けてせめて下を見ないようにすることだけだった。
 下に飛び降りることによって生じる突風によってカノンの髪と服が、そしてエデルの髪と服がバサバサと音を立てて揺れる。キュッと唇を横一線に結んで頑なに目を閉じて、彼にしがみついていたカノンはしばらくその体勢だけを保つことしか考えられなかった。
「カノン様」
「……」
「カノン様、地上に着きました。もう大丈夫です」
「……え?」
 そういわれて視線を上げると、碧色の瞳を目が合い、カノンは思わず顔を赤らめてしまった。カノンはふわりと地面に足を下ろされたが、地面に自分の力で立とうとした瞬間、膝の力が抜けてしまったのだ。
 自分の足が言うことを聞かないなどと思っていなかったカノンはそのまま体勢を崩しかけたが、すぐに横から伸びてきたエデルの腕がカノンを支える。
「あ、すいません」
「いえ、大丈夫ですか?」
「は、はい」
 そう答えるものの、カノンに膝は今だガクガクと震えていた。それを察したエデルは再び彼女を抱き上げる。
「エデル様?!」
「僭越ながら、このままお部屋まで運ばせていただきます」
 無表情で、感情の込められない表情のままエデルは彼女に言葉を発した。しかし、身体を抱き上げている彼の腕の温もりは温かく、その手は非常に優しかった。
「……すいません」
 カノンはその温もりに酔わされたのか、素直に首を縦に振ってしまう。
 小さく、ほんの小さく笑ったエデルにカノンは気付くことはなかったが、彼はこの時小さく笑ったのだった。


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