5.獅子を思い、花を思う


 カノンが誘拐されてから、一日経過した。たった一日、それがこれほど長く感じたことは、ルーベはなかった。無力さは彼の身体と心を侵蝕し、彼のまとう雰囲気はいつもの彼を知っている者たちからすれば恐怖以外の何物でもない。
 こんなことではいけないと分かってはいるもの、平静を保てない自分にも腹は立ち彼の苛立ちは一方に治まる気配はなかった。苛立ちを押えるために、無心で書類に向かってみたり、兵の相手をしてみるものの、結局は心ここに在らず、なのである。
「お前、そんなんじゃそのうち取り返しのつかない怪我をするぞ?」
「しねぇよ、そんなもん」
「注意力散漫」
「どこが」
 ガリガリと書類の決裁をするルーベにシャーリルは言葉を投げかけるが、彼の言葉さえ今の彼の心を諌める作用は乏しい。やれやれといった感じで肩を竦めたシャーリルはぼそりと言葉を紡いだ。
「誰がカノンを攫ったか、見当がついたよ」
「誰だ!?」
 小さな欠伸をしながら発せられた言葉を聞き逃さなかったルーべは、手元の羽ペンをバキリと粉砕させながら聞き返す。そんな彼の行動に苦笑いをしながらシャーリルは髪を後ろに払いながら言った。
「まぁ、大方の予想通り。リファーレ卿だ」
 その名を聞くと、ルーベの黒紅晶の瞳に瞋恚の炎が宿り、逆巻くのを間近でシャーリルは感じていた。肌を焦がすような彼の怒りを正面から浴びるの初めてではなく、そして対象が自分でないことはわかりつつも、この怒気は心臓に悪いと彼は思っていた。彼は自身の漆黒の髪をばさりと払いながら言葉を紡ぐ。
「今すぐ乗り込めないことぐらい、今のお前にもわかるな?」
「……わかってる。埃がでてこねぇんだろ?」
「そんなところだ。ただ、馬車の家紋が見えた。馬鹿だな、だから下っ端を使うと足がつくっていうのに」
「多少連中がヘマしたところで、カノンを手放すつもりも、他の証拠を見せるつもりもねぇってことだろう」
 ルーベは自分の発した怒気を押さえつけるように、低い声を紡いだ。そこからは忌々しさは伝わってくるものの、彼が落ち着いた、という雰囲気はまるで伝わってこない。
「リファーレ卿は頭が切れる皇帝陛下の狂信者だからな。性質が悪い」
「ああ、アイツの持ってる屋敷の一個にカノンがいるんだろう」
「そう思って間違いないだろうけど、アイツは別屋敷を何個持っていると思う?」
 シャーリルは厳しい顔つきでそういうと、さらに言葉を続けた。
「申告せずに建てた屋敷もあるかもしれない。それをどうやって探すかだ。きっと屋敷内か、屋敷の外かに彼女の気配絶つ魔力が張られているだろう」
 彼の言葉にルーベは眉を顰める。
「お前やオレが本気になっても見つからないほどの、か?」
「ああ、君や僕が本気になっても見つからないほどの、だ」
 一瞬室内に沈黙が降り注ぐ。そのあと、眉間に皺を増やしたルーベが言葉を発した。
「レイターが誰か絡んでるってことか、多分ロザリアだろうがな」
「多分ロザリアだね。ということは、必然的にエデルも絡んでる」
 すると、ルーベは両手を机の上で手を組み、盛大な舌打ちをする。忌々しさを隠そうともせず、心の内を吐露するように紡がれた言葉。
「あいつ等っ」
「憎むべきはあの二人じゃなくて、黒幕。黒幕の愚者」
 その言葉に眉間に皺を寄せるわけにもいかないのがシャーリルである。諌めるのは、常に彼の仕事である。真実を口にしたところで、彼を諌められることはできないとわかっているが、それでも一応言葉にしておく。
「焦る気持ちも分かるけど、こういうときこそ頭冷やさなきゃ」
「わかってるっ」
 熱い人間だとは思っていたが、これほどまでとは、とシャーリルは思わずにはいられない。彼と共にあると誓約してから、十数年。それ以来彼の瑠璃色の瞳は常に彼の行動を見つめてきたはずにもかかわらず。シャーリルは今更折れてしまった羽筆に気がついたルーベが気がつき、不快さを隠さない表情でそれを処理している様を見つめながら苦笑した。
 本気の恋愛恐るべし、と。しかし当人がどこまで彼自身の気持ちに気がついているか、というのはわからない。ただ、彼が彼女を助けたいというのなら、それはシャーリルにとって実行すべきこと。遂行するべき任務。彼のためにと心に誓った日から決めていること。
「もうちょっと、探ってみるから。お前は普段どおりにしてろ」
「ああ。悪いな、お前ばっかりに面倒かけて」
「別に。今更だろ?」
 苦笑するシャーリルはルーベに背を向けて扉を出て行こうとした。しかし、彼に呼び止められて、上半身だけ捻ってルーベを見つめる。
「何?」
「少し休めよ」
 ある程度予測していた言葉だったので、シャーリルは苦笑のような笑みを浮かべて軽く答える。こういう状況下でこういう言葉を言えるからこそ、彼は人望があるのだろうとシャーリルは思った。彼は瑠璃色の瞳を細めて首を振る。
「平気だよ、これぐらい」
「平気って言ってる奴ほど危ねぇんだよ。カノンを探すの協力してくれなきゃ困るけど、お前に倒れられたらもっと困る」
 真剣にそういうルーベの瞳には彼を心配する色が伺え、先ほどまで灼熱の怒りの炎を燃え上がらせていた人物とは思えない。何の返事も返さないシャーリルを見て、ルーベはさらにまくし立てる。
「休め。そのあとまた頼む」
「……わかった」
 シャーリルには初めから彼の言葉を拒むことなど出来ない。そんなことわかりきっているはずなのに、素直に最初からその言葉が出ないのはなぜだろう、と彼は思う。
「ありがとうな、シャル。きっと、近い内に衝突は避けられないから、今の内に静養しといてくれ」
「わかった」
 それは希望の光を宿す笑顔だった。その笑顔を見たシャーリルはつられて笑顔を作った。しかし、それでも彼のためにも早くあの少女を見つけ出さねば、そんな焦燥を感じて彼は内心苦笑する。どれほどルーベがカノンのことを思っているかわかるからこそ、早くこの事件を解決させたいのだ。
 口ではこういったものの、もう少し心当たりを探ってみようと密かに思うシャーリルだった。



 一方のカノンは、特に何かを強要されるわけではなく、籠の鳥になっている程度で今の所彼女自身に害はない。昨晩は、思わず錯乱して人に迷惑をかけてしまったが、そのお陰で新しい話し相手が出来ていたのだ。第一位階の騎士であり、シオンの兄でもあるエデル。この屋敷の警護を任されているらしい彼は、寡黙な人間であることには間違いないが、話しかければ話してくれるということが数時間前に判明していた。
 昨夜のことを詫びに来たエデルと、カノンは少しだけ話が出来たのだ。外に出られる彼からも、少し情報が聞けるかもしれないと思い様々なことを問いかけてみた所、ロザリア同様答えられるものと答えられないものがある、という前置きの後に彼は誠実に言葉を紡いでくれたのである。
 そして知ることが出来ることといえば、ルーベが自分のために奔走していることぐらいである。彼のために今、カノンが出来ることは皆無だと言うことを改めて知ることとなり、彼女の琥珀色の瞳の色も褪せてしまう。
 そんなカノンに声をかけようとしたとき、彼女の宛がわれている扉が叩かれた。
「カノン、ロザリアよ。入ってもいい?」
「あ! はい!!」
 パッと顔を上げたカノンは先程より少しだけ嬉しそうに微笑んだ。しかし、この時エデルの表情にどこか影めいたものが落ちていたのだった。部屋にゆっくりと入ってきたロザリアは目を丸くする。その瑪瑙色の瞳に一瞬炎のように何かが燃え上がったような気がしたのは、カノンの気のせいだろうか。
「はい。エデル様……あ、ロザリィも第一位階の騎士だから、知ってる、よね?」
 おずおずとカノンがそういうと、ロザリアは妖艶に微笑んでみせる。唇に引かれた深紅の紅が鮮やかに歪んだ。
 不気味なほどに美しい笑みを浮かべたまま彼女は部屋の中に歩みを進めてきた。歩くたびにドレスの脇に入った切れ目から白い太腿が覗く。カノンの座っている長椅子まで歩いていくと、彼女の隣に座り眼前のエデルに声をかける。
 高々と足を組むと彼女は彼に声をかけた。 
「ごきげんよう、エデル様」
「ああ」
 そういうが早いか、彼はスッと椅子から立ち上がった。
「それではカノン様。失礼いたします」
「え! でも……」
「私にも他に仕事がありますので、失礼」
「あ、はい。ありがとうございました」
 カノンは長椅子から立ち上がると彼に頭を下げた。亜麻色の髪がその動きに合わせて揺れる。彼もまた会釈をすると無言で部屋を出て行った。そんな彼を見てロザリアは赤丹色の髪を指先で遊びながら、クスクスと笑う。
「私とカノンの二人がいて、緊張してしまったんじゃない?」
「そうでしょうか?」
 彼女の紡ぐ言葉にはどこか艶かしいものが含まれていたかのように思われて、カノンは隣に座る彼女を見つめた。髪を弄っていた指が、しっかりと紅の塗られた唇の上に乗る。
「男って言うのは危険って言葉に敏感な生き物なのよ」
「危険?」
 彼女の脈絡のない話に、カノンは首をかしげることしか出来なかった。
「そ、危険を避けるか寄っていくか人によるけど、男って生き物は『危険』って言葉に敏感なのよ。だから、彼も出て行ってしまったでしょ?」
 そう言って嫣然と微笑むロザリアの雰囲気は、いつもよりもどこか棘棘しく感じられた。その理由はわからなかったが、カノンには聞く勇気もなかった。
「ごめんなさい、驚かせた?」
「いいえ! ただ、今日ちょっとロザリィの雰囲気が違うから驚いたんです」
 ぎこちなくでも笑顔を作ろうとするカノンの頭に手を伸ばし、ゆっくりと髪を撫でると彼女は先ほどの美しいがどこか棘のある笑みではなく、彼女が知っているいつも通りの笑みを浮かべて言った。
「今日はカノンに一つお遊びを教えてあげようと思って」
「お遊び?」
 カノンは大人しく彼女に髪を撫でなれながら、その気持ちよさに目を細めながら再び彼女の言葉を復唱した。
「そう、お遊び」
 彼女がカノンの髪を撫でていないほうの手で持って見せたのは短刀だった。どこからか彼女が取り出した、その鋭い刃物の先端を見て、彼女は思わず小首を傾げてしまう。その姿に満足したように笑ったロザリアはその短刀を彼女たちの視線の先にある絵画の中心へと飛ばして見せた。
 風を切りながら真っ直ぐに飛んでいったそれは、絵画の中心に描かれている果物のさらに真ん中に命中したのだ。ドッという小気味良い音が室内に響き渡る。短刀の三分の一ほどが絵画にめり込んだのを見て、カノンは目を丸くする。
「どう?」
「どうって……」
 まず、部屋の調度品を勝手に傷つけてしまってもいいものか、ということの方が彼女にとっては問題だった。それさえ気にせずロザリアは言葉を紡ぐ。
「コレは簡単なお遊びだけど、それだけに、いつでも使える。何でもね。例えば、石とかでも、投げるだけなら一緒だし」
「……ロザリィ?」
 カノンは彼女の真意が読めず、彼女の名を呼ぶ。すると再び彼女はクスクスと笑う。
「この投げ方を覚えれば、少なくとも貴女の力になると思って」
「力?」
 その言葉に彼女は反応する。ロザリアはその反応に満足すると、彼女の髪を撫でていた手を頬まで下ろしてきた。
「今の貴女に力は無いでしょう?」
「は、い」
 カノンは真っ直ぐに見つめてくるロザリアの視線を外してしまう。そう、今の自分に力がないことは、誰よりも彼女が一番わかっていた。だからこそ反論が出来ずに目を逸らす。しかし、なぜ彼女は今そんな事を言うのだろうか。
「だから、貴女に牙をあげるわ。とてもか細い牙だけど、無いよりはきっとマシだろうから」
 そういって、彼女は再び笑って見せた。
「牙?」
「そうよ、牙。正確にコレを投げられる?」
 ロザリアが短剣をカノンに手渡した。彼女は少しだけ戸惑ったようにそれを受け取るとそれを一瞬躊躇する。冷たい温度を手の平に感じるが、意を決したように握り締めた後ロザリアが放ったように投げてみる。
 その速さと勢いは彼女とは全く違っていた。風を切る音もしなければ、当然刺さる音も響かない。途中で失速して床に落ち、カラカラと虚しい音を奏でるに留まった。
「ほらね。これだって簡単な物じゃないのよ。正確に投げられて、それなりに威力があったほうがいい」
 ロザリアは歌うように言った。
「でも、これが少しでもマシになれば、少しでも団長の力になれるってこと、貴女にもわかるでしょ?」
 カノンははっとして横の彼女を見つめた。ルーベの力になれるかもしれないということが、今のカノンにとってはとても魅力的な言葉だった。元はといえば今の事態も、自分があまりにも弱かったことが原因である。か細い牙でも牙は牙。それを持っていれば、少しでも身を守ることが出来るかもしれない。それは淡い期待でしかないかもしれないが、手に入れられるなら力が欲しい。自分の力で手に入れられるのであればなおのこと。
「やってみる?」
「はい!」
 時間はある、今自分に出来ることはとても少ない。だからこそ、出来るかもしれないことは今の内にやっておきたいと彼女は強く思っていた。
「まぁ、こんなもの放っておけば普通に刺さるわ。正確に投げたいと思ったら、その当てたい中心に、憎らしい人間の顔でも浮かべて投げたら、面白いぐらい飛んでいくから」
 ロザリアは笑顔で彼女に言った。それは今日、彼女が見せた笑顔の中で一番妖艶な笑みだった。
「恨みと憎しみを込めて投じれば……」
 彼女は再び短剣を手に取り、ヒュンとそれを投げた。それは再び中心に突き刺さる。
「ね?」
 それは花のような笑顔だった。しかしそれは、どこか毒のあるような恐ろしい笑み。しかしそれにさえ、気付かないままカノンは短剣を握り締めた。か細いだろうが、己の牙を手に入れるために。


BACKMENUNEXT


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送