3.閉ざされた扉


 用意された食事を口に運ぶ。体力を衰えさせる訳にはいかないと思ったカノンは、フォルゼと共に食事を摂る気にはなれなかったが、宛がわれた部屋で一人で食事を摂ることにしている。
 贅の限りを尽くされた食事であっても、空腹は満たされても味を感じることが出来ない。ルーベの屋敷で食事を摂る時は、いつも誰かしら側にいてくれて会話を楽しみながら、舌鼓を打つことが出来たのだ。なので今の状況はこの世界に来て始めて体験する『一人』だった。
 誰も味方がいない、という状態はこの上なくカノンにとって苦痛だった。思えば今まで自分がどれほど恵まれた状況下にいたのかというのを思うと、早くそこに戻りたいと思う。戻れない世界ではないことを、カノンは知っていたからだ。

 この屋敷に幽閉されてから二日が経過した。望むものを侍女たちに言いつけると、本当に何でも手に入って驚いていた。紙も筆も、本も。情報伝達手段として使えるものを要求しても、カノンは手に入ったのだ。しかし、この屋敷が建っている場所は入り口が一つしかなかった。玄関が唯一の出入り口である。
 なぜなら、屋敷は断崖絶壁に建てられており、このまま下に下りれば海に飛び込むしか他に方法がなく、岩肌が露出しておりこの上に飛び降りれば痛みも感じずに即死だろう。これが魔力を使えるものであれば、話しはまた別であろうが、カノンは対魔力については凄まじい効力を発揮するが、物理的攻撃についてはこの世界において一般以下である。
 部屋の出入りも自由だった。フォルゼの部屋に入ることを許可されてない以外は、屋敷中のどこの部屋に入ることも許された。カノンが読んだ地球で読んでいた頃の小説には、この屋敷のようなものなら隠し扉の一つや二つ存在しているのではないかと思って、そこらじゅうの壁や床に触ってみるが、それらしきものは見つかっていない。それでも諦めず、カノンは今日も食事が済んだらあたりの散策に出かけようと思っていた。
 フォルゼはまた『外に出たければ出ても構わない』と言ってのけているため、玄関の扉に鍵さえかかっていない。彼女がこの屋敷から逃げることは不可能と自信を持っているからこそ出来る芸当、というよりカノンは舐められすぎていることを自覚していた。しかし、実際なめられても仕方がないのが現状だった。
 出来る限り簡素なつくりのドレスを用意させて、それを身にまとうとカノンはさっさと部屋を出る。
 ここ二日、まともに人と会話していないことを悲しく思いながら、彼女は再び逃げるための算段を脳内で展開させようとしていた。

 三階建ての建物は、白い外壁に赤い屋根と、一目見ただけでは中々綺麗な建造物だった。屋敷の前には小さな庭園もあり、この屋敷の主人が女であればそこで小さな茶会を開くであろうとカノンも思ったぐらいだ。色とりどりの花が咲き乱れ、けぶるような薫りが周囲に満ちていることに彼女は少しだけ心を慰められる。
 カノンにとって、唯一心が安らぐ場所はこの庭園だった。花には何の罪もない。庭園の中心には加工された小さな机と、椅子が二体あった。その一歩に腰をかけてカノンはため息を付く。丁寧に梳かれた自分の髪の先端を指に巻きつけたり、解いたりと意味のない行動をしながら、真っ青な空を見上げる。
 琥珀色の瞳で、空を眺めていても、天から何か降ってくる訳でもない。


「あなたがカノンお嬢様ですね」
「……誰ですか?」
 白乳色の滑らかで一目で手入れの行き届かれているのが分かる決め細やかな肌。赤丹色の腰にまで届く長い髪に、瑪瑙をはめ込んだように輝く瞳、すっと通った鼻梁と濡れた薔薇の花弁の口唇が笑みを形作る。突然現れた絶世の美女に、カノンは瞳を奪われた。
 その様に満足したかのように、彼女は微笑んだ。そして、一歩一歩カノンに近づいていく。黒を基調とした体の線をはっきりと映し出すドレスには太腿付近まで入ったスリットが入っていて、彼女が歩くたびに白い肌が露になる。男でなくとも、その扇情的な姿に釘付けになるであろう光景に、カノンも例外なく視線を奪われた。
「初めまして、囚われのお姫様。私はレイター・ロザリア・シルフィール。お見知りおきを」
 カノンの前まで来ると、ロザリアは流れるような優雅な動きで彼女の前に膝をついた。そしてそのまま自然に彼女の手を取り、その甲に口付けをする。動揺することさえ出来ないまま、『レイター』という単語を聞き逃さなかったカノンは彼女に問う。
「レイター? じゃぁ、シャーリル様と同じ……」
「ええ、シャーリルとは顔見知り。旧知の仲ってやつかしら?」
 椅子に座っても? と彼女がカノンの対面にある椅子を指差して問うと、カノンは首を縦に振って彼女の次の言葉を待った。期待に胸を躍らせる彼女の双眸を見て、ロザリアは思わず苦笑する。
「でも、ごめんなさいお姫様。私は貴女の味方じゃないの」
「え?」
 高く足を組み、白い足が露になったロザリアの薔薇色の唇から紡ぎだされたのは、再びカノンを絶望へと叩き落すに相応しい言葉だった。
「私は、皇帝陛下側についている人間だから」
 その言葉に、カノンは絶句した。そして身体を硬直させる。殺されない、と思っていたのが傲慢だったのかと思うほど、今彼女の脳内を支配しているのは、恐怖以外存在しない。
 血の気の引いた彼女の表情を見て、ロザリアは苦笑するしかない。
「警戒しないで、というのも無理な話でしょうけど。警戒しないでくださいな。私はリファーレ卿の依頼で貴女の話し相手になりに来たよ」
 ひらひらと手を振ってみせ、両手の平をカノンに見せてみるものの、彼女が警戒を解く気配はない。
「いくら豪華に着飾って、食事をして、自由に動き回れても、話し相手がいないと気が滅入ってしまうでしょう? だから女の私なら貴女と気兼ねなしに話が出来ると思ったらしいのよ」
 やれやれという表情のまま、ロザリアは己の目的を紡ぎ始める。少なくとも、敵意がないことは証明しなければいけいない、としている彼女の行動に、カノンは眉間に皺を寄せることしか出来ない。
「私は貴女に隠し事をしないと、約束します」
「……誰に?」
 思わず口にしてしまった言葉に、満足そうに微笑んだロザリアは、続けて言葉を宙に舞わせた。
「四玉の王に」
 四玉の王に誓うということは、シェラルフィールド内で恐ろしく効力を発揮する誓いの言葉だということは彼女も知っていた。カノンは数度躊躇った後に、おずおずとロザリアに問いかけた。
「……私と話したことを、あの人に報告するのですか?」
「命令されていません。そんな義務はないです。もし報告を義務付けられたとしたら、まず貴女にその旨を伝えます」
 ロザリアの口唇は途切れることなく言葉を発していく。
「まぁ私も立場上、貴女に話せないことも五万とあります。ですが、それ以外でしたら、普通にお話できると思いますけど?」
 少しだけ、警戒の解けてきたカノンを見て、彼女は再び小さく笑った。警戒して当然の人物、心を許してはいけない人物にどう接すればいいのか分からない、という感情がひしひしと伝わってくる。
 恐らく腹の探りあいなど全く関係ない世界で生きてきたのだな、と彼女は思った。幸せな世界で幸せな人生を歩んできた幸せな少女、とカノンのことを認識する。
「では一つ。ルーベ様について」
 ロザリアが唇に乗せた名は、今カノンが最も気にしている人物の名だった。おそらくそれを分かっていて彼女はあえてその名を口にしたのだと、カノンにでもわかることだった。しかし、聞かずにいられるほど彼女とて大人ではない。
 机に両手を突いて立ち上がり、身を乗り出すようにしてロザリアに向かう。
「ルーベ様がどうかなさったんですか?!」
「いいえ、どうも。ただ、貴女のことを探すために奔走なさっておいでです」
 その言葉に、カノンは一瞬にして表情に翳りを漂わせ、ゆっくりと椅子に腰を下ろして、静かな声で言葉を紡いだ。
「お元気でいらっしゃるんですか?」
「二日やそこらで、体調を崩されるようなお方かしら?」
「……そうですね。でも、ご無理をなさってなければいいのに」
「なぜ?」
 ロザリアはあえてその言葉を彼女に投げかけてみた。
「私を助けようと、きっと無理をなさってると思うんです。私に力がなさ過ぎるから」
「――一つだけ、教えておいてさしあげます」
 彼女が予想していた言葉通りの答えをカノンが口にすると、ロザリアはわざとらしく咳払いを一つしたあと、ひどく真面目な表情で言った。
「リファーレ卿は、貴女を使って、いずれルーベ様を殺させようと思っています」
 その言葉に、カノンは何かを言おうとした言葉をすべて打ち消され、顔からさっと血の気が引いてしまった。その表情を見ても、彼女は言葉を緩めない。感情が込められてない言葉をなおも続ける。
「最も、そうそう簡単には無理でしょうけれど」
「どうして、そんな事を?」
「別に他意はありませんわ。貴女が知っておいて損はしない情報でしょう? 信じる、信じないは別にして」
 ロザリアはその瞳に強い輝きを宿しながらカノンを見据える。
「ゆめゆめ、リファーレ卿に心を許してはいけませんということだけは忠告しておきます」
 彼女は最後に、震える唇で言葉にならないカノンから伝わってくる『なぜ』の雰囲気に答えた。
「皇帝側についているとはいえ、私はあの方に私怨はありません。むしろ我らの騎士団長として、尊敬していますもの」
 これは彼女にとって嘘偽りの無い言葉だった。ではなぜ、皇帝側についているのか、と眼前の少女に問われたら、それ以上に大切なものがあるから、と彼女は答えただろう。ロザリアにとって、ルーベも、皇帝も、国の存亡も関係ない。
「どうしたら、ここから逃げ出せるでしょう」
 カノンはゆっくりと言葉を紡ぎだした。
「最善の方法は、体力を温存させておいて、団長の助けを待つことです」
 きっぱりと告げられた言葉に、カノンは少しだけ落胆の表情を浮かべて見せた。それに容赦なくロザリアは畳み掛ける。
「貴女ははっきり言って無力です。動けば動くほど、あなたは不利になる。そんな状況下で団長が来たら?」
 カノンはこれ以上言葉を紡ぎだすことが出来ずにいた。
「より迷惑をかけるのは明白です。今は時を待つこと」
 ロザリアと名乗るレイターの言葉は間違っていないことを、確信していたからである。明らかにへこんでしまったカノンに向かって、彼女はふわりとした微笑を向けた。
「必ずあの方は、貴女を助けに参りますよ。大丈夫です、あの方を信じて待っていれば」
 カノンはその言葉を疑うことが出来なかった。彼女は、嘘を付いていないと思ってしまったのだ。自らを敵だと名乗った人物なのだから、信用などしてはいけないと、頭の片隅で警鐘がなるのだが、この人なら、と思ってしまう自分がいるのもカノンは自覚していた。
「どうして貴女はそんなことを私に?」
 恐る恐る尋ねてみると、意外と彼女はさらりとそれを答えた。
「お話し相手を務める以前に、私のことを信じていただかないことには何も話は進展しませんもの。だから私の持ってる情報は貴女に提供します。話せる範囲で。それで信用していただけるなら安いものですわ」
 優しげな笑みにカノンは自分の先輩の表情を思い出し、どこか懐かしい感覚に襲われていた。
「ロザリアさん」
「親しい人たちはロザリィと呼びます。そうお呼びください、お姫様」
 思わず呼んでしまった名前に、瞳の一方だけ閉じたロザリアが悪戯っぽく微笑むとカノンも、少しだけ頬を赤らめる。
「じゃぁ、私の事も、カノンと呼んでいただけますか?」
「お呼びしてもよろしいのですか?」
 カノンは自分でも意外なぐらい首を勢いよく縦に振っていた。それをみて、彼女がまた鈴のように笑った。
「では、カノン。誰か呼んでくださいな、私、貴女とここでお茶が飲みたいです」
「はい!」
 この時、ロザリアは思った。あの琥珀色の瞳には、一体何が映っているのだろう、と。ロザリアは瑪瑙色の瞳を細めて、若干の憐れみといとしさを、不慣れな仕草で侍女を呼ぶ少女の姿を見て思っていた。とざれた扉は開かれない、希望を持たせるだけ罪だということを知りながら口走ってしまった言葉を脳裏に反芻させてみる。
 真実を世間知らずのお姫様に『嘘をついてでも、彼女の笑顔が見たかった』と言った、どんな顔をするだろう。そんな事を思いながらロザリアは偽りの笑みを顔に貼り付けたまま、しばしこの柔らかなときの流れに身をゆだねた。


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