2.流れ落ちた星


 ヴィルチェがこの世に生を受けて、十六年。いまだかつてこのような建物の中に足を踏み入れたことはあっただろうか。いやない。一般市民の多くは、貴族たちになど近づくことが出来ずに天寿を全うするのである。
 その前に、彼女が乗った馬車さえ座り心地がよく、貴族御用達の馬車なのだなとわかった。これは、夢ではないだろうかと何度も問うてみるもそれを否定してくれる客観的事実が一欠けらも存在していなかった。
 窓から見える景色は、もう既に夕暮れ時というには、大分時間が過ぎているように思えた。夜というにはまだ明るく、夕方と言うにはもう遅い時間、ヴィルチェは自ら『一般市民』という垣根を越えたことをようやく身体が実感し始めた。
 それでもまだ、自問自答は終わらない。どうしてこんなことになってしまったのだろう、と。
「ルーベ様っ。例の娘をお連れしました」
「わかった、入れ」
 ヴィルチェの心拍数がまた上がる。これ以上上がらないのではないかというぐらい脈打つ己の心臓を叱咤しつつ、彼女は小さく息を飲んだ。その様子に気がついたカズマが優しげな微笑を浮かべて彼女の頭を撫でた。
「大丈夫だって。言っただろう? 団長はお前をどうこうする理由なんてねぇんだから」
 その言葉に答えられないほど緊張しているヴィルチェは小さく頷くことしか出来ない。普段の負けん気はどこにいったのだろうか、彼女の今の状態はまさに借りてきた猫である。
 カズマが扉を開けると、そこには目も眩むばかりの人間が集まっていた。ヴィルチェの紫色の瞳は、あまりの事象をすべて把握することが出来なかった。それも当然である。まず彼女の瞳に入ってきたのは、騎士団長の服を身にまとう人物、赤みの強い茶の長髪、黒緑色の瞳を持ち、彫りの深い顔。堂々たる体躯と身にまとう雰囲気から皇祖の再来と囁かれている現皇帝の弟であるルーベ。彼の座る執務机であろう両側には騎士服を身にまとった男たちが数名乱れることなくたっており、彼女を見つめていた。
 カズマの手がポンっとヴィルチェの背中を押すと、扉の前で硬直をしていた彼女は石化を解かれ促されるように、ゆっくりと一歩一歩絨毯の敷き詰められた部屋へと歩みを進めていった。ルーベの座る机の空、四歩ほど離れた所でカズマが止まったため、そのまた一報しろ辺りに彼女も立ち止まる。
「突然呼び立ててしまってすまない。だが、事態は結構緊急を要するんだ」
 ルーベが突然口を開いた。ヴィルチェが頭を下げるよりも早く、長く艶やかな黒髪を持つ人物に睨まれた彼は慌てて口を動かした。
「……自己紹介も礼もあったもんじゃなかったな。初めまして、可愛いお嬢さん。オレはルーベ・フィルディロト・ライザード。シレスティア騎士団の団長です。以後お見知りおきを」
 以前として椅子に座ったままだったが、ルーベは早次にそういった。その言葉で正気に返ったヴィルチェは萎縮することなく、ドレスと形容するには貧相であるが、裾をすっと持ち上げ頭を下げた。
「お初におめもじ仕ります、王弟殿下。わたくしの名はヴィルチェと申します。親に捨てられた卑しい身分のため、姓はございません。『ペティグレイン』の娼婦見習いしております」
「『ペティグレイン』? リリアの店?」
 頭を下げたままのヴィルチェをみたまま、サナンは言った。
「はい、リリア・ルイスは私の養い親です」
 ゆっくりとヴィルチェが頭をあげると、二つに結んだ紅茶を薄く入れたような髪が跳ねる。
「あー、通りで見た事あるわけさ」
「お前、あの娼館に通ってるのか?」
「ときどーきな。あの店の女はイイ女ばっかりで、オススメ」
 ニコリと笑いながらそう言ってると、心臓の弱いものは心停止を起こしてしまいそうな瞳でルーベはサナンを睨みつけていた。一瞬室内の空気の温度が下がる。命が惜しくば口を噤め、とルーベの無言の言葉を聞いた彼は、大人しく口を噤んだ。
 再び頭を下げたヴィルチェに、ルーベは頭を上げるように言葉を書けると、『で、』と言葉を続けた。
「君とカノンはどういう関係なんだ? 一体何が起こった? 知ってることだけでいいから、包み隠さず教えて欲しい」
 ルーベの真摯の言葉を受け、ヴィルチェはゆっくりとではあるが言葉を紡ぎ始めた。カノンに助けられたこと、カノンに礼をするために『ペティグレイン』に連れて行ったこと、カノンと友達になったこと、また遊びに来ると約束をしたこと。彼女は包み隠さず何人もの軍人に囲まれた状態で言ってのけた。
 恐らく普通の女であれば、一歩この異様な空間に足を踏み入れただけで口も利けなくなるだろう。しかしヴィルチェは口を動かし続けた。自分の知っている真実をすべてルーベに伝えるために。それはヴィルチェもルーベ同様、いち早くカノンを助けてほしいから。
 あるいは感覚が麻痺してしまっているからこのような言葉をよどみなく紡ぎ出せるかもしれないのだが、そんなことを気に留めてる余裕さえ、今の彼女にはない。自分の知っていることがあの心優しい少女の救出に役立つのなら、とヴィルチェは自分の記憶細胞を叱咤して必死に彼らに伝えて言った。
「……カノンと別れたあと、わたくしは店の前の掃除をしていたんです。そうしたら、カノンの悲鳴が聞こえたような気がして、あの子の行った道を追って行ったら、これが……」
 ヴィルチェは大切に持っていた、ライザードの家紋が彫られた石膏をルーベに見せた。少しだけ、空気が漣打つ。カズマがそれを彼女の手からとると、そのままルーベの元へ歩いて行き彼にそれを手渡した。ルーベはそれを手渡されるとそっと握り締める。
「シャル。これをすぐに」
「わかってる」
 石膏をそのまま、一番近くに居た先ほどルーベに声をかけて人物、シャーリルに渡すと彼はそのまま扉を出ることなく姿を消した。その行動の真意をヴィルチェはわからなかったが、彼らのやることに無駄はないだろうと思っていると、またルーベが彼女に話しかける。
「これが、君の知ってる全部か?」
「はい」
「……ありがとう」
 ルーベはニコっと笑うと、次の瞬間には周囲にいた部下たちに命令を下していた。すでにヴァイエルとディアルがカノンの連れ去られた場所の周辺に、何か手がかりになるようなものはないか捜査させている。次にすべきことは、とルーベは脳内でその答えをはじき出す。
 柔らかな雰囲気をまとう好青年、大よそ騎士団長という仰々しい肩書きが似合わないように見えたヴィルチェは、彼の様変わりを目の当たりにして絶句する。そして鳥肌が全身に駆け巡るのを感じながら、耳に心地よいルーベの声を一字一句逃さないように聞き入っていた。
「ジェイ、フェル、お前らはこのまま周囲の警護を厳重に、怠るなよ」
「はいっ」
 ジェルド・ゼル・メイクとディライト・フェイル・アース。ヴィルチェは生まれて初めて第一位階の騎士を目の当たりにして、その輝きを目に焼き付けていた。第三位階の騎士ならば、客として見かけることもしばしばあるが、第一位階の騎士ともなればそうそうお目にかかれるものでもない。
 名前だけは知っているが、当人たちを見るのは当然初めてである。彼らは顔を見合わせると、ルーベに一礼をして早足に部屋を後にした。
「サナンはペティグレインに行って、しばらく彼女をオレの屋敷に留めておく許可を貰って来い」
「へーいへい」
 ひらひらと手を振りながら、のんびりとした足取りで部屋を出て行くサナン・フィルア・レヴィアース。彼は異論を唱えない。ヴィルチェがそれに言葉に出来ず、困惑の色を紫色の瞳に映すと、ルーベも済まなさそうな表情で彼女に言う。
「貴女はカノンと最後に接触があった大切な証人なんだ。もう少し、話も聞きたい。だから、申し訳ないがしばらくこの屋敷にいて欲しい。不自由な思いはさせないから」
 否の答えなど、彼女には用意されていなかった。薄く入れた紅茶の色をした髪を、頭を縦に動かした時に揺れたのを確認した彼は、よりいっそう低い声で、カノンを見失った騎士の名を呼んだ。
「カズマ。お前は彼女の護衛を。万が一にも顔を向こうに見られていたら危ないからな。……頼んだぞ」
「はい」
 この時、カズマの表情は苦しげだった。まとう雰囲気さえ、辛そうだったのを隣に立っていたヴィルチェは感じていた。この場合、失敗を罵られ、怒鳴りつけられたほうが本人としてはよっぽど楽だろう。しかし、王弟殿下はそれをしなかった。
 それは罰ではなく、他の騎士たちと同等に与えられた仕事。今は彼に怒声を浴びせること、罰を与える時間さえ惜しいと案に彼は語っていた。カズマは一度頭を下げると、ヴィルチェの肩に手を置いて、部屋を後にした。
 部屋の扉を閉じると、カズマの青空を切り取りはめ込んだような瞳には後悔の色が色濃く浮かび上がっていた。
「あの」
 思わず唇をヴィルチェは動かしてしまい、その声に振り返ったカズマの視線を直視してしまったため一瞬、話しかけたことさえ駄目だっただろうかと思ったが、彼女はゆっくりと続きの言葉を紡いだ。
「あの、きっと大丈夫ですよ。王弟殿下だって、叱責なさらなかったし! その、だから……」
 うまく言葉が紡ぎ出せない自分が、ヴィルチェはとても歯がゆかった。カノンを助けてと一番初めに彼に言った。その時の彼の行動は、少なくとも何も出来ない彼女にとってはとても心強かったのだ。だからこそ、彼に沈んでほしくなかったのだ。彼女にとってカズマは失敗を犯した騎士ではなく、彼女を助けるためにいの一番に駆けつけてくれた騎士なのだ。
 ヴィルチェの拙い言葉に、カズマは一瞬目を丸くしたが、その後すぐに微笑を浮かべて彼女の頭を撫でた。
「ありがとな」
 その言葉だけで、ヴィルチェの心は温かくなった。恐らく赤くなってしまったであろう自分の顔を見られるのはさすがに恥ずかしいと思って、彼女は顔を伏したまま彼の一歩後ろについて彼の案内のままに歩むを進めていった。



 全員が、己が言いつけた仕事のために部屋を後にした。すると、この広い室内に当然、ルーベ独りになる。彼は机の上で両手を組むとその手に額をつけて息を吐き出した。

「ルーベ様」

 一人になると、カノンの声が聞こえてくるような気がした。助けを求めるという声よりも、自分の力のなさ嘆き、悔いるような彼女の声。それが彼女らしいといえば彼女らしいというところだが、今はそれを微笑ましく思っている状況ではない。
 助け出さなくてはいけない。彼女を。早く。
 守ると、言う言葉に嘘偽りなどありはしない。異世界から来た覇者の『鍵』それ以上に、カノンの存在は日に日にルーベの中で大きくなってきているのだ。それを、彼も自覚していた。
 晩餐会の時もそうだったことを思い出すと、ルーベは思わず自分の髪をグシャリと握ってしまう。
 エデルの言葉が彼の脳内で反芻する。
 もう二度と後悔しないために。しかし、とルーベは続けて思う。我ながら、何度同じことを心に誓えばよいのだろうか。それでも言葉に出さずにはいられない。
「絶対、助け出す」
 自分の甘さが、またカノンを危険な目にあわせていると思うと、己の不甲斐無さに腸が煮えくり返る思いがしている。
 ギリっと組んだ両手に力を入れてルーベは呟いた。低く、低い声が波紋のように室内に広がっていく。彼の瞳には純粋な瞋恚の炎がと持っていた。彼の身体から放たれる怒気のために、室内の調度品が小さく揺れる。しかしルーベにはそんな事を気に止める余裕もない。
 ただ胸に一つ強い思いを抱いて、今は動けずとも必ずと思うのだった。
 助け出すと、あの少女を。己のためにこの世界へと誘われた古の『鍵』しかし、その責を負うにはあまりにもか弱い少女。彼女を、ルーベは心の底から愛しいと思っていた。
 だからこそ、彼女の身に何かあれば
「何があっても、殺してやる」
 物騒な言葉を諌めるレイターも、今この場にはいない。例えとめられても、ルーベは二度と同じ過ちが起きないように、原因を根絶させるだろう。それほどに、彼の怒りは頂点に達していた。


 窓から覗く景色は既に夕暮れ時も経過していた。空に広がるのは無窮の闇、そしての中で僅かに瞬く小さな星たちだった。その煌めきは一体何を語るというか。
 一筋の星が流れたことを、彼らはまだ知らない。流れ落ちる星それは絶望を表したものか、絶望の終焉を歌う走りだったのか……。

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