1.夢から覚めた悪夢


 ふと、瞳を開けたときにカノンが思ったのは、いつの間に自分が寝てしまったのかと言うことだった。寝ていては、ルイーゼが来た時に手間を取らせてしまう。
 夕食をルーベと久しぶりに取れると聞いていたから、今日は外で観たこと、聞いたことを話そう。娼婦見習いの子と友達になったと言ったら驚くだろうか、そんな事を思いながら二、三度瞬きを繰り返すと見慣れない景色を脳が認識し始める。
 四度目の瞬きをしたところでカノンの意識ははっきりして、身体を勢い良く起き上がらせる。
「痛っ」
 鈍い痛みを首から感じて、思わず眉間に皺が寄ってしまう。意識が覚醒すると同時に、全てを思い出す。連れ攫われた事実、それはこの世界に飛ばされたときと比べ物にならないほどの恐怖ををカノンに与えた。
 とりあえず自分の全身を見回して、着てきたままの服で異常はないことを確認して一安心する。そして両手足に拘束具もないため、自由が利く。
 寝心地のよさそうな寝台の上に身を乗せていたカノンは周囲の景色を伺った。大きな窓が三つ、彫刻の施された机が一つ、長椅子がニ脚。大きな本棚や、花瓶もあり、その豪奢さに彼女は居たたまれなささえ感じてしまう。ルーベに宛がわれた部屋も、極力簡素にと願い出たため、これほど豪奢なものではない。
 床には足を下ろせば沈んでしまいそうな、一目で高級と分かる絨毯がひかれている。少なくとも石造りの牢獄にぶち込まれたわけでもなく、ここで生活するには充分な補償がされていることを理解して、また少し安堵する。命をとられる心配がないなら、多少の自由が利くだろう、と。
 ふいに扉を叩く音が聞こえて、カノンはビクっと反応してしまった。それを内心で舌打ちをしながら振り返るとそこには現れたのは誘拐犯とは考えられない人物たちだった。
「失礼いたします」
 立っていたのは給仕服をまとった三人の女性だった。ルーベの屋敷の女中が着ている服とは若干異なる形の服に、やはりここはルーベの屋敷ではないことを再確認する。
「主人がお呼びです。お召し替えをお願い申し上げます」
「……主人の名は?」
 警戒を緩めることなく、カノンは三人を睨みつけるような表情で見つめ続ける。
「主人の命令ですのでお答えできません。主人にお会いして直接お聞きくださいませ」
 顔から表情の抜け落ちたような、人形と称しても誰も疑わないであろうと思うような顔の給仕のうち、一人が前に出てカノンに告げた。当然、カノンも彼女たちの言うことに従う気はさらさらない。
「この格好のままでいいです。案内していただけますか?」
「そういうわけには参りません。お召し替えの上、お連れしろと仰せつかっております。どうかお召し替えを」
 彼女たちは頑なだった。どれぐらいその状態のままでいたのだろうか。結局折れたのはカノンだった。このままじゃ埒が明かないと判断し、虎穴に入らねば虎子を得ずと内心で握り拳を作りながら、決して趣味のいいとは言えない服に着替える流れとなった。

 鎖骨まで露になるドレスを着る事に、カノンはどうしても落ち着かなかった。ドレスの作りも、普段ルーベの屋敷で着させてもらっているような比較的動きやすいものではなく豪奢で繊細で、動きにくいものだった。橙と言うには濃すぎるが、桃色と言うには薄いその色のドレスは地面につくほど長く、廊下に敷き詰められた絨毯との摩擦によって重ささえ増しているような気がしていた。
 それは足取りの重さを増幅させ、彼女の気持ちをどんどん悪い方向へ持っていくことに充分に作用した。案内されて進む道のりはその重さ以上にカノンの気持ちを重くさせる。
 それでも、何かの役に立つかもしれないと自分を鼓舞させ、部屋を出てから自分の歩いてきた道と物は余すことなく自分の脳に叩き込んで進んでいった。少しでも気を紛らわせようと思ってのことだったが、それすらさして彼女の気休めにはならなかった。
 しばらく歩くと、カノンが同時にでも平気では入れそうなぐらい大きな、彫刻の無駄に施してある扉の前に辿り着いた。先を歩いていた侍女が扉を叩いた。
「ご主人様、お嬢様をお連れいたしました」
 扉の中から入って、という声とともに彼女たちはゆっくりと一礼をして扉を開けた。ゆっくりと開かれる扉、その先に広がる世界はカノンにとって異質ともとれる空間だった。
 ルーベの屋敷にはやや劣るが、それでもたいそうな広さを持つ部屋には巨大な机が設置されている。それには真っ白の布が魅かれている所みると、ここはこの屋敷の食事場所であることは間違いないだろうと彼女の瞳に写っていた。警戒心を隠すことなく、侍女たちに『主人』と呼ばれた人物に向けていると、彼は小さく笑った。
 そして片手を上げて彼女を案内させてきた侍女たちを下がらせる。小さく扉の閉まる音が室内に広がったと同時に、カノンの心拍数の上昇も最高に達していた。
 人を笑顔へと誘うような微笑を浮かべて椅子に腰掛けている人物は、一目で正装と分かる格好をしていた。しかし、その姿はルーベを初めとしたカノンの知り合い達が着ている騎士服ではなかった。それは、文官たちが着ている正装。
 肩口まで伸びた黒髪と、紫紺色の瞳。彼は一度見かけたことがあり、カノンの脳内で彼の名前は性格に反映されていた。
「御機嫌よう。身体の調子はどうですか、手荒なまねをさせてしまって大変申し訳ありませんでした」
「御機嫌よう、フォルゼ・リア・リファーレ様。このような場所にお招きしていただいて光栄ですわ」
 笑みが引きつらないように気をつけながら、カノンもゆっくりと言葉を紡いで見せた。その姿に、フォルゼはわざとらしく目を見張らせた。
「私の名を、ご存知でしたか」
「先日の晩餐会でお顔を拝見させていただいていたので。人の顔と名前を覚えるのだけは昔から得意でしたの」
「それは素晴らしい。不要と思いますが、これも礼儀と思って聞き流してください。フォルゼ・リア・リファーレです。お見知りおきを」
「カノン・ルイーダ・シェインディアです。こちらこそ、お招きに預かり光栄ですわ。ですが次からは是非穏便にお願いしたいものですね」
 小さく微笑みあったあと、カノンは毅然とした表情でフォルゼに向かって言葉を発した。
「私に、何の御用時ですか? ルーベ様にご許可をお取りになっていらっしゃるんですか?」
「貴女が思っているすべてをいちいち否定しなければならないのは少し手間ですね」
 紡がれた答えはわかりきっていたものだった。少し考える仕草をしたのに、手を自らの顎にそっと手を添えた状態のフォルゼは、瞳に不穏な光を称えながら彼女を見つめた。カノンは琥珀色のその瞳こそは彼から離さなかったものの、背筋に冷たいものが流れる感じがした。
「……そうですか」
「聡明なお方で手間が省けます」
「いいえ。これから私をどうするおつもりですか?」
 ニコリと笑ったまま表情を崩さずにフォルゼは唇を動かした。
「単刀直入に言えば、ここで生活していただきたいのです」
 彼は酒に濡れた唇をよどみなく動かした。
「この世界の『伝説』を、かの皇祖帝のことをこの世界で知らないものはおりません。無論、あなたもご存知でいらっしゃるでしょう?」
「……ええ」
「そう、異世界よりの『鍵』の存在。王の贄、次期覇王の証。何といっても『鍵』の力は偉大。」
 陶酔は、唇の潤滑油なのかもしれないとカノンは思った。眼前にいる人物はどこか狂っているのではないかと思いながら、カノンは指の一本も動かすことも出来ずにその場に石のように硬直するしかない。この時、カノンはまだフォルゼの心の内をすべて把握することなど出来てはいなかった。
 『鍵』の力を手中に収めていれば、彼にとって憎むべき反逆者どもを一掃することも可能だという事実に、彼は余計に笑みを深めていることに、彼女はまだ気付けない。彼女にとって今、絶望を表す漆黒の髪を揺らしながらまだ彼は言う。
「……その『鍵』が、我が皇帝陛下のお側ではなく、ルーベ様のお側にいることが、私にはどうしても信じることができなくて」
 カノンは動かない唇を叱咤して言葉を紡ぐ。
「だから、私をここに?」
「ええ。皇帝陛下のお側に」
 『皇帝』という言葉を使うフォルゼの表情は、とても綺麗な笑みを浮かべていた。どこか狂気を孕んだ笑みに、再びカノンの背筋に悪寒が走る。
「こちらに、皇帝陛下がいらっしゃるのですか?」
「いいえ、必要に応じて私が、あなたを陛下の元にお連れするのです」
 何を当然なことを、と不思議そうな表情を浮かべながら。
「……私が否、と言ったら?」
「別に、それでもお連れいたしますよ。あなたに抵抗が出来ないことは、知っていますからね」
 そういうと、フォルゼは至近距離からカノンに手をかざした。すると、次の瞬間、何かに切裂かれたかのように、彼の部屋のものがズタズタになっていたのだ。カマイタチでも通り過ぎたような凄惨な情景が、カノンの後ろに広がったのを感じていた。身体は硬直して動けない。
 そんな様子のカノンに満足したのか、フォルゼはさらりと己の髪を揺らして微笑を浮かべながら彼女に言った。
「この屋敷はご自由にお使いください。鈴を鳴らせば、近くの給仕が行きますので、ご用件を何なりと。食事も自由に取ってくださって構いませんよ。私は普段この屋敷にあまりいませんから」
 陶器に入った鳩の血の色をした液体を口に含みながら優雅に笑ってみせる。
「脱走をお考えになっても、結構です。ですが、あまり目に余るようでしたらこちら側もそれ相応の手段を講じなければならないことを覚えておいてください」
 彼の言葉はすべて真実なのだということを、改めてカノンは全身で感じていた。震えだしそうな恐怖と緊張感に襲われているが、それを悟られないようにするのが今のカノンには精一杯だった。ドレスの裾を手が真っ白になるぐらい強く強く握り締めて、それでも彼の前に対峙し続けた。
 ルーベでも、誰でも、誰かがこの状態に気付くまで、恐らく力のない己では何の抵抗も出来まいとカノンは結論づいた。
「さぁ、食事を摂りましょう。お口に合えばよろしいのですが」
「……結構です。部屋に下がってもよろしいですか?」
「……あとで部屋に何か運ばせましょう。どうぞ」
「失礼いたします」
 カノンはドレスを握り締めて真っ白になった手を離し、その変わりに唇をキュッと結び一礼をして踵を返した。一刻も早く、この人物の前から姿を消したくて。扉に触れる前に開かれ、その先には先ほどと同じ侍女達が待機していた。カノンは部屋までの道のりをしっかりと記憶していたので彼女たちがいなくとも大丈夫であったが、その押し問答さえ嫌で無言で歩みを進めていった。
 ルーベに迷惑をかけることを心の底から詫び、自分で出来ることをとにかく探そうと心に誓う。それぐらいしか出来ないから、とさらにカノンはわが身の無力さを悔しく思う。
 自分の無力さを、いっそ呪いながら、ドレスの裾を引きずりながらカノンは必死で彼の目の届かない場所などないと頭の中ではわかっていながら、歩みを速めようと努力した。
「ルーベ様っ」
 桜色の唇から紡がれた、小さな小さな声、もしかしたらカノン自身気付いていないかもしれない小さな声を発した。しかし、この声はルーベの元へと確実に届いているのであった。


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