15.閉ざされた瞳


「カノンは何歳なの?」
「私? 十六。今年十七になるの。ヴィルチェは?」
「へぇ、あたしは十五。今年で十六だよ」
「私と同じぐらいかと思ってた」
「変わんないじゃん、一歳なんて。もっとも、この一歳のせいであたしは今だ客も取れない半人前だけどね」
 苦笑しながらヴィルチェは自らが用意してきた茶菓子に手をだした。二人は娼館の裏方の、さらに奥の部屋で二人で喋っていた。二人はすぐに仲良くなることが出来た。ヴィルチェが物怖じしない性格の娘だと言うことも相まって、二人の会話は弾んでいた。
 会話の中でも、年齢が変わらないことと、カノンが頼んだせいもあり敬語が飛び交わない対等な喋り方が出来ている。それが何よりカノンは嬉しかった。誰もが彼女に優しくしてくれる世界であるが、この世界に来て一ヶ月、まだ『友達』という対等な関係の人間関係を築けてはいなかったのである。
 だからこそ、ヴィルチェの存在はたった数分で彼女のなかで大きな存在となったのだ。自分の出生を話せないことは心苦しいが、いずれはなせる日が来るだろうと思って多少の罪悪感を抱きながらも、楽しいひと時を過ごしていた。
 どこの世界でも、楽しい時間と言うのは瞬く間に過ぎていくものである。ふとカノンが外を見つめた時、空の色は朱色を交じらせ始めていた。太陽が西の空に沈み始めれば、日が沈みきるのも早い。そしてこの手の職業はたいてい日が沈んでからの営業となる。これから忙しくなるのに長居をしては店にもヴィルチェにも迷惑がかかるのは明らかだった。
 カノンは名残惜しいが仕方がいないと思い、茶をすすっているヴェルチェに向かって口を開いた。
「お茶ありがとう。美味しかったよ。そろそろ帰るね」
「こっちこそ、この程度のことしか出来なくて。せっかく助けてくれたのに」
「ううん、美味しかった。ご馳走様」
 カノンが木造の椅子から立ち上がると、一緒にヴィルチェも立ち上がった。扉を開けて部屋から出ると、やはり、というか予想通りに忙しそうに開店の準備に精を出す女性たちが忙しなく動き回っていた。二人の姿を確認したリリルは先ほどと変わらぬ格好で、両腕に籠を抱えた姿でやってきた。
「お邪魔しました。遅くまで長居してしまって申し訳ありませんでした」
「まだゆっくりしていっていいんだよ?」
 リリアは優しげな笑みを浮かべてそういってくれた。それに一瞬甘えてしまいそうにカノンはなったが、必死にその誘惑を断ち切って彼女に告げる。
「いえ、お仕事のお邪魔になってしまいそうですし。それに日が暮れないうちに帰らないと」
「そうかい、じゃぁ逆に引き止めて悪かったね。気をつけて帰るんだよ?」
 器用に籠を腕で抱えて、空いた手でカノンの亜麻色の髪を撫でた手は大きく暖かで、その気持ちよさに思わず目を細めてしまう。その表情に満足したのか、最後にニ、三回彼女の頭を叩くと彼女はその場から離れた。
 後ろの勝手口の扉にカノンが手をかけると、ヴィルチェは紫の双眸に不安そうな色を映して彼女に問うた。
「馬車とか呼ばなくていいの?」
「うん、歩いてきたから歩いて帰るよ」
「深窓のお嬢様じゃ考えられないね」
 それはカノンにとっては褒め言葉だった。実際つい最近まで、現代社会で学校に通い、炊事洗濯等自分の生活に必要なことは全て自分の手でやってきていたのだから。今の状態の方がおかしいという話なのである。しかしカノンはその言葉を苦笑するに留めた。
「また遊びにおいでよカノン! あたし、精一杯のおもてなしはするからさ」
「でも……」
「何だよ、もうこんなところにゃ来たくないって言うの?」
「そうじゃなくて、仕事の邪魔になっちゃう」
 せっかく話の合う友達が出来た、とカノンは思っているが、その日暮らすのに何の努力も必要ない自分と、一生懸命働くヴィルチェを比べてしまうとどうしても自分が勝手気ままに訪れてはいけないと思う。むしろ思うのが道理である。
 しかし、ヴィルチェの言葉は酷くあっけらかんとしたのもだった。
「馬鹿なこと言うなよ。ねえ、姐さん!」
「ああ、いいとも。いつでも遊びにおいで!!」
 彼女が大声でそういうと、リリアも大声でそう答えた。
「友達の家に遊びに来るのに、何の遠慮があるって言うんだよ」
 そういって笑って下からカノンを見つめた。その動作にあわせて、耳の高さで結んである薄く入れた紅茶色の髪が跳ねた。それを愛らしく思って、カノンは思わず腕を伸ばしてギュッとヴィルチェを抱きしめた。
「うん! ありがとう、ヴィルチェ。また遊びに来る、絶対!!」
「いつでも歓迎するよ! 遊びに来て!」
 抱きしめられた少女は、カノンに答えて背に手を回して抱きしめ返した。この抱擁は二人の友情の儀式とも言えた。カノンより頭半個分背の低い彼女は、嬉しそうに肩口に顔を埋めていた。
 二人が抱きしめあいって一拍間を置いたあと離れた。二人はお互いの背に手を回したまま微笑みあう。それは恋人同士のひと時の逢瀬を終える恋人同士のようにも見える。
「表まで送ってく」
「いいよ、ヴィルチェだって仕事あるんだから。自分の仕事頑張って」
「……大丈夫?」
「平気だよ。ありがとう、心配してくれて」
 カノンはゆっくりと、木造の扉を開いた。必ずまた遊びに来ることを約束して、ついでに握手まで交わして二人は別れた。
 乾いた土の上を歩きながら、カノンの機嫌は非常に良かった。外にださえてもらってよかった、と心の底から彼女は思っていた。屋敷に戻ったら今日のことをルーベやミリアディア、ルイーダに報告しようと彼女は思っていた。ルイーダ辺りは驚いて卒倒してしまいそうな気がしなくもないが、二人なら一緒に友達が出来たことを喜んでくれるだろうと彼女は思っている。実際、一緒に行きたいとも言ってくれるかもしれない。
 カノンはそれを考えるだけで幸せで一杯だった。
 娼館を出て、表通りへ向かう途中立派な馬車が止まっているのを見て、カノンは少しだけ怪訝な目でそれを見つめた。金を積めば女を手荒に扱ってもいいと思っている貴族がいる、というのを先ほど聞いたばかりである。身体を売る、という職業を女としてあまりよくは思っていなかったが、それでも生きていくためには仕方がなく、それでも美しいままの姿を保っている『ペティグレイン』の女性たちに見惚れたぐらいだった。
 どうせならあの人たちのように誇り高くありたいと思ったぐらいである。

 来た道を足早に歩いて、早く人通りの多い道へ行こうと思った瞬間、通り過ぎた馬車から数人が降りてきた。カノンはそれを知らぬ存ぜぬで過ぎ去ろうとさらに足を早く動かしたが、それを彼らは許さなかった。
「カノン・ルイーダ・シェインディア様ですね」
「……ええ、そうですが。あなた方は?」
 カノンは歩みを止めて振り返った。
「故あって名を名乗れないことをお許しくださいませ。我らの主人があなた様にお会いしたがっておいでです。ご同行をお願い申し上げます」
 彼女が振り返り、目にしたのは白を基調とし、所々に金や銀をちりばめられた服を身にまとい、顔には黒色の仮面を被っていた。元の世界で見た『オペラ座の怪人』が脳裏をよぎるが、アレよりも豪奢なつくりであるのがますます不信感をカノンに抱かせるには充分な装いだった。
「お断りします。私が勝手をすれば、ルーベ様が無用な心配をいたします。日を改めて、堂々と私の元へ現れてくださいませ。そうすれば対応いたします」
「見事な受け答えですね。ですが、ご同行していただけなければならぬ理由が我らにもあります。多少の無礼を働いてしまうことを先にお詫び申し上げます」
 そういうが早いか、男の一人がカノンに手を伸ばしてきた。それをカノンが避けると、表通り目掛けて走り始めた。
「誰かっ!!」
 そう叫ぶのが早いか、男たちがカノンに殺到する。魔術で拘束してくれれば、ありがたかったのだが、そう都合よく世の中が展開すれば誘拐などと言う事件はなくなるのではないかとカノンは脳内で混乱のあまり思ってしまう。普通、魔術で拘束したほうが人の労力がかからないのだ。しかし、相手はあえて人をそろえてきている。ということは、自分の正体に気がついている人間の仕業であると思ったほうが自然である。
 皇帝の手先、と思いカノンは男たちの力に適わないと知ってはいる者の、足をバタつかせ、腕で男たちの腕を引っかいてみたり精一杯の抵抗を見せてみる。火事場の馬鹿力と言うべきか、カノンの思わぬ抵抗に男たちは手を焼いてしまっていた。
「早く馬車にお乗せしろ」
「はっ」
「誰かっ!!」
 助けて、とは言わない。助けに来てくれた人が怪我をしてしまうかもしれないから。だからカノンは誰かに気がついてもらえさえすれば言いと思い声を張り上げる。ここから『ペティグレイン』も遠くなく、表通りからも遠くない。誰かしら通るかもしれないと思い立ち声を上げる。口を塞ごうと伸ばされた手に噛み付き必死の抵抗をしていると、静かな衝撃が首筋から伝わってきた。恐らく、首に手刀を食らわされたのだろうと彼女は冷静に分析していた。
 急に体が重くなり、瞼が重くなる。ここで瞼を閉じれば唯々諾々と連れて行かれることになる。閉じちゃ駄目だと思っても、それも結局は無駄な抵抗で終わる。カノンの意識は急速に失われ、抵抗をすることが適わなくなったのだった。
 男たちは先ほど上げたカノンの声で人が集まるのを恐れて、ぐったりとして動かない彼女を持ち上げて乱暴に馬車の中まで運び、放り投げた。周囲の目を気にしながら彼らもそれに乗り込み早々にその場に立ち去ったのだ。彼等は辺りに証拠が残っていないか、残っているはずもないと思い込みさっさと立ち去った。この一連のずさんな動作を彼らはのちのち後悔することになる。


 歩いている人間などお構いなしで、全力で走っていく馬車の後ろから、土ぼこりをまともに浴びた一人の少女が佇んでいた。
「……カノンの声聞こえた気がしたんだけどな?」
 辺りを見回しても、亜麻色の長い髪も、綺麗な琥珀色の瞳も、彼女に似合っていたあの服装もどこにもない。仕事着として侍女服を身にまとっているヴィルチェは辺りをキョロキョロ見回した。
 仕事前、外のゴミを掃いていた彼女はたしかに聞いたのだ。『誰か!』と叫ぶカノンの声を。思わず箒を投げ出して走ってきてしまったヴィルチェはやはり錯覚だったかと思って娼館に戻ろうと思ったとき、砂埃が落ち着いた地面に白い何かが転がっていた。帰ろうと思ったヴィルチェはなぜか後ろ髪を引かれて、その物に近づいていった。
 それは何も彫られていない石膏細工のようだった。この時点で嫌な予感が脳裏を駆け巡った。冷たい石膏の温度が、そのまま彼女の身体を這い上がるかのようなのに、それでも嫌な汗は止まらない。恐る恐るそれをひっくり返すと、そこには獅子と剣の交差するライザード家の家紋が刻まれていた。それを思わず両手で強くきつく握り締めて、ヴィルチェは天を仰いでしまう。
 嫌な予感は当ってしまった。尋常ならざる速さで去っていった馬車に、きっと乗せられたに違いない。身分の高く、そして見目麗しいカノンを誘拐されたのは間違いはない。地面に座り込み、石膏細工を握り締めたままヴィルチェの紫色の瞳には熱い何かが込み上げてきて視界が滲み始めていた。それを片手で拭い、すくっと立ち上がった。
 ここで泣いていても何もはじまらない。誘拐されたカノンが帰ってくるわけでもない。ヴィルチェはリリアにことの事情を説明しようと思ったので、勢いよく踵を返した。子供ではどうすることも出来ない問題も、大人の知恵を借りればどうにかなるかもしれないと自分を叱咤して彼女が一歩を踏み出すと、ヴィルチェは勢いよく人とぶつかりその場に尻餅をついてしまったのだ。出鼻をくじかれた、といっても過言ではない。
「ちょっと、こっちは急いでるんだ。アンタ、どこに目ぇつけてるんだい!?」
 思わず怒鳴りつけてしまった人間は男だった。
「すまない、こっちも急いでいたんだ。前方不注意だった。大丈夫か?」
 心配そうに覗き込んでくる目が、ヴィルチェが大好きなリリアと同じ色をしていたため、思わずこれ以上怒鳴ることが出来ずに伸ばされた手を取った。仕事服についた砂埃を叩いている間も、手を差し伸べてきた男は辺りを見回していた。
 恋人とでもはぐれた若い商人の倅かとも思ったのだが、どうやら様子がおかしかった。ヴィルチェが不信そうに彼を見ていると、男は彼女を向いた。
「ぶつかっておいて何なのだが……この辺りで君と同じぐらいの女の子を見なかったか?」
「え?」
 前方を見ていなかったのはヴィルチェとて同じだったのだが、この男はそんなことなど気にも留めている様子もなく彼は続けた。
「背格好は君と同じぐらいか、少し高いぐらいで。亜麻色の長い髪に、琥珀色の目をしてて、紺色と白を基調とした服を……」
 身振り手振りで必死で説明する男の表情は必死で、ヴィルチェの目は怪しく見えても、不誠実な人間には見えなかった。彼女は恐る恐る、彼に問うた。
「アンタ、何者だい?」
「ん? ああ、そうか。そうだよな、今日は普段着じゃねぇから分からねぇよな」
 男の格好は簡素な格好をしていた。薄い茶色の上着に、黒のズボンという非常に簡素であり、これは一般市民とさして変わらない。ヴィルチェが小首を傾げていると、男はさらりと告げた。
「オレは第一位階の騎士、カズマ・ゴウ・ヒューガ。騎士団長ルーベ・フィルディロット・ライザード王弟殿下の命でカノン・ルイーゼ・シェインディア嬢の後を追ってきたものだ」
 今日は何て日だろう、とヴィルチェはどこか意識が遠のいていくような感覚を感じていた。どれだけカノンが凄い人物なのか、今の一言に集約されているといっても過言ではなかった。カノン一人の為に、第一位階の騎士までも動いているという事実に、彼女が悲鳴を上げなかっただけでも凄いことである。
 ヴィルチェが一瞬だけ放心状態になったあと、恐れ多くもカズマの服を力強く掴んだ。彼が何かを言う前に、ヴィルチェが叫ぶ。
「助けて、あたしの友達が! カノンが、攫われちゃったんだ!!」
 そういってもう片手でしっかりと握り締めた石膏細工を彼に突きつけた。紛れもなくライザード家の家紋が刻んであるそれを。差し出したと同時に彼女の双眸からポロポロとめどなく涙を零し始めたのだ。
 彼女は繰り返しカズマに訴えた。『カノンを助けて』と。一瞬彼も何が起こったかわからない、という表情をしたのだがすぐに思考を切り替えた。
「詳しく話を聞かせてくれ」
 そう言って、少女の肩を掴んだカズマは非常に真剣な顔をしていた。彼女も涙を引っ込めようと努力してながらコクンと小さく頷いた。ヴィルチェは心の中で強く強く祈る。『四玉の王様、どうか、どうかあたしの友達をお守りください』と。
 これが本当に、四玉の王に届くのかはわからなかった。ただ無力な彼女に出来ることはただひとつ、彼女の無事を祈るだけであった。

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