3.狂王の笑み
「カノン」
「はい、ルーベ様」
ルーベの腕にカノンは軽く手をそえ、そのまま歩き出した。その表情は酷く穏やかで、周りの貴族たちはほぉと溜め息をついた。
「どちらへ行かれるのですか?」
仮面をつけた貴族が好奇心を隠さない顔で二人に問いかける。しかし、それに答えたのはミリアディアだった。
「お二人は皇帝陛下の所に参るのですわ。今日は皇帝陛下にお目通りするために、お二人はこちらに赴いたんですもの。お二人が戻られるまでわたくしとお話しくださいな」
それは蠱惑的な笑みで、貴族たちはその笑みに釘付けになり、意識が彼女に向いている間に二人はさっさと、皇帝の座る玉座へと向かった。
この時、人影がニ、三動く。それは人が気付かない程度のささやかなものではあったが。
「カノン」
「はい」
「兄貴が何言っても、まともに返すなよ」
「はい」
石造りの床に響く、踵の音。それに気付いた人々は一気に視線を二人に向け、二人が通る道が生まれる。この宴の最大の催し物が今始まろうとしているのだ。
誰もが好奇の視線を二人に向ける。カノンの心臓の音は、玉座に近づくにつれて主張し始めた。緊張するなというのが無理な話なのかもしれない。一国の権力者に相対する事がこんなに緊張するものなのか、カノンはわからなかった。
自然と、カノンの手に力が入ってしまう。それを気遣うようにルーベはゆっくり、ゆっくり彼女を引いて歩く。二人が赤い敷物が引かれる階段を上りきると、頭を下げた。
「お久し振りです」
「お初にお目にかかります、皇帝陛下」
「そう硬くならなくとも良い」
玉座の前でドレスの裾をつまんで、腰を折る。ルーベの傍らで、カノンはあらかじめ叩き込まれた言葉を暗唱していく。ルーベと似ても似つかない、彼よりも恐らく十は年上の皇帝は品定めをするように彼女を見つめていた。
「皇帝陛下、今宵はこのような場を用意して下さったこと、感謝しております」
「お前に皇帝陛下と呼ばれるのは何とも違和感があるな」
「そのような事はありません」
澄んではいない藍色の瞳とどこまでも澄み切った黒紅色の瞳が交わる。腹の探りあい、にしては浅はかな物である。カノンはゆっくりと顔を上げて、皇帝を見つめた。
「愚弟の世話をするのは骨が折れるだろう?」
「いえ、ルーベ様程のお方のお側にいることが出来て望外の幸せで御座います」
最初から、ルーベに興味が無い皇帝は口元に浅い笑み浮べながらカノンとの会話を楽しんでいた。白々しい会話であるものの、誰もはしたないと咎めない環境なので、彼らは必死に聞き耳を立てている。
全てに、気付きながら三人は会話を続けていく。
「ルーベ様の婚約者としてお側にいさせて頂くことになりました、カノン・ルイーダ・シェインディアと申します。まだ礼節もわきまえない無作法者ですが、力の限り尽くす所存でございますので、この至らぬ身にお力添えをお願い申し上げます」
再び覚えてきたとおりの言葉をカノンが口にすると、皇帝は口元をゆがめた。
「カノン・ルイーダ・シェインディア、こちらへ来い」
会場内がざわめく。皇帝自らが、側に来いと命じた女性が今までいたであろうか。少なくとも近年稀に見る光景だった。ルーベの傍らで控えめに立っていたカノンはスッとドレスの裾を持ち、一礼してからゆっくりと歩みだした。皇帝とカノンの距離は縮んでいく。
ルーベは何を考えているんだと、自らの兄を見つめるが、皇帝の表情は微塵も変わらない。肘掛に肘を置き、どこか楽しげにカノンを見つめている。
カノンは皇帝の前まで来ると、腰を折り、頭を下げた。ふわりとドレスが揺れ、シャラっと髪飾りが揺れる音が漣のように場内に広がっていき、誰もが息を飲む音が聞こえた。しかし、次の瞬間人々のざわめきさえもカノンの耳に届かなくなる。内心でうろたえるものの、自分を叱咤し、それを表情に出さないように勤める。そのカノンの瞳の揺れる様を見て皇帝は満足そうに笑んだ。
「こちらの声は向こうに届かない再び、向こうの声もこちらに届かぬようにした。安心して良い」
確かに、皇帝の声しかカノンに届かない。それ以外の音がこの空間には存在していない、と評しても間違ってないだろう。一瞬で、何もせずこの空間を作り出す力、それがどれほどのものかカノンは分からなかったが、生半可な強さではないということは彼女でも分かる。
「何か……御用でございましょうか」
「何も萎縮することはない。我はただ、お前の存在を歓迎する」
「勿体無いお言葉、ありがとうございます」
カノンは下げた頭を上げずに答える。皇帝は微動だにせず、豪奢な椅子に座りながら言葉を続けた。
「我はお前を待っていた。扉の向こうのお前を切望していた。それはルーベよりも強かっただろう。それでも歴史は我を認めず、ルーベに笑んだ。……それを羨んだ事はない。決して一度も」
彼女は皇帝の言葉に沈黙で返した。
「これでやっと我の望みも適うという物だ。この淀みきった湖のような我が国に、新たな流れが生まれる」
彼の声はとても嬉しそうにカノンには聞こえた。人が聞けば、自らの耳を疑うような言葉であったものの、その声には歓喜が含まれていた。
「停滞を厭うのは誰も同じだろう。そうは思わないか? ……カノン・ルイーダ・シェインディア。だがそう簡単に我は潰れぬぞ。異世界から来た古の来訪者、歴史の鍵のお前がどれほどの力を秘めていようがな」
カノンは背筋に冷たいものを感じ、思わず息を呑んでしまった。彼は全てを知っている。知っていて、この状況を作り出したのだと悟ったところで力を持たないカノンはどうすることも出来ない。
「子守唄に聞いた英雄帝の覇業。どれだけ羨んだ事か。それが今、適った事を、我は喜ばしく思う」
皇帝は笑んだまま言葉途切れない。
「滅ぼせるものなら、滅ぼしてみよ。最も、ルーベごとき愚弟にその力があるのならばな。中途半端な力など、無いに等しい」
「……お言葉ですが、ルーベ様は皇帝陛下の仰るような弱い方ではございません」
カノンは頭を下げたまま、はっきりと皇帝に向かってルーベを庇った。皇帝は明らかにルーベを馬鹿にしている。言葉の彩であるならばいざ知れず、それを理解できるからカノンはあえてその唇に反論の意を乗せたのだ。少しだけ芝居がかったように目を見開いたが、彼の表情は崩れない。
「ほぅ。それはお前の真意か?」
「はい、恐れながら。皇帝陛下が思われているよりもはるかに、ルーベ様はお強くいらっしゃいます。あまりご自分の力を過信なさらないほうがよろしいかと……」
彼女にも、己が言っている事が無礼であることぐらい予想は出来た。それにもかかわらず、カノンは自分の腹の奥底で湧き上がる怒りを吐き出さずにはいられなかったのである。これを彼が狙っていたのかは定かではないが、皇帝はニヤリとした笑みを絶やさない。
「では、我は奴に期待をしていてよい、と言うのだな」
「はい、陛下」
スッと顔を上げたカノンの琥珀色の瞳が皇帝を捕らえた。見れば見るほどルーベと兄弟とは思えない。ルーベたちが言うように、このままいけばこの人物は狂王に変わるというのだろうか。先日あったもう一人のレイター、マハラは彼にも礼を言われた事を思うと彼の性格がおぼろげながらはっきりしたような気が彼女はしていた。
争いを好む、たったこれだけのことだがそれは破滅を呼ぶだろう。それぐらいカノンでも理解できる。
彼は停滞を厭い、自らの力を発揮できる戦いを望んでいるのだ。玉座の上で国政を操るよりも、遥かにそれを望んでいるのだ。それがどれだけ恐ろしい事なのか。国を治めるに相応しくない。王冠を戴く者として、決して。
この時なぜか、カノンは胸の中で湧き上がる感情を押しこめるのに苦労していた。
「ならば時が来るまでそれを待つとしよう。ご苦労だったな、下がれ」
「はい」
カノンはまた礼をすると、流れるような動作で後ろに下がった。その時、魔力の壁が割れる小さな音がしたのだが周囲はそんなことには気付かない。人の気配とを感じ、カノンも妙な空間から出られたことを悟った。ルーベの傍らまで戻ると、彼は心配げな視線を感じ微笑んでみせる。
「二人とも、下がれ」
その言葉と共に二人揃って頭を下げ、皇帝の椅子の前からゆっくりと下がる。その間も、カノンの表情に脅えや混乱などの感情は微塵も読み取れない。下がる間も、誰も二人に近づく事は無かった。
皇帝は玉座に座りながら、いずれ牙を剥くであろう二人を穏やかに見つめていた。生きてきて、これ以上の楽しみを今だ知らない。今はまだか細い牙ではあるが、いずれその牙を研ぎ澄まし、自らの首を自らを狙ってくるであろう彼らを、待っていてやろう。
カノン・ルーベに続いて、我が先に皇帝のご機嫌に来る貴族たちの話を聞くことはなかったのだった。
「大丈夫? カノン」
ミリアディアの側まで戻ってきた二人に、彼女は心配気に彼女に声をかけた。ルーベの傍らにいる彼女の頬を両手で触れるミリアディアを安心させるように、カノンは頬に触れる手に触れる。
「何もありませんでした」
「本当?」
「ええ」
微笑んで見せても、彼女の心配は消えないらしい。それはルーベも同じらしく、ミリアディアに先に言葉を取られてしまったが遅れながら彼も言葉を紡いだ。
「兄上に何を聞かれた?」
「別に、格段何かを聞かれたということはありません」
今ここではさすがにいえない言葉である、というのを言外に付け加えた。ペタペタとなおもカノンの顔や髪に触れるミリアディアは、その言葉を信用していないようだった。苦笑しながら甘んじてそれを受ける彼女は苦笑しているだけだった。
皇帝は、カノンに害をくわえるつもりは無かった。そう、あれはただの宣戦布告。それをカノンに浴びせかけただけの一瞬の時間だったのだ。それはルーベもカノンも、ミリアディアも理解は出来ている。だが二人は恐らく、カノンが反論をしたことまではわからないだろう。
「何もなくて、無事でよかった」
ルーベはカノンの亜麻色の髪に手を伸ばす。それはあまりに自然な動作であり、それはまるで一枚の絵のようだった。手の平をぬくもりを感じながら、カノンは微笑んだ。
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