10.ぞんざいなそんざい


「それで、いい」
 帝は口から夕陽を溶かした色の液体を流しながら微笑んだ。
「帝」
 彼は名を呼ばれ、さらに笑みを深めた。そして、ゆっくりと地面に倒れ落ちる。人が倒れた時に生じる鈍い音が響き渡り、奏は顔を歪めてその場に膝をつく。
「帝ぉっ」
 地に倒れた帝の頭部を抱き上げ、奏はポロポロと涙を流し、その雫が彼の頬に落ちる。
「泣くな、奏」
 ゆっくりと、ゆっくりと手を伸ばした帝はそっと彼女の涙に濡れた頬に触れた。帝の躯は禁術で構成されており、その一部には主である奏の血液が使われている。
 それが“鬼”として現世に留まる者と伐鬼との間に交わされた、血の契約なのである。これは伐鬼からでも“鬼”からでも破棄できる物なのだが、契約の代償は破棄を宣言した者の命。
 相互の理解は必要ない。魂の解放は常に一つの方法しか用意されていない。それが今果たされたのだ。
 帝から伸ばされた手が、パキパキと小さな音を立て始め、下半身は既に崩壊を始めている。それを見て、奏は小さな悲鳴を上げながらギュっと帝の頭部を抱きしめた。もう、彼女は涙を流していなかった。
「これが、本当に最期だな」
「……帝」
「これから先、お前の見る世界に何があるか、私にはわからぬ」
 下半身は既に砂と化し、上半身にも徐々に罅が入り始めていた。彼の端正な顔にまで罅が入ってくると、奏では指でその亀裂をなぞる。血の海の上に膝をついてただ彼を抱きしめる奏に、時が赦す限りと言わんばかりに帝は言葉を紡ぐ。
「これ以上の言葉は、もう、必要ないかもしれん」
 その言葉を紡いだ瞬間、一気に身体の亀裂が生じた。バラバラと音を立てながら壊れていく。それを見ながら、もう涙も止まり、悲痛な表情を浮かべて彼を見つめていた。
「最期に、本当に最期だ。愛していたよ、私の伐鬼。私の奏」
 にっこりと笑ってそう言った。それが、彼の発した最期の言葉であり、最期の笑みだった。彼はそっと瞳を閉じる。
「帝?」
 パキバキっと身体が壊れ、地面に溢れていた血の海が消えていく。温もりが消えていけば、彼がそこに完全にいたことさえ、世界に残らない。
 しかし、それでも奏の黒曜石の瞳にはもう涙は生まれない。
「ねぇ、帝。もう一回、私の名前を呼んで?」
 歪んだ笑みを浮かべながら、奏はもう胸の辺りまでしか残っていない帝の体を揺さぶった。
「ねぇ、もう一度っ!」
 揺さぶった衝撃で、彼の体の罅が増す。それでも奏は止めない。それでも、帝の双眸が開かれ、海よりも深い藍色の双眸を曝すことはなかった。
「ねぇ、帝!!」
 叫んだと同時に彼の首から下は完全に粉砕した。彼女の腕の中には帝の頭部だけしか残っていない。その頭部をギュッと抱きながら、奏はゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
 そして、彼女は突然クスクスと笑い出し、……唇を動かした。
「聞こえる、帝?」
 満足そうに微笑みを浮かべたまま、瞳を閉じた生首を抱いた彼女は嬉しそうに問う。いとおしささえこめられた声で奏は呟く。
「どうしよう、ねぇ、どうしよう。私、今凄く幸せ」
 彼の首を抱きながら、氷のようにつめたい土作りといっても過言ではない、その首を胸に抱きながら彼女は幸せそうに微笑んでいたのだ。
「だって、あなたを抱いていられるんですもの」
 クスクスと笑う声が辺りに響く。草むらから響く虫の音は、いつの間にか止み、風さえも吹かない。その中で静かに紡がれる彼の声。
 朽ちた帝の身体が流れ出る闇色の霧。それはすぐに、奏の身体に消えていく。
「あなたを滅して、あなたの力が、あなたの思いが、どんどん私の中に入ってくるのが分かるの」
 本当に楽しそうに、嬉しそうに笑いながら、虚ろな瞳で彼女は笑った。
「ねぇ、どうしよう。凄く、凄く幸せ。あなたと、私は一つになれたんだもん」
 奏はふと、腕の中の彼の顔を覗きこむ。
「ねぇ、帝」
 彼女が腕の中の彼を覗き込んだとき、その瞬間、彼の首が砕け散った。それは硝子が飛び散るように美しく、水滴が飛び散るように何も残らず、彼女の腕からその存在を消したのだった。
 手にこびりついていたはずの彼の血も消え、その場には帝という“鬼”が生きたという痕跡は跡形もなく消失してしまった。まるで初めからそこにはなにもなかったかのように。ぬくもりも、何もかもがなくなってしまった空間ををみて、腕をだらりと下げた奏は空を見上げた。
「アハハハ、ハハハハハっ!!」
 そして、彼女は声高に笑い始めた。それは狂ったかのように、それは慟哭のように空に向かって笑い始めたのだ。涙の変わりに、ただ、笑うことを選んだ彼女は壊れた笑いを発し続けた。


「奏」
 そんな奏の名を、呼ぶ声が彼女の耳に入り込む。彼女は、ゆっくりとその方向を向いて見せた。
 そこに立っていたのは、祖母である時雨。そして、母である聖だった。
「お母様?」
 奏は驚いた様子もなく、ただ微笑んで実母を見つめた。
「久しぶりね、奏」
「ええ、お久しぶりです。お母様」
 首だけを動かして母を見つめる奏。幼い頃、どれほど望んでも会うことさえ許されなかった母との面会。
 聖は山裾に広がる高い楼閣茶屋辻風景。遠くの峰峰に連なる樹木などをそろえて風景文様として描き色は加賀五彩と呼ばれる蘇芳・黄土・藍・緑・墨が基調色となっている黒留袖を身につけていた。
 それは、彼女なりの奏に対する礼儀だったのかもしれない。
「お母様も、こんな喜びを感じたの?」
「……ええ」
「おばあさまも。歴代の伐鬼たちは、皆、こんな思いをしてきたのですね」
 笑みを絶やさないまま、奏は言った。
 悲しみは、喜びと対をなし、愛しさは憎しみと対をなす。今、真実を知った奏は何かを考える、という能力が絶無に等しかった。この経った数時間の間、帝と過ごしてきた時間に比べれば、瞬きするような一瞬に、彼女はすべてを知ったのだ。
 すべてだと思う世界は、まだ狭いのかもしれない。しかし、少なくとも数時間前の何も知らなかった彼女に比べたら恐ろしいほどの真実を理解し切っているのだ。
「奏」
「お母様、あなたは今、幸せですか?」
 聖は、返答に一瞬窮した。しかし、その後紅の引かれた艶やかな唇を動かして、答えた。
「幸せよ」
「けれど、私をお怨みですね?」
「ええ。そうよ」
「それを聞けて安心しました」
 にっこりと、再び幸せそうに笑った奏は再び空を見上げる。その虚ろな瞳は何も物語っていない。何も映さず、開いているだけの瞳は、何も捉えることは出来ない。
 これ以上、残酷な真実を受け入れることさえ彼女は出来なかった。
「これで、お母様が私を怨んでいないなんて言ったら、私はあなたを許さなかったかもしれない」
 奏の言葉に、時雨はふと目を閉じた。彼女もまた、彼女の母に同じ言葉を投げつけていたのだ。それを今克明に脳裏にその様子を思い出していた。
 人間とは、繰り返す生き物である。良いものも、悪いものも。全てを含めて。この絶望の中に見出した、僅かな幸せをかみ締めていられるもの、長い時間ではないことを今の状態の奏に告げることなど、彼女は到底出来はしなかった。

「奏、屋敷の中にお入りなさい」
 時雨は彼女に言った。夏とはいえ、山奥にそびえ立つ神宮寺の屋敷の中では、昔の暦と変わらず秋のように涼しい風が舞う。
「いえ、奏はもう少しここにおります」
 彼女はやんわりと時雨の言葉を断った。その答えがわかっていたかのように、彼女は奏の側に歩み寄り、自分のかけていた肩掛けを彼女の肩にかけてやる。
 肩掛けに残る僅かな温もりに奏は柔らかな笑みを浮かべ、礼を述べた。
「そう」
 時雨は、それを叱ることもせずただ頷いて彼女に背を向けた。ジャリジャリと砂場を歩いて立ち去る母の後ろに、聖も続いた。
 歩きながら、聖は彼女に言う。
「落ち着いたときにでも、ゆっくりとお話しましょう」
「……ええ」
 奏は笑ったままそう答えた。
 彼女には、まだ告げられていないもう一つの真実があった。彼女はもう一つの絶望を体感する事態が訪れる。確実に、恐らく、あと二年は先の話になるのだろうが。今の絶望の中に見出した幸せが、すべて消え失せてしまうということ。
 見出した幸せさえ、伐鬼には赦されないのだ。すべては敵を利用し、敵を愛してしまった伐鬼の罪というのであれば、受け入れてしかるべきことなのかもしれないのであるが、若い伐鬼にそれを強いるのはあまりにも酷である。
 しかし、歯車が動いてしまった。道を歩むことを誓ってしまったのだ。それは確実に彼女の元へ訪れる。彼女の望む、望まぬに関わらず。
 最後の真実を、今告げられないのは、今告げれば発狂し、死を選んでしまう危険性があるからに他ならない。実際に、この時点で死を選ぼうとして、取り押さえられ舌を噛み切らぬよう常に何かを噛まされ、座敷牢ではなく地下牢に閉じ込められた伐鬼もいたのだ。
 子を為す事さえも拒み、他の伐鬼の手によって押さえつけられた次期当主を無理矢理に孕ませたこととて、少なくはないのだ。
 伐鬼の闇は、なお暗く、昏く、計り知れない。それをすべて知る頃には、時雨ほど齢を重ねなければならないかもしれない。時雨とて、伐鬼の闇の全てをその身で体験し、継承しているわけではないのだ。
 日出ずる国を守るために生まれた伐鬼の業。煌びやかな箱庭に飼われる、ぞんざいな存在。それは、一人の人間の一生と、一体の“鬼”のすべてを犠牲にして成り立つ業であり、数え切れないほどの彼らの犠牲の上に、この世界は成り立っている事実を物語っていた。


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