09.散り逝くもの


 空は、もう完全に闇に染まっていた。それはまるで絶望に塗潰されたかのような闇の色だった。星も月も出ていない闇夜の中で、奏は涙で濡れた瞳のまま、懇願するように帝に言う。
「帝、一緒に来て? 一緒に逃げよう?」
「それが無理なことぐらい、私じゃなくとも一番お前がわかってるだろう?」
 深い藍色の瞳は、慈悲の色を乗せて微笑む。しかし、奏が望むのはそんなものではない。小さな虫が鳴く音が静かに響く。その音と彼女の声が交じり合う。
「でも、そんなのってないよ」
「何が?」
「別れるために一緒にいたなんて、それを帝が知ってたなんて!!」
 彼女はまた両手で顔を覆い、とめどない涙を流す。その姿を見て、彼はまた一歩彼女に近づいていく。もう、逃げる気力さえ残っていない奏はそのままいやいやと首を振るだけだった。
 そんな彼女の最後の抵抗さえ気にせず、帝は彼女の絹のようなさわり心地のする髪を撫でた。
「恨み言ならいくらでも聞いてやる。呪うなら、私を呪えばいい。けれど奏、お前は自分自身を呪われた存在だと決して思うな」
「止めて、最後の言葉みたいなの」
「実際、最期の言葉だからな。聞いてくれ」
 両手で耳を押えたまま、奏はまたいやいやと首を振る。しかし、帝は言葉を紡ぐ。
「九年前、私は死ぬつもりだった」
 知ってる、と奏は小さく唇を動かした。初めて彼らが出会ったとき、当時の奏の力では到底太刀打ちできなかった帝の力。それにもかかわらず、帝は奏の前に膝を折ったのだ。それは彼が全力ではなかったということを物語っていた。
「私はあまりに長く現世に留まりすぎた。それだけの話だ。人間に恋慕を抱いてはいけないと、あれほど強く思っていたのに」
「私は、帝が好きよ」
「私もだ。気づいた時には、お前を愛していた。私がお前を愛しく思う気持ちだけは、この仮初の躯にあっても真実だと言える」
 たった一つでも、この何も知らない少女に何かを残せるのであれば、それは真摯なまでな自分の気持ちだけだろうと、帝は常々思っていた。
 数年、時を共に過ごした少女を、愛しく思わなかったことなど、一日もなかった。無防備に笑う少女の笑顔に、冷めた心は感情を取り戻した。
「赦されるのならばこのまま、お前とお前の生が全うされるその日まで、共に生きたいと思ったよ」

 傷つけずに、守りたい。
 ただ、愛してやりたい。
 全てが壊れ、始まる日まで。

 帝にとって、今日がその日だった。とても、穏やかにこの日を迎えることが出来たのは、何故だろうか彼自身も不思議だった。
「なら! 一緒に生きて?! 一緒に生きようよ! やだよ! 私だって!! ずっと帝と一緒に生きたい!! 帝、帝、帝!!」
 壊れた玩具のように、声を上げる奏を、彼は優しく抱きしめた。
「奏、私のような“鬼”が、この日本と言う地だけでも、あと四人いる」
「四人?」
 知らないことを聞かされた奏は思わず顔を上げて彼を凝視する。
「ああ、この数年で奴らに会わずに済んで、内心安堵した。だが、この先必ず戦うことになるだろう。その時、私は側に居ない」
 帝はスッと手を伸ばして、頬を伝う彼女の涙を拭った。
「いやっ! どうして?! 何で!?」
 頬に触れている帝の手を掴んで、奏は叫ぶ。帝は再びフッと笑って言った。
「傀儡の術。それは、お前の産む子どもに私の力を受け継がせるための物」
 一瞬、辺りに静寂が満ちた。僅かに聞こえる虫の声以外、人の息遣いさえ感じられない空間が生まれる。
「……今、何て言った?」
 静かに、静かに奏はもう一度その信じられない言葉を発した帝に問うた。抱きしめられた身体をゆっくりと起こし、彼を見上げた。
「聞こえなかったのか? 傀儡の術は、仮初の器。そしてその仮初の器には、この数年で滅した“鬼”の力が蓄積されているのだ」
 奏は絶句して、愕然としながらただ彼を見上げていた。もう、泣くことさえも出来ない。
「母とは、子を産むとき自らの血肉を、力を授ける。しかし、力を子に授けてはこの力も中途半端になる上、母の力も半減してしまう」
 帝の手を掴む、手がカタカタと震えてしまうのを押えることが出来ない。
「だから、用いられているのだ。母親の力が半減せず、次の伐鬼の長となるべき物の基盤となる力のために」
 奏は咄嗟に片方の手で自分の下腹部に触れた。
「じゃぁ……」
 今の奏は声の震えを止める術さえ、知らない。
「伐鬼は同じことを繰り返す」
「私は……」
「そうだ」
 それは絶望を告げる言霊だった。
「お前の母の“鬼”を殺して、お前が生まれたんだ」
 私とお前のように、睦み合った者同士が殺しあって生まれてきた子ども。
 傀儡の術、それは一つに次期伐鬼の頂点になる人間を守るために、一つに生まれてくる子どもの力の種。“鬼”を利用したその手段に、奏は眩暈を感じていた。
「嘘」
「嘘である、はずがないだろう?」
 真実しか語らない帝が、嘘を言っている訳ではないことを、この場にいる誰よりも奏は理解している。しかし、気持ちがついてこないのもまた事実。自分がどうすればいいかわらず、奏はただただ泣くしかない。
 再び瞳を歪ませて、漆黒の瞳が帝を見上げる。
「いやっ! どうして、こんな……」
「呪うなら、お前を置いて逝く私を怨め」
「怨める訳ないじゃない、帝をっ。大好きなあなたを、どうして私は怨めるの?!」
 髪を振り乱して首を横に振る。雫が舞い、彼らが立っている石の上にポタポタと落ちる。
「滅することなんて、出来る訳、ないっ!」
 奏は自分の手が白くなるぐらい、両手で彼の腕を掴んだ。持てる限りのすべての力で、彼を放すまいと必死で掴む。
「では、もう一つ真実を教えてよう」
「知りたくないっ!!」
「いずれは知らねばらなぬことだ。先に知っておいたほうがいい」
 帝はやはり、優しい笑みを浮かべながら少し屈んで、彼女の耳側で言葉を紡いだ。
「私は、この場でお前に滅せられなければ、他の誰かの手によって滅せられる」
「なっ」
 これ以上の言葉でなかった。
「いずれにせよ、傀儡の術をこの身に受けることを知ったときから、この日が来るのを知っていた。それを拒めば、それがどうなることかも知らされていた」
 帝の笑顔は崩れなかったが、奏の顔から急速に温度が消え、表情が抜け落ちていく。身体の震えも止み、ただ愕然として彼を見上げていた。
「お前が私を滅せなければ、私は他の誰かに滅せられるのであろう。そして、その力がお前へと移転され、お前は誰かと契りを交わし次期の子をなす」
 ずるりと、彼を掴んでいた腕を放し、奏の両腕をだらりと下ろしてしまった。これ以上、どうすることが出来ないと悟った奏はただ茫然自失といわんばかりの瞳で帝を見上げていた。
「最初で、最期の私の願いだ。どうせ逝くなら、お前の手で逝きたい」
「酷い」
「承知してる」
 帝はどこまでも、柔からで優しげな笑みを浮かべたまま、奏を見ていた。そして紡ぐ言葉はどこまでも慈愛に満ちている。それに対する彼女の言葉もまた、柔らかな響きを帯びた。
「でも、私はそれでも帝が好き」
「私もだ、奏。愛してる」
「……私のほうが、ずっと帝の事、愛してるよ」
 初めて、ここで奏は笑みを浮かべた。乱れた髪になど目もくれずどこか虚ろな眼差しで帝を見て、微笑んでいる。紅も引いていないのに、赤い唇が動き鈴の音のような涼やかな音を紡いだ。
「私、この先帝以上に愛せる人なんて、存在しないよ」
「そうか」
「大好き。初めてあなたと対峙した時から、私はあなただけだった」
 奏は真っ白になった腕をゆっくりと彼に伸ばした。そして、帝の頬に両手でそっと触れた。指先に感じた温もりに、無意識に奏は安堵した。頬に触れた温もりに、帝は密やかに歓喜した。これが最後であることを、二人はこの時悟っていた。
「たった一人の、大切な人」
「私は人ではなく、お前が憎むベき“鬼”だ」
「ええ、憎いわ。あなたが、とても」
「ならば、早く私を滅してくれ」
 二人の笑みは、崩れることはなかった。ただ、顔に笑顔を浮かべて、お互いに気持ちを吐露しあう。
「大好き」
「私もだ」
 愛しくて、愛しくて仕方がない存在だと互いに言い合う。それがどれだけ不毛なものと知っていても、それでも言葉に出さずにはいられてない。二度と温もりを感じることも、言葉を交わすことも出来なくなるから。
「帝、“鬼”が輪廻転生の輪に入れないのを、知っている?」
「ああ」
「私たち、これでもう二度と会うことが出来ないわね」
「そうだな」
 二人の会話は淡々としていた。それは永久の別離の前の触れ合いではなく、ごく日常にありえそうな雰囲気をかもしだすもの。
「でもね」
「どうした?」
 笑いながら、奏は一筋の涙を流した。日常と言う世界は、つい数時間前に消えうせてしまったのだ。もう、戻れない所まできてしまったのだ。伐鬼としての宿命を、業をその背に背負って生きていくことを奏は誓っていた。
 そのために、帝を犠牲にしなければならないことを、感情で理解できないでいた。今も、理解できた訳ではない。ただ、今の彼女でも理解できるのは、帝は自分のものだということ。自分の好きな者が、自分の目の前から去っていってしまうかもしれないということ。
 そしてその別離を、自分が拒めば自分以外の人間がその任につくこと。それこそ、奏は堪えられない。ならばせめて、と奏は思った。笑顔のまま、静かに涙を流し続けながら、彼女は言った。
「あなたが生まれ変わって、私以外の誰かと一緒にいるなら」
 透明な雫が、ぽたりと石畳の上に落ちる。
「他の誰かに滅せられるぐらいなら、私もあなたを自分の手で滅したい」
 奏がそういうと、帝は至極嬉しそうな笑みを浮かべて奏を見つめる。ただ、彼女に触れようともせず、離れた手でもう一度彼女を抱こうともしない。ただ、真っ直ぐに立ったまま、彼女に言葉を発していく。
「そうしてくれ、奏。私が……愛した子」
 奏は帝から手を離すと、その手に何かを宿し始めた。蛍火のような小さな光が彼女の手に宿り始め、その輝きは増していく。今まで『破の力』を溜めるその一瞬を、今まで確保してくれていたのは他でもない帝だった。それは今この時でも変わらない。
 帝は、静かに言葉を発し始める。
「愛していた。私はこれからどこに行くかも知れぬ」
 奏はただ静かに涙を流し、静かに笑っていた。
「……だが、覚えておいてくれ、奏」
 帝の優しげな笑みを見て、奏の涙はますます勢いを増し、止まらない。涙で視界がぼやけ、彼女の視界には今帝しか見えていない。それこそ、彼女の望む世界であったはずなのに、その幸せな世界も、もう壊れるときがきたのだ。
「私は、お前を、ずっと……」
 この時、奏はその手を精一杯後ろに引いた。それは、奏の合図だった。涙の雫が辺りに舞う。
「見守っている」
 その言葉と同時に、奏は帝の額を貫いた。ドッと言う鈍い音が、静寂の世界に日々に響き渡る。石の上に透明な雫の後、その後に緋色の飛沫が重なる。
 傀儡の術、帝の身体を構成している物質は、人の血肉ではない。しかし、術の効力は半端ではなく、彼も怪我をすれば血も出るし、痛みも感じる。帝の心臓に一突きで貫かれた腕は、緋色に染まり貫通していた。それは、出会いの日にみた、朝焼けの色よりも遥かに赤い、赤い色だった。
 涙と、赤い血が混ざり合い石の上にそれは滲んだまま、増えるばかりで減ることはなかった。


BACKMENUNEXT



SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送