11. 苦しみは永久に


 あれから二年。奏が帝を失ってから、矢のように二年という年月が過ぎ去った。彼女にとっては、地獄のような歳月であったであろうこの二年の間に、彼女は一つの命を身ごもった。
 今より十月十日強の日を数えた時に宿った命。それは奏にとっては、待ち望んだ命であった。奏はこの二年間、高校を卒業してからずっと神宮寺の庭に咲く曼珠沙華に話しかけながら過ごしてきた。
 曼珠沙華、秋の彼岸に咲く花、曼珠沙華とは古代インド語で緋い華を意味する。緋い華が天から降る慶事の兆しという仏教の経典によると描かれている。
 伐鬼にとって曼珠沙華は、それとは真逆の意味を持つのだ。曼珠沙華の花言葉は悲しい思い出、恐怖。花に向かってその辛い話をすれば、浄化されるといわれているが、話せど話せど、胸の中の空白は埋まることはなかった。

 奏は母と、数名の侍女たちに見守られ、陣痛が始まり十時間、そして、新たな生命がこの世に産声を上げるまでさらに二時間を過ごした。想像を絶する痛みに、奏は呻き声をあげながらも堪え、新たな命を生み出そうとする。
「ああっ!!」
 彼女の声と同時に、奏は痛みから解放された。その感覚に安堵すると同時に、けたたましい産声が二十畳ほどもある部屋の中に響き渡る。子を抱き上げた、侍女の一人が嬉しそうに声を上げた。
「奏様、お疲れ様でございます! ご覧下さいませ、可愛らしい女子でございますよ!」
 血に汚れ、現世と言う名の地獄の呼び起こされたことに、ただ泣くことしか出来ない赤子に、奏は微笑みかけた。言葉も喋らず、ただ泣き喚くのみの小さな命。十月十日という歳月を、そしてさらに長い歳月を共に生きてきた命との、対面である。
 汗で張り付いた奏の闇色の髪、それをとることもせずゆっくりと彼女は我が子へと手を伸ばした。
「私の子……」
 それは二年前に決別した鬼との再会でもあった。
「おかえりなさい、帝」
 奏は、侍女の差し出されるままに、泣き続ける子どもの頬にそっと触れた。そこに感じたぬくもりは、あの時急速に失ったそれと同じだった。
 触れた瞬間、彼女の身体の中にまるで悪性のウイルスのように身体を侵蝕していく『何か』があった。
 先ほどまで胎内にあった、暖かい物が感じられなかったのだ。乱れた呼吸が整い、頭が冷静になればなるほど感じられなくなるあの、温もり。奏が二年間よりどころにしていた温もりは、今眼前にある生き物。

 奏は双眸を見開いた。
「私に、それを渡しなさい」
「え?」
 ですが、と側にいた侍女は困惑の表情を見せたが、悪鬼のごとくの形相を浮かべた奏の迫力に押され、子どもをそっと彼女に手渡そうとした時だった。
「お止めなさい」
 凛とした声が室内に響いた。子どもの泣き声にも勝るその声に一同の視線はそちらへ向く。声を発したのは、聖だった。
「お母様、なぜお止めになるのです。帝は私のものです。私のものを、抱いてはいけませんか?」
 今だ肩で息をしている奏は、動けない我が身を呪いながら母を見上げて言った。しかし、正座の形を崩さぬまま彼女は口を開く。
「当然です。あれはあなたの『帝』ではありません。あれは、貴女の次にこの伐鬼の当主、神宮寺の跡を継ぐものです。お前があれを育てれば、どうなるか知れません」
 聖は奏に手渡そうとしていた赤子を連れて行くようにその侍女に命じた。
「駄目っ、止めてっ!」
 奏は振り絞るように声を出し、寝床から這うように出ようとするが、産後は母体の安全のために、安静にしていなければならない。当然、周りの別の侍女たちに抑えられる。
「お母様っ!」
 彼女は再度母を呼ぶ。しかし、母の反応はとても冷たいものであった。
「今の、伐鬼を束ね、神宮寺の頂点に立つものの名を、言ってご覧なさい奏」
 そう問われ、奏は絶句する。
「答えなさい」
 再度要求されると、悔しそうに唇を噛み締めたあとに言葉を紡いだ。
「……聖様です」
 その言葉に鷹揚に頷くと、彼女はすっと立ち上がった。
「それを連れて行きなさい」
 それは残酷にも、奏と子どもを引き離す言葉だった。
「お母様止めて、連れて行かないでっ」
 身体を他の侍女に抑えられながら、彼女は涙ながらに母に懇願する。
「また、私は帝と離れ離れになってしまうっ。嫌、それだけは絶対に嫌!! だから……」
 しかし、その言葉も彼女に受け入れられることはなかった。聖は奏を見ないまま、立ち上がり襖を開けさせた。
「お母様っ!!」
「あとのことを、頼みましたよ」
「御意」
 奏の言葉に耳など貸さず、聖はその部屋を出て行った。

 彼女の陣痛が始まったのは、夜更けであった。しかし、もう空は完全に明るく染まっていた。檜の廊下を歩きながら、輝き放つ太陽を目を細めて見つめてみた。
 母親として赤子を離される事は、身を切るような辛さがある。そして伐鬼の当主となるものは、また別の辛さがあるのだ。それを分かるのは、同じ体験をしたものだけである。
 だからこそ、彼女と赤子を放さなければならないのだ。愛しさが、いつ狂気の憎しみに変わるか分からない。この子さえ生まれてこなければ、愛しい“鬼”は消えずに済んだのだ、その毒が全身を回った時、命が一つ失われる危険がある。
 用心に、こしたこととはないとは言え。聖は昔の自分のことを思い出し、涙が自然と一筋零れ落ちる。
 謝罪の言葉なんて、彼女は持ち合わせていなかった。あるのはただ一つ、罪悪感だけ。そして心の中で生まれる小さな安堵。それは私だけ苦しい目にあっていないという確信がもてるからこそ生まれる感情。それに更なる罪悪感を募らせ、聖はやはり言葉を唇に乗せた。
「ごめんなさい、奏」
 太陽の光は、世界を輝かせる。祝福のように、あるいは愛のように。いつの日か、流れのない川のようによどみきった伐鬼の世界に浄光が射し、全てを解放してくれる日が来ればいいと思いつつ、無力な自分を常に感じていた。
 のちに、この日に生まれた子は暁(あきら)と名付けられることになる。名づけ親は勿論奏だった。彼女もまた聖と同じことを望んで名付けたのかもしれない。しかし、その真実を知るのは、少なくとも十年は先のことになるのだろう。
 奏はこのあと、帝と暮らしたあのマンションに戻ることになる。夫と別称を持つ男と共に生活を共にする。神宮寺家に居れば、暁を殺しかねないため、神宮寺家にいる期間は座敷牢に入ることになる。
 いつまでも、彼女は苛まれ続けることになるのだ。連綿と続いた、伐鬼の呪いをその身に受けた故に。


 十の年月数うるまでに
 千と一の“鬼”と対峙し 千の“鬼”を滅すべし
 残りし一は 己が目で ただ真直ぐに見定めよ
 その処遇を 存在を


 遠くで響く歌声。それは、悲しい愛しい運命恋歌。
 新しく生まれた命もまた、この歌を聞ききながら。
 たった一人の夢を、見るのだろうか。


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