08.命の理由


「ただいま」
「お帰りなさいませ、奏様」
 門前には、一人の女性が立っており、彼女は奏と、奏と帝に恭しく頭を下げた。そして二人を案内しようと歩み出るが、それをきっぱりと断った奏はそのまま女を下がらせた。
「子どもじゃないんだから、平気よ」
 女は表情一つ変えずに彼女の言に従い後ろに下がり、その姿はやがて夕闇に消える。奏はスッと背筋を伸ばし、凛とした空気を纏ったまま屋敷に一歩を踏み出した。それに彼も続く。
 初めて出会ったあの日を、この時帝は思い出していた。隠れ家と言うには多少大きすぎる造りをしている神宮寺の屋敷に、彼らは年に一度か二度しか足を運ばなかった。年末年始の挨拶にだけ訪れ、それ以外を都心で過ごす。それは彼らにとって最良の環境だったからだ。
 久しぶりにコンクリートで覆われた家ではなくこの場所へ帰ってきた。平安中期に建てられた寝殿造りの建造物が、平成の世までほぼ完璧に形を留めているのは一重に、彼らをことの重要視している国の力があるからこそであることを、帝は改めて思い知る。
 室内の調度品こそ違えど、そこには確かにあの頃の空気が流れている。八年前と変わらない、そしてそれ以上前と変わらない空気だった。
「おばあさまに会うの、緊張してるの?」
「……少しな」
 奏は彼の言葉に小さく笑って見せた。鈴の鳴るような声で笑う彼女を見て、帝もつられて笑ってしまう。
 奏でが一歩歩くごとに軋む廊下の音は、歴史を積み重ねた建造物の何よりの証。特有のヒノキの香りは褪せたとはいえ、まだその芳香を放ち、どこからとも無く響き渡る筧の子気味の良い音が、朝霧立ち込める庭の風景が、帝の五感を支配する。
 これはあるいは、あの始まりの日ではないだろうか。そう感じてしまうこの空間は、ここだけ時間を経過させる術を忘れてしまったような、そんな雰囲気があった。懐かしさと悲しみが同時に押し寄せるこの言いようの無い気持ちを、なんと表現できるだろうか。目の前を進む伐鬼の少女を見つめながら、彼は寝殿へ続く道を辿っていった。
 彼女と初めて会い、傀儡の術を受けると決めた日と、今日の動作が交錯していくのを彼は密かに感じていた。

 妻戸から音もなくスっとはいり、そのまま彼女はその場に膝を折る。
「時雨様、奏が戻りました」
 凛とした声の響きからは、昔から変わらない。むしろ輝きと透明度を増した涼やかな声が辺りに響く。それは、この数年で磨きがかかっていた。
「お入りなさい」
 奏のそれより遥かに落ち着いた声の主の言葉に、彼女安堵の笑みを浮かべる。一瞬柔らかな笑みをを浮かべた奏であったが、すぐに伐鬼としての表情を作り直し、『はい』と返事をした。
 薄明かりの中で、さらりと滑り落ちるように揺れる奏の射干玉の髪を、帝は視覚に焼き付ける。
「帝、どうしたの?」
 いつまでも一歩を踏み出さない彼に、後ろを振り返った奏が問うた。その表情に浮かんでいる仄かな微笑さえ、とうに諦めたはずのであろう感情の渦が逆巻く。
「何でもない」
「なら行こう。おばあさまが呼んでいらっしゃるから」
 そういうと、奏は時雨、の元へと歩みを進めた。それに帝も習う。
 室内は灯台からの一つの灯だけであり、もうそろそろ闇に支配される頃合の時刻の明かりとしては少々不足しているのでは、と人は感じるものだった。奏達が入ってくることで空気が揺れて、ともった炎が小さく踊る。
「元気そうね、奏」
「はい。おばあさまもお変わりないようで、何よりです」
 初めてこの場所で交わした会話と変わらないような雰囲気で会話は進んでいく。ただ、決定的に違うのは、あの時の空気。
 彼女はあらかじめ用意されていた円座(わろうだ)に正座すると、改めて高麗縁の畳に座っている漆黒の着物を身に纏っている時雨に頭を下げた。頭を下げている奏を、彼女は慈しみを込めた瞳で見つめた。
「頭を上げなさい」
「……はい」
 そういわれた奏は即座に女性の言葉に従い顔を上げる。奏の真横に座っている帝は、彼女の表情が強張っているのが見て取れた。女性は何も言わない、奏も何も言わない。
 母屋を支配している静寂に終焉が来ないのではないかと、その静けさ故に妙な錯覚を彼は覚えたほど。この空間に今あり音とすれば、灯台に燃ゆる火の音だけである。
 凛とした表情の奏に、側に控える帝の表情はいつも以上に無表情だった。そんな彼に向かって時雨は頭を下げる。
「帝殿。奏をありがとうございました」
「いや、礼には及ばない」
「帝っ!」
「いいから、奏。貴女は本当に昔から変わりませんね」
 慈しむようにクスクスと時雨が笑うと、はしたないところ見せた自覚のある奏は白い頬に朱を走らせ頭を下げるしかない。
「早速本題に入りますよ、奏」
「はい」
 ふと、辺りの空気に緊張が走る。
「今日、貴女を屋敷へ呼んだのは他でもありません。貴女は、これからの進路をどうするつもりですか?」
 それは高校三年生という奏が常に学校で言われている言葉であった。そして、彼女が答える言葉もまた一つである。
「大学にはいきません。私は伐鬼として、この身を捧げることを誓います」
「……その言葉に嘘偽りはありませんね?」
 いつも以上に、厳しい表情をまとっている祖母に向かって、奏は負けずに答える
「はい」
「貴女は、神宮寺の当主の孫。貴女の母が当主になった次の当主になるべき娘だということを、これからはさらに自覚なさい」
「はい」
「これから先、貴女には計り知れない試練が待っている。それに堪えて初めて、貴女は神宮寺を背負える『伐鬼』となれます。その覚悟はおありですか?」
 繰り返し確認を行う祖母に向かって、彼女はフワリと笑って見せた。
「その覚悟がなければ、ここになど帰って来ません。どんなことが起こっても、私は堪えます」
 その言葉を聞いた時雨はほんの一瞬だけ悲しそうな笑みを浮かべた後、すっと立ち上がった。
「では、その覚悟を私が見定めましょう」
 その目は先ほど浮かべていた悲しげだが、その中に慈悲の隠されていた瞳ではなかった。時雨の瞳の奥にある感情を、奏は読み取る事が出来ず、心の中に何とも言いがたい不安が過ぎった。
「おばあさま?」
 そのあまりの様変わりに、奏は思わず彼女を呼んだ。しかし、彼女は奏の声にこたえなかった。
「帝殿、お願いいたします」
「ああ」
 そういうと、帝もすっと立ち上がった。
「帝?」
「奏、共にきてくれ」
 そういって、座っている奏に彼は手を差し伸べた。それに迷いなく手を乗せるものの、彼女の表情は困惑し切っていた。これから何が始まるのかを、帝は理解しているようだが、自分は全くわからない。
 しかしそのことに腹を立てる必要はなかった。それはすべて、彼が側にいるから。彼と共に訪れる試練であるならば、自分が越えられない筈はない、と彼女な確信していたのだった。

 帝は深い藍色の瞳を細めて彼女を見つめていた。
 廊下を出て、そこに不自然に用意されていた二人の革靴。それをゆっくりと帝がはくと、奏にも履くようにと促し、彼らは大地に足を下ろした。
「帝?」
 何も言わない彼の腕に、彼女はそっと腕を絡ませた。しかし、帝からは何の反応も返って来ない。屋敷の中から、時雨は二人を一瞬も見落としてなるものかという雰囲気で見つめている。
 何をさせられるのか、何をするのか分からない状態のまま、奏はますます彼の腕に抱きついた。
「……傀儡の術の意味を、お前は知っているか?」
「え?」
 それは何の前触れもなく紡がれた言葉だった。
「何言ってるの? 帝……」
「知っているのか?」
 彼はそれしか問わない。恐らくこれが、最後の試練なのだろうと感じ取った奏は彼を見上げ、彼の美しい瞳を見つめながら答えた。
「十の月日を数えるまでに、千と一の“鬼”に出会って、千を滅する。そして残りの一を自分の鬼にするために、側において共に生きる。そのために人の身体が必要になるわ。だけど、“鬼”は一度死んでて人の肉体がないから、仮初の肉体を作るの。それが傀儡の術」
 淀みなく答えられた術の表向きの意味。帝は口元に深い笑みを刻んだ。
「では、一つ、お前に問おう。奏、お前の祖母に、お前の母にその『一』がついていないのはなぜだ?」
「え?」
 奏は咄嗟に反論できなかった。
 傀儡の術、それはいずれ当主となる伐鬼を守る役目を負う選ばれた“鬼”の身体を作る儀式だと、奏は祖母から聞いていた。それを十八年間疑うことなく生きてきた。
 ここで彼女は気付く、ならばなぜ、彼女たちの側にその“鬼”がいないのか、と。姿を見せないだけだと、ただ単純にそう思っていた。
 当たり前のように、祖母にも母にも自分のようにたった一人の“鬼”がいると信じていたのだ。当たり前の事だから、今まで一度も口にすることはなかった。
 奏は一気に全身から血の気が引く音を感じていた。ここで愚かなまでに己が馬鹿であればその真実に気付かなかったかもしれない。しかしそれでは問題を先送りにしているだけに過ぎない。結局は意味のないことである。
「……気付いただろう、奏」
「嘘っ!」
「嘘だと思うなら、聞いてみるといい。お前の祖母や母にな」
 今の奏に屋敷の中に入る時雨に真実を聞く余裕がない。よしんば、それが真実であるならば、それは何と残酷なことだろうか。彼女は自らが絡めていた腕を帝から離し、一歩、一歩後ずさりをしてしまう。脅えきり絶望しか映していない彼女の表情を見つめて、帝は優しく笑った。
「九年前の決着が付くだけの話だ。私はあまりに長く永らえてしまっただけの話。奏」
「止めてっ! お願いだからっ!!」
 奏は両手で己の耳を塞いで叫ぶ。何も聞かない、何もしない。いやいやと首を左右に振るたびに、綺麗に整っていた髪がバサバサと揺れて、ますます乱れていく。彼女の黒曜石の双眸からはとめどなく涙がこぼれていく。
「帝、私たち、こうなるためにあの時出会ったの?」
「……ああ」
 帝は答える。
「最初から、知っていたの?」
「ああ」
 奏の問いに一定の口調で唯一つの答えを紡いでいく。
「知っていて、私を守ってくれていたの?」
「ああ」
「酷いっ!!」
 理不尽なことを口走っていることぐらい、混乱の境地にいる奏にも分かる。だけど叫ばずにはいられない言葉、抑えきれない思いをコントロールする術を彼女は知らない。それを見た帝はどこか困ったかのように微笑んでしまう。
「奏、泣くな」
「泣かせてるのは誰よっ!」
「……すまない」
「謝らないでっ」
 一方的な子どもの喧嘩、と言っても過言ではなかった。ただどうすることも出来なくて、真実があまりにも残酷すぎて奏は全てを受け入れることを拒絶している。それにも関わらず、帝は甘く柔らかに彼女に言葉を投げかけた。
「一瞬で、全てが終わる。大丈夫だ、怖くない」
「怖くない? 馬鹿なこと言わないで!」
 奏は必死で彼に向かって叫んだ。
「私はあなたを失うことが一番怖いのにっ」
 それは彼女の紡いだ真実であり、真理であった。


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