07.望めない未来

 都会には無駄に鴉が多い。ゴミを漁るカラスなどは、醜い以外の何物でもないが、人に飼われ訓練を受け、手入れをされた鴉はすぐに分かるものである。
「ただいまー」
「お帰り」
 奏が帰ってくると、帝はすぐに玄関まで彼女を迎えに行く。そして、そのまま彼女を抱きしめるのだが、時々それを奏が拒むことがあるのだ。
「……奏」
「そ、何か襲ってきたからやっちゃった」
 そういって微笑む彼女は、常人には見えない返り血を浴びているのだ。空気に触れ乾き、限りなく黒に近い液体を全身に浴びている奏は不快そうに顔をゆがめていた。
「私の事を知っていて喧嘩ふっかけてくるのよ! 襲ってこなけりゃ、何もしないでやったのに」
 ブツブツといいながら、行儀悪く彼女は制服を脱いでいく。気持ち悪さのせいで、脱衣所までその服を身にまとっているさえ嫌だというのが帝にも伝わってくる。
 常人には見えない汚れを負った制服を脱いでいくと、新雪のように美しい奏の肌が露になる。それを帝は脱ぎ捨てられた制服を拾いながら視界にとどめる。肌の白さと髪の黒さのコントラストが帝の瞳に眩しく映った。
「友達が一緒だったから、うっかり庇っちゃった」
「怪我は?」
「するわけないじゃん。雑魚相手に」
 にっこりと笑う奏の笑顔は、純粋に、とても綺麗だった。既に、上半身は下着だけとなった頃、風呂場に到着する。
「帝出て行ってよ。お風呂入るから」
 今更ながら、少しだけ恥ずかしそうにそういう奏を見て、帝が小さく笑うと彼女の額に口付けた。
「今更だろう。それに、お前の脱ぎ散らかした服を拾い集めて、洗濯機に入れなきゃならないからここに来たんだ。私を最初から嫌がるなら、自分で全部やれ」
「そーゆーこという? だって、鬼の体液ついた服なんて、一分一秒でも着てたくないよ。気持ち悪いっ」
 あからさまに嫌そうな顔をする奏の頭をそっと、宥めるように撫でた後帝は、脱衣場にある洗濯機に制服を入れてそのまま風呂場を出た。表情を、彼女に見せたくなかったから。
「あ、帝。タオル持ってきておいて!!」
「ああ、わかった」
 帝は、彼女の言われたとおりにタオルを準備し、シャワーの音が耳に入る脱衣所へとそれを持っていった。この時告げればよかったのか、それとも先ほど告げればよかったのか。彼は今タイミングを計りかねていた。
 引かれた矢は離れるしかない。それは初めて出会った時からすでに決まっていたことだった。
 奏が戻る少し前に、一羽の鴉がベランダで鳴いていた。それは、都会の鴉とは明らかに違う輝きを持った生き物だった。早く来いと催促するように鳴く鴉。それは、神宮寺の人間が何かあったときに文を飛ばすためにと飼われているものだった。
 それすら仮初の命を与えられているものか帝にはわからなかったが、窓を開けると鴉はバサバサとその場で飛んでみて、足にくくりつけられている文を彼に見せた。鴉を傷つけないように、その文を取ると、帝は鴉を自らの手に乗せる。
「ご苦労だったな。時雨殿によろしく伝えてくれ」
 そういうと、鴉は一鳴きして、再びその漆黒の翼を広げて羽ばたいていってしまう。彼がいた証は、ベランダに落ちた数枚の羽だった。手紙を見る前にそれを拾い上げ、帝はそれを砂のように消してしまう。奏に見つけさせたくない気持ちが優先させてやってしまった無意識の動作。
 それに苦笑しながら、帝は文を広げそれを目に通した。そして、口元に笑みを浮かべた。
「……とうとう、か」
 ぐしゃりと砂色の髪を掻き揚げて笑みを浮かべる帝を、人は見ぼれてしまうかもしれない。しかし、彼の今浮かべている笑みは決して喜びを表現する笑みではなかった。
「時は、満ちてしまった」
 ポツリと呟いた言葉。もし赦されるなら、まだ猶予を頂きたいと、神宮寺の当代に言ったら聞き入れてくれるかもしれない。しかし、いつかは来る決定的な別離。早くなるか、遅くなるかそれはわからないが、それでも確実に訪れるそれの速さに帝は苦笑する。
 伝えなければならない真実を、どう伝えれば無垢な少女を傷つけずに済むか。今彼の考えるのはそれだけだった。



 時を遡ること二日。
 その世界は月明かりと、ホタルの光のみが照らしていた。その明かりが、深紅に咲く曼珠沙華を照らしていた。草の中で鳴く、無視の声だけが周囲に響き渡り、それは何を語るのかだれもわからなかった。
 しゅる、と衣擦れの音がその世界に生まれる。一歩、一歩歩く音もまた、それにあわせて響く。
 神宮寺の家の離れ。そこは格子などで厳重に仕切り、外へ出られないようにしてある場所がある。それはいわゆる座敷牢と呼ばれるものだった。人気のない場所には、大袈裟なまでな鍵がかかっており、それを外すとギギギという立て付けの悪そうな音を立てながらそれは開かれた。
 その先にはさらに格子があり、また鍵がかかっている。全てを拒絶される隔絶された空間の中に、一人の女性が正座をして静かに座っていた。紺紫が地になっている着物。濃い地色に、肩、袖、裾におさえた箔使いの格調ある古典文様として水を横長の渦巻きのように表した能楽の流派のひとつ、観世水文に構成し、その上に橋文様としての短冊の中に春秋の花々を描き実に鮮やかに自然風景の流れを染め付けてある色も、白、白茶、ピンクなど淡い色調でおさえてある。一目でも上等と分かる着物を着込んだ女性。
 長い長い手入れのされた艶やかに輝く漆色の髪。ただ真っ直ぐに天井近くに作られた窓を見据えている女性は、遠目から見るとどことなく、奏に似た者を感じられる容貌だった。
「聖(ひじり)」
 声をかけたのは、時雨だった。六十に近い齢を重ねているのにもかかわらず、彼女のまとう凛とした雰囲気は、恐らく二十代の頃から変わっていないだろう。ただ、その髪には白髪が交じり、顔には年齢相応の皺が刻まれている。白髪交じりの髪をきっちりと結い上げ、彼女のまとう着物もまた上等なものである。濃い目の紺色が地となる、風情がある着物である。それを着込んだ時雨は、格子の中に凛と咲く一厘の花のごとくの女性にもう一度声をかけた。
「聖」
「……お母様」
「久しぶりね、聖」
「ええ、とても」
 それは静に始められた会話だった。聖、と呼ばれた女性は、時雨を母と呼ぶ。その表情はどこか憔悴しきった笑顔だった。
「奏が千と一の鬼と出会い、その処遇を決めて、八年。あと数ヶ月たてば約束の九年になるわ。あれから十年ね」
「十年」
 聖はその年を復唱した。年という音の響きを、彼女はいとおしむように紡ぐ。
「もう十年も過ぎようとしているのですね」
「ええ、また十年も過ぎようとしているのよ」
 二人は静かに会話する。
「……お母様」
 ゆっくりと、聖は時雨の方を向いた。髪の毛を一筋も乱さず、ただゆっくりと、彼女は時雨の方に視線を向ける。日本人特有の、その髪と同じ瞳一杯に透明な雫を溜めて、彼女は再び言葉を紡いだ。
「伐鬼は、呪われています」
「知っているわ」
 時雨の静かな答えに、耐え切れないと言わんばかりに聖は涙を流した。
「幼い頃、私は父の顔も知らず、母のぬくもりも知らず、とても悲しかった」
 彼女は言葉を紡ぎ続ける。
「でも、今ならお母様。あなたの気持ちが分かる。あなたが、私を恨んでいらっしゃることも、憎く思っていらっしゃることもすべて理解できます」
 その告げられた言葉に、時雨は慈母の笑みを浮かべるしか出来ない。
「愛しいと思えば思うほど、憎しみと怨みは増すもの。それは十年経とうが、二十年経とうが、ましてや四十年と言う長い歳月が流れれようが消えることはありません」
 それは絶望を告げる言葉だということを、時雨は理解していた。自分の腹を痛めて産んだ子だというのにもかかわらず、自分は何と残酷な言葉を吐くのだろうかと自嘲の笑みを浮かべそうになるがそれは彼女は決してやってはいけないことであった。
 それは、彼女たちにとって最も愛したものへの贖罪である。後悔していない、愛の証だった。
「貴女は、私から『牙(きば)』を奪った」
 時雨は言う。
「あの子は、私から『剣(つるぎ)』を奪った」
 聖も呟く。
「……そしてあの子は、『帝』を奪われるのです」
 そう彼女が最後に言うと、聖は思わず顔を両手で覆ってしまった。
「ごめんなさい、お母様っ」
「ええ、貴女を産むぐらいなら、私は牙と一緒にこの命を断ち切りたかった」
「ごめんなさい、お母様っ」
 繰り返される言葉に両目からとめどなく涙を流しながら聖は彼女に謝罪をする。繰り返し、繰り返し。
 すると時雨はまた微笑んで見せた。
「私も、貴女と同じように、私の母に謝ったものだわ」
「……」
「謝罪は望みません。そして受け入れもしません。なぜなら、謝ってもらったところで私の牙は帰ってきませんから」
 ヒュッと聖の喉が鳴る。これ以上彼女は言葉を唇に乗せることが出来なかった。ただ、その場に泣き崩れることしか出来なかった。彼女はこの十年間、どれほど泣いたのだろうか。それでも涙は枯れることはなかった。それは今も同じである。
 小さく虫のなく音と、か細くなく聖の泣く声。その中で聖一人の声が凛として響き渡る。
「伐鬼は呪われているわ」
 それは真実だった。
「愛して、愛して、愛しているからこそ。どれほどの月日が流れても色褪せることなく愛し続けていられるほど、彼を愛しているからこそ。憎くて、憎くて仕方がない」
 どこか遠い所を見つめながら、直立不動のまま一拍間を置いてから時雨は言った。
「明日、明後日にも、奏がこの屋敷に戻ってきます」
 聖は、嗚咽を堪えて泣くことを止めて、顔を覆っていた白魚のような手をどけて再び時雨を凝視した。そこにゆっくりと浮かび上がってきたのは冷たさと暖かさを含んだ歪んだ笑みだった。
「奏が帰ってくるの?」
 それは乙女が愛しい人の名を呼ぶような声。しかし、その中は愛しさと憎しみが同じだけ含まれている、何ともいえない響きを含んでいものであった。彼女の紡いだ名は奏という名通して、別の名を呼ぶ声でもある。それが時雨にも感じ取られたが、何も言わない。彼女はただ言葉を続けるだけであった。。
「ええ、帰ってくるわ。傀儡の術を完成させます」
 その言葉と同時に、聖は立ち上がり、その勢いのまま格子を両手で掴み、髪を乱しながら精一杯の声で時雨に叫んだ。
「お母様! 奏に会わせて!」
 縋りつくような、懇願するような声。しかしそれを時雨は冷たく跳ね除けた。
「いけません」
「なぜ?!」
「貴女の考えていることを当ててあげましょう。貴女はあの子を止めるつもりですね?」
「それがなぜいけないのですか!?」
 聖は必死の形相で叫ぶが、時雨にとっては暖簾に腕押し以外の何物でもない。
「あれは、貴女の次にこの神宮寺の家を継ぐ伐鬼です。この儀式を止める訳にはいきません」
 それは聖が、今まで時雨の声を聞いた中で一番冷たい声だったかもしれない。
「貴女程度が、この呪われた儀式を止められるとうぬぼれるのも大概にしなさい。分をわきまえぬ発言は、この家では身を滅ぼしますよ」
「お母様!!!」
 悲鳴に近い聖の訴えさえ、彼女には届かない。
「これは、神宮寺の当主としての命令です。聖、お引きなさい」
 その冷たい声に、聖はビクリと肩を動かし、悔しそうに時雨を見つめた。
「貴女に、こんな役をさせるわけにはいきませんよ」
 僅かに差し込む月明かりを浴びた時雨の顔は、決意に満ちていた。
「……え?」
 彼女自身にだけ聞こえる程度に呟かれた言葉だったはずにもかかわらず、聖はその言葉を聞き逃せず捕らえてしまい、思わず疑問の声をあげる。しかし、時雨はそれに答えない。
「また後で来ます。努々、馬鹿なことは考えないようにしなさい」
「お母様っ!!!」
 時雨はそういうと、離れの扉を開けて外へと出て行った。その鼓膜には、聖の悲痛な叫び声が纏わりついて離れない。制止の声にこたえることも出来ず、彼女はもと来た道をゆっくりと帰っていった。
 その表情は悲痛を押し殺した顔。
 彼女は思う。
 あるいは、奏がこの家に生まれてこなかったら、このような凄惨な現実を目の当たりにしなくても良かったのではないかと。過程の話などしたところで、現実が変わるはずもないのにと、彼女はため息を漏らさずにはいられなかった。
 早く帰っておいでなさい、という気持ちと、今すぐお逃げなさいという気持ちが交錯する中、時雨は何気なしに曼珠沙華に視線をやっていたのだった。


BACKMENUNEXT



SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送