04.涅槃


 歳月は流れ、流れる。止まることなく、止まってくれる事はなく。必然と言う悠久の道をとめどなく流れる。奏が十の年より、さらに八年の月日が流れた。彼女も齢十と八を数え、人間離れしていた美貌には磨きがかかっていた。
 最高級の絹糸を思わせる細く滑らかな髪は、常しえの闇を吸い込んだかのような色をしているのに、不思議な艶やかさがある。肌は日本人とは思えないほど透き通った、新雪のような白であり、すらりと伸びた肢体には、年齢相応の丸みを帯びていた。どこか人と違う雰囲気を纏う彼女であったが、近寄りがたさは彼女の明るい性格のお陰で、彼女の周りにはいつも人が居て、そして笑い声に満ちていた。
「奏、今日暇? アイス食べに行こうよ!」
「ごめん、今日は買い物に行く約束してるから……」
「あ〜、そうなんだ。じゃぁまた今度! 埋め合わせしてよ?」
「うん、絶対」
 都心にある、どこにでもあるような高校の放課後の一室は、雑然とした雰囲気が漂っていた。その中の一角を奏も担う。彼女は小学校を卒業すると同時に、人里離れた家を出て、都心で一人暮らし……否、二人暮しをしているのだ。
 奏の実家のある辺りは、伐鬼の力が影響しているせいもあり、その数も少ないのだが、都心部に近づけば近づくほど、混沌が深まり“鬼”の両と力が増していくのである。それを伐する為、より力を高めるために東京という世界に身を置く事になったのだ。しかし、いくら最強の伐鬼とはいえ当時十二歳を数えたばかりの少女をたった一人で暮らしをさせるわけにはいかない。故に、彼女は帝と共に暮らしているのだった。
 八年前、傀儡の禁術を用いて世に肉体を蘇らせた彼は、奏を守る存在として、片時も離れることなく、彼女の傍らで彼女の生活も戦いも全ての面で共にあり、彼女を支えているのだ。一般には年齢の離れた親戚と称してるが、その関係はそれ以上に深く強い。
「じゃぁ、待たせてるから行くね」
「うん。また明日ね!」
「うん、また明日」
 友人達と言葉を交わして、彼女達は道を別った。奏は『また明日』という戦いに身を置く物として、一番遠くにある言葉を完璧な笑顔で言って、鞄を手に持ち教室をあとにした。ざわめく廊下を自然とはや歩きで学友に別れを告げながら門へと急いだ。下校中の生徒が多い中、正門の脇のほうで邪魔にならないようにひとりの男が立っていた。砂色の肩に付くかつかないかの髪を風に遊ばせ、閉じられた双眸からは表情はわからないが、通った鼻筋にすっと伸びた背筋に纏う雰囲気は否応なしに一目を引く。
 しかし、三年目ともなると彼がその場所で彼女を待っていないほうが不自然であるかのように、おそらく彼女と同学年生徒達は思っているだろう。奏は彼の姿を視認するとパッとその表情を輝かせる。
「帝!」
 さして遠くない場所から、鈴の鳴るような声が彼の耳にもハッキリと届く。
「おかえり、奏」
 彼女の為に開かれた藍色の瞳が、彼女の姿をしっかりと捕らえ、万感の思いが込められているように甘い響く、彼の声が空気に伝わり奏まで届く。その声に自然と口元が緩む事を感じながら小走りで彼に近づいた。駆け寄ってきた奏の鞄を当然のように持ちながら、帝は当然のように答えた。普通の一般人が帝を見れば、顔立ちの整った美青年と美少女が中睦まじく歩いているように見えるだろうが、二人の関係は恋人同士では決して無い。
 愛情が無い、と言えば嘘になるが二人は主と従である。帝の躯は禁術で構成されており、その一部には主である奏の血液が使われている。それが“鬼”として現世に留まる者と伐鬼との間に交わされた、血の契約なのである。これは伐鬼からでも“鬼”からでも破棄できる物なのだが、契約の代償は破棄を宣言した者の命なのだ。相互の理解は必要ない。魂の解放は常に一つの方法しか用意されていないのだ。
 この時、奏はこの術の意味を理解していなかった。契約破棄の代償など、どちらも払う必要がないものと確信していたからである。

 夕方も近くなってきたショッピングモール内は、夕食の買い物をしに来る主婦や、学校帰りの学生などの姿も多く、学内とはまた違う賑わいを見せていた。
「お肉買ったー、玉葱買ったー、パンはまだ家にあるしー、ジャガイモもあるしー……こんなもん?」
 ビニール袋をガザガザと漁りながら、奏が紺色のスカートを翻しながら身体を彼のほうに向け、彼を見上げて言った。
「今日は何だ?」
「ハンバーグ。昨日は鯖の味噌煮作ってくれたから今日は洋風でいこうと思って」
 満面の笑みを浮べる奏からまた当然のように荷物を奪うと、彼は浅く笑った。
「食事の支度ぐらい私がやると言っているのに」
「いい。昨日は帝だっだでしょ? 今日はあたしの番だよ。まぁ、帝ほどうまく作れないけど」
「いや、お前の作るものは何でも旨い」
 当の奏は酸欠の金魚のように口をパクパク動かしながら、顔を真っ赤にしている。それを彼は面白そうに見つめていた。
「もう、からかうのは止めて!」
「からかってなどいるものか。私は常に本当のことしか言わない」
 口元の笑みを深めながら彼がそういうと、奏は売れたトマトよりも顔を真っ赤に赤く染め、身長が二十センチ以上の男性にきゃんきゃんと叫ぶ奏を彼は微笑ましく見守っていた。それはあまりにも優しげな空気を醸し出していて、二人は儚い幸せにまどろんでいた。長く続かないものとは知っていても、今この瞬間の幸せにまどろむ権利はあるはずである。
 
 ……案の定この平和な空気は長くは続かなかった。微笑みあっていた次の瞬間、帝は奏の華奢な身体を己の身に引き寄せた。そしてそのまま覆いかぶさるように彼女を抱きしめる。奏がぬくもりを感じるよりも先に、一瞬前まで彼女が居た場所に風よりも早い何かが通り抜ける気配が感じられた。
「キャアッ!」
「うわぁ!」
 その次の瞬間には周囲に居た人々が驚きの悲鳴を上げる。そして所々に何か鋭利な刃物で切りつけられたような後がはっきりと残っていた。それは恐怖と言う名の波に乗ってフロア中を駆け抜けて行った。人々の悲鳴と絶叫に包まれる。そのような中、奏と帝だけはまるで異世界にいるかのようい彼らを冷静に見定めていた。
「……今のは……」
「ありがとう、帝。助かったよ」
 帝が何かを言いかけた時、彼の腕に抱いていた奏は、先刻まで年齢相応の纏っていた雰囲気からガラリと変わっていた。漆黒の瞳は、暗に離せと彼に命じる。それに彼は無言で従い、すっと彼女を話した。
「奏、怪我は?」
「無い。帝も無いわね?」
「ああ」
 そう言いながら、奏は混乱渦巻くフロア内にただ一人、凛然と立ち、何かに断ち切られたものの断面図を細く白い自らの指で撫ぜる。
「帝」
 ニ、三度それを撫でると、奏はハッキリとした澄んだ声で彼の名を呼び、そして続けた。
「行くわよ」
 それは合図
「……御意」
 さらりと奏の金漆色の髪がなびいた。その横に当然のように帝が並び立つ。彼女の口元が妖艶に歪み、それを横から見ていた帝は魅入られる。奏は帝にとって最も美しく、最も強い存在なのだ。それを改めて彼はこの瞬間感じざるを得ない。普段の人間相応の奏も奏であるが、今この瞬間の彼女がもっとも輝いて見えるのが不思議である。二人は車を止めてある駐車場への歩みを進めた。帝の手にもたれるビニール袋がガサリと耳に障る事を奏でているが、それはまるで二人にとってはない存在のような物だった。

 駐車場にはまるで人気がなく、カツンカツンと二人分のかかとの音だけが響き渡る。薄暗い灰色の世界には、二人だけしか存在していないようだった。しかしその音が、不意に止む。
「いつまで闇に紛れているつもり? いい加減姿を現したらどう? “鬼”よ。来ないならこちらから行ってもいいのよ?」
 振り返りもせず、彼女は何もない空間に言い放った。奏と帝の背後で空気が大きく、まるで陽炎のよう揺れる。その空気の揺れ幅がちいさくなってくると、そこから異型の物が現れる。肌は浅黒く、口は耳まで裂け、爪は長く、一見して鋭い。もはや“人”とはいえないその異形の物は、裂けた口から除く鋭利な歯輝かせていた。
「お前はオレの姿が見えるんだなぁ」
 狂気を孕んだくぐもった声は、人の聴覚には聞き取りにくい。
「オレの姿が見える連中はある程度“力”があるってこったぁ。運がいいぜ、他の“鬼”を食うよりも人間の方が楽だしな」
 じゅるりという耳障りな水温を発しながら、意表のものはひたりひたりと二人の後姿に近づいていく。
「しかも女とはな……。ついてるぜ、食うなら女に限る。生きながら、嬲り殺す。生きたまま食う」
 醜く歪んだ笑みを浮べながら、『それ』は奏に手を伸ばしたが、その手は彼女に届く事はなかった。
「奏に触れるな」
 鬼の伸ばした手を掴んだのは帝の手である。偉業のものの手首をギチっと掴み、握りつぶさん強さのまま彼は無言で“鬼”を睨みつける。
「いいよ、帝、別に」
「この程度の物、お前の手を煩わせるまでもない」
 くるりと異形の物に向かって二人同時に体を向けた。二人の双眸は昏く冷たい。
「お前等……」
 自らの姿を見せても何の反応も見せない二人組みに、異形の物……“鬼”はようやく己が優位に立っているわけではないことに僅かながらに気付いてきた様子だった。表情に焦りと苛立ちの両方の色が映る。そんな“鬼”を冷ややかに見つめて彼女は妖艶に微笑んだ。
「愚かな“鬼”ね。私の姿と私の名、そして彼を知らない何て」
 刹那の間あと、浅黒い鬼の顔色がにわかに変わり、表情が豹変した。
「伐鬼っ!」
「気付くのが遅いな」
 悲鳴のように真実を叫んだ鬼に、間髪をいれず帝が冷たい言葉を言い放った。真実を知った鬼は必死に逃げようとするが、きつく掴まれた帝の手は離されることなく、ならばその手を落とそうと考えた“鬼”は彼に攻撃を仕掛けるが、彼は素早く彼の腕を取り、そのまま地面に押し付けた。
「残念だったな、“鬼”よ。お前が奏の前に姿を現したのが悪い」
 無慈悲にそういいきる帝の手は揺るがない。
「クソッ!」
「諦めなさい。悪しき物は滅されよ。堕ちた己の身を呪いながら」
 奏は悲鳴をあげ、死ぬ事を、消される事を拒む“鬼”の前に膝をつき、その白い指先をそっとそれの額に当てた。僅かな光の粒子が奏の指先に集まっていく。薄っすらと浮かぶ奏の笑みと、それを無表情に見つめる帝と、見苦しく命乞いをする“鬼”。奏にとってはこれは神聖な儀式なのだ。“鬼”の鬼たる力を浄化し、滅する為の力を駆使し、悪の権化たる“鬼”を滅する。
 彼女の指に集まった光は、一条の光となって“鬼”の頭を貫いた。次の瞬間に、“鬼”の目から光が消え、幻影のような形が消え、砂へと還っていく。
 そのとき、ダイヤモンドダストのように宙に散乱する物がある。それはまるで闇色の霧。それを、酸素を肺に送り込むように奏は吸収していった。“鬼”が滅せられると、“鬼”の力だけがその場に残る。
 罪の肉体が滅び行き場を失くした“鬼”の力は、そのうち霧散してしまうが、奏はそれを己の力へすべく、自らの肉体に取り込むのだった。負の感情は、砂と共に消えてなくなる。残ったのは、純粋な魂の力。それを胎内に取り込むことで、伐鬼の『破の力』は増していくといわれている。
 “鬼”の穢れた力など、と昔は奏も思っていた。しかし、 『破の力』の絶対量は決まっている。その絶対量以上の力を得ようとすれば、何かから吸収しなければならない。不浄を浄に変える力がある伐鬼だからこそ出来る技だと不承不承ながらもこれを行っていた。

 “鬼”にも意思がある。改心する事が出来るかもしれない
 彼女はそんなことを微塵も思わない。幼い頃垣間見た帝だけが、彼女の中では特別で、他の“鬼”は現世に留まる事を許されない存在なのである。
「闇はあるべき元に還れ、そし二度と現に戻ってくるな」
 冷たくそう言った時には、もう“鬼”の姿はそこになかった。そこにあるのは浅黒い身体に纏っていた衣服だけと、“鬼”がそこに存在していたと言う証のように残った、倒れたままの形であとに残った鬼の影であった。常闇色の空気を纏った奏がゆらりと立ち上がる。
「……大丈夫か?」
「うん、平気。いつものことじゃない」
「まぁ……な」
 徐々にその闇を身体の中に取り入れながら、奏は目を瞑ってその『力』を浄化していく。神秘的な姿ではある。薄っすらと闇色の影の外側に薄く黄金の輝きを纏う奏での姿は美しい。
「じゃぁ、もう結界を解いてもいいよね。終わったし」
「いや、私達の車に戻るまではこのままでいよう。お前のその姿は人目に付く」
「他の人には見えないわ」
 奏は漆黒の瞳で帝を認めながら、そういうと彼は目を細めて彼女に言った。
「お前のその姿を万が一にも見えるものがいたらどうする?」
「あー……それは困るかも」
「ああ、お前のその姿を見れるのはもったいなからな」
 一瞬の間の後、それを理解した奏の白磁器の肌に朱が走り、見る見るうちに赤く染まっていく。その姿をクツクツと低く喉で笑いながら帝は彼女の先を歩いた。奏は一瞬呆けた後、彼の後姿を追いかけた。
「帝の馬鹿!」
「そうか?」
「バカバカ!」
 そういいながら、彼女はするりと、闇と光を纏った腕を彼の腕に絡めた。ゆっくりゆっくり、その二つの不可思議なものは彼の身体にも映っていく。
「……いいのか?」
「うん、最近帝、“鬼”を滅してなかったから。少しお裾分け」
「しかし、お前の得る力が減るぞ?」
「帝にあげるならいいよ。気にならないもん」
 滅した“鬼”の力を自らの力に取り込んでしまう奏、それは伐鬼と契約を交わした“鬼”である帝も同様である。元々力がある帝だが、そうすることでさらなる力を得ることが出来るが、彼はそれをあまりしない。奏が力を得るための妨げになることを知っているからである。しかし奏は帝に己と同等以上の力を持たせようとしているのだ。それを知っていても、帝はそれをしない。望まない。
 
 力を欲するもの、望まぬもの 笑顔と笑顔に隠された真実。 彼は語らないし、彼女も知らないままでまだ、時を過ごす。


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