03.曝せない想い


 時雨との話も終わり、彼女に指示された部屋の障子を帝が音もなくひき開けると、二十畳ほどの広さを誇る部屋にでた。その中心には奏が帝に背を向ける形で座していた。
「話は終わったの?」
「ああ」
「……何を話していたか、聞いてもいい?」
 帝のほうを、扉に背を向ける体制のままで、彼女は静かに問う。彼女は答えを望んでいなかった。ただ、彼と祖母の間に何も無かったらそれでいい、と純粋に思っているだけ。この問いはさして意味を持っていない。それを瞬時に見抜いた帝は浅く笑って言葉を紡いだ。
「明日の夜、傀儡の術を行うと、その話をしてきた。私にその覚悟があるのか、とあの者は問うてきた」
「傀儡の術を!?」
 思わず奏は身を翻し、帝の深い藍色の瞳を見つめた。
「私に何を躊躇えというのか、あの者は。なぁ?」
「え? え? 本当なの!?」
「嘘を付いてどうする。日付の変わる頃合から初め、日の出る頃に肉体が生まれると言う。奏も手を貸してくれ」
「うん! 当然でしょ!!」
 奏は嬉しそうに無邪気に笑って言った。その姿に翳りは一片も無い。奏は、帝の手を引いて、広大な日本庭園のような庭へ降りた。その表情はひたすら明るい。恐らくこの伐鬼は、この日本最古にして最強の伐鬼の一族“神宮寺”の次期頭首は、禁術の本当の意味を知らないのかもしれない。
 “鬼”という存在は魂だけの存在である。魂を守るべき肉体は滅びている、魂がむき出しにされた状態であり、視覚としてとらえるのは魂の記憶から作られた幻の姿である。それには普通触れる事は出来ないのだ。魂と肉体では構成している全てが違うため、肉体を持つものが水を掴めないかの如く、人は“鬼”に触れられない。逆に“鬼”は人に関与する事が出来る。肉体と魂のレベルとしてはどんなに穢れていようと魂の方が上なのだ。故に“鬼”は人に関与する。己の恨みを晴らす為に。
 人の目に映らない“鬼”を、ただでさえ触れられない彼らを滅する事など出来ない。それが出来るのは“鬼”を見、触れる事を使命とし、肉体と魂のレベルの差異を掻き消すこと『力』がある、人の世の希少種と言っても過言ではない『伐鬼』だけである。相対し、決して交わる事の無い両者が今、時を同じくし、対等に立ち微笑みあっているなど、他の魑魅魍魎の如く存在している“鬼”たちが見たらどう反応するのだろうか。
「でも、帝に人の体が出来ちゃうと、皆見えるようになっちゃうんだよね」
「そうなるな」
「ん〜……ちょっとね、複雑なの」
 庭園の道を歩きながら、彼女は拗ねたような声で言葉を紡いだ。
「……折角あたしが見つけてきた帝なんだもん」
 これ以上、奏は言わず、ふちと顔を逸らした。奏のこれは、例えば熊のぬいぐるみを独り占めしたいという幼い感情に似ている。自分の物を他人に触らせる事をされたくないと言うささやかな独占欲。小さな少女の小さな胸にもそんなものが生まれるのか、と帝は小さく笑った。
「……今、笑ったでしょ、帝……」
「ああ、愛らしいな、と思ってな」
 微笑ましい少女。彼女と同じように誰かを慈しみ、愛した記憶が彼にもあった。しかし、彼女のような可愛らしいものではなかったとハッキリいえる。もっと地を這うようなどろどろとした穢れた想いだった。
「帝は、こんな馬鹿げた事を言うあたしのことはきらい?」
 恥じらいがあるのか、頬を薄っすら桃色に染め、上目遣いにそう呟く奏の頭を彼は、そっと撫でた。
「嫌う訳なかろう。なぜ、そう思う?」
「……本当?」
「ああ」
 不安げに響く、鈴の音のように美しい奏の言葉。何か、帝に嫌われるということ以外でも何か不安があると思わずに入られなくなるほど、少女の言葉は不安に彩られていた。
「お前を嫌える人間は少ない。私だけでなく、皆そう思っている」
 彼は出会ってまだ短い時間しか経っていない少女に、語調を強めて言うと、彼女は顔を伏した。
「……うん。おばあさまも、お屋敷の皆も大好きだし、優しくしてくれるし。あたしのこと好きって言ってくれるよ? でも……でもね、帝……あたしね」
 言葉を濁しながら、奏は初めて彼に翳りを落とした表情を見せながら呟いた。
「あたし、父上の顔を知らないの」
「……そうか」
「……あたし、お母様にきらわれてるの……」
 黒曜石を称えた美しい瞳が歪み、奏の双眸から大きな雫が次から次へと零れ落ちた。帝は彼女の視線の高さまで屈み、その涙を拭いながら言葉を続ける。
「子を厭う母など居ない」
「本当なの!! あたし、お母様と話した記憶がほとんどないの! 喋った記憶もないし、抱いてもらった記憶も無いの……伐鬼として“鬼”を滅するこの世界に入ってから一度も! お母様が私のこと嫌いじゃなかったら逢ってくれるでしょう!?」
 ポロポロと涙を流しながら、奏は語る。帝は、彼女の告白をただ黙って聞いていた。帝は何も言えず……否、何も言わずに居た。真実を知るにはあまりに幼い奏の心。恐らく、歴代の伐鬼は皆思ってきたであろう子ども故の感情だろう。頭首が没した後、最も力を持つものが継ぎの伐鬼を束ねる長となると言えど、千百余年続く血呪の業。
 その歯車の一端を彼女も、己の身にも担っている事を、この幼すぎる伐鬼は知らない。だからこうして涙を流せるのだろう、と帝は脳裏で思ったが口にはしない。今言うべきことではない、いつか知る事実を語る必要は無いからである。ふと、そのようなことを思っていたとき、屋敷の離れから鋭い矢のように声が飛んできた。
「お黙りなさいっ!」
 その声を聞いて、奏の身体はビクリと反応する。
「先ほどから何です!! 耳障りです、お黙りなさい奏」
 それは凍て付くほどに冷たい女の声だった。
「も、申し訳ありませ……!!」
「あなたの声など聞きたくもありません! 私はここから動けぬ身、故に、すぐにそこから立ち去りなさいっ!!」
 奏は必死に手の甲で涙を拭いながら、もう片手で帝の手を引いた。
「み、かど……。いこぉ……」
「……ああ」
 涙を堪えて、彼の手を引く小さな手を、帝は本当に守りたい、と心のそこから思った。そして同時に、離れに住まう女性に対して殺意に近い思いさえ抱いてしまう。
 それが、奏の愛する母の声と分かっていながら、呪われた血の犠牲者の魂の叫びだと知りながら。
 奏は相手の理不尽な物言いに反論することなく、彼女の言葉に従った。母に好かれようとするのか、母の機嫌をこれ以上害さないためか。隔絶された空間に身を投じ、彼女の目の前にさえ現れず言葉だけで彼女を追い詰める『母』と言う存在。
 弱いものへと当る八つ当たりに近い声に対して、帝は反論する言葉を持ち合わせていないゆえ、離れを睨みつけることしか出来なかった。
「帝まで……、こわい顔、しないで?」
 きゅっと手を握る小さな手に力が入る。押えられない殺気を感じて、奏は一生懸命言葉を紡いでいた。
 母を赦して欲しいとまで語る瞳に見上げられては、帝もこれ以上何も出来ない。
「奏」
 彼は優しく奏の名を呼び、髪を梳く。別の場所に移動してもなお、とめどなく溢れる涙を一生懸命止めようと声を押し殺して泣く奏に彼は言った。
「私はお前をいとおしく思う」
「え?」
 帝の中で泣く幼い奏をまだ魂魄のみの身体で、ただ強く強く抱きしめる。
「お前の父の代わりに、お前の母の変わりにお前をこの手で守り続けると誓おう」
 甘やかに紡がれる言葉は小さいながらも傷ついている彼女の心に優しく響き渡る。子供にとって“親”という存在は絶対であり、子供の狭い箱にはの中では神とも違わぬ存在なのだ。一般論からいけば。
 伐鬼と言う名の箱庭は、それすら許されない。神宮寺とは荘厳華麗な箱庭なのだ。その優美さと繁栄の為だけに幼子の年相応のわがままも、決してまかりなら無い。名声とは裏腹に暗く淀んだ砂上の楼閣。それでも、奏がその世界で生きていくとうのであれば―――……。
「私がお前を護ろう。お前を傷つける全てのものから。父よりも、母よりも、お前を慈しもう。だから泣くな、奏」
「〜〜〜〜っ! 帝ぉ〜っ!!」
 腐食を始めた世界で唯一、奏の涙だけがまだ何物にも染まっていない透明な雫に見えた。いつか染まってしまうであろう、ただただ透明でいる清らかな存在。それがひと時のものだとしても、この瞬間の尊さは何にも変えられない。
「帝っ、帝っ!!」
 小さな、紅葉の手が決して話すまいと彼の衣をきつく掴む。
「約束だからね!」
「ああ」
「私の側にいてね!! 絶対、絶対、離さないでね!!」
「ああ、刻が許す限り」
「約束だからね!!」
 決まった刻の流れの限り、帝は奏を護ると、彼女のものになる時にとうに誓った。愛しい者の血を引き、色濃くその力を引く者を、帝はただ、彼女を抱きしめる。
 ”傀儡の術”の意味さえ知らないこの子どもを時が満ちるまで、全身全霊を込めて守りきろうと、帝は何度目か分からない誓いを胸に刻んだ。それが、彼女の傷になると理解は出来ても、それでも愛しくてやまないこの腕の中の幼い子どもを。
 赦されたときはこの一瞬でさえ止まることなく流れていく。砂時計のように、水の流れのように、淀みなくサラサラと。
 辺りに咲いているのはは伐鬼に対する皮肉のように咲き乱れる深紅の花、曼珠沙華だった。それが目に入った帝は、再び小さく笑みを浮かべた。今度は、自嘲の笑みを。


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