02.仮初の躯


 奏が帝を家に連れて帰ってくることには、もう東の空が白々とし始めていた。多くの人がまだ深い眠りについている事、奏は『一』を手に入れたのだ。
「……ただいま戻りました」
「お帰りなさいませ、奏様」
 門前には、一人の女性が立っており、彼女は奏と、奏の連れて来た『一人』に頭を下げた。そして二人を案内しようと歩み出るが、それをきっぱりと断った奏はそのまま女を下がらせた。
 それは幼さゆえのわがままではなく、明らかな身分さから生じる命令の言葉だった。女は表情一つ変えずに彼女の言に従い後ろに下がり、その姿はやがて朝霧に消える。奏は苦笑しながらも、帝に『行こう』と声をかける。彼は奏の案内の元、彼女の家に脚を踏み入れた。
 神宮寺の家は隠れ家と言うには多少大きすぎる造りをしている。平安中期に建てられた寝殿造りの建造物が、平成の世までほぼ完璧に形を留めているのは一重に、彼らをことの重要視している国の力があるからこそである。
 室内に入り、帝はさらに目を見張る。室内の調度品こそ違えど、そこには確かには、この屋敷の中だけ時間が止まっているかのように思えるような空気が流れていた。
「驚いた?」
「ああ、少しな」
 彼の唇から紡がれた声を、たった一言だけの声を聞く事の出来たかなでは嬉しそうに微笑んだ。
「この家はね、平安時代中期、その御世の天皇陛下が私たちのそのために建てて下さったものなんだよ!」
「……そうなのか」
 帝は嬉々として一族の輝かしい歴史の一部を語るが、それに答える彼の声は抑揚の無いものだった。奏が一歩歩くごとに軋む廊下の音は、歴史を積み重ねた建造物の何よりの証。特有のヒノキの香りは褪せたとはいえ、まだその芳香を放ち、どこからとも無く響き渡る筧の子気味の良い音が、朝霧立ち込める庭の風景が、帝の五感を支配する。
 それはまるでこの空間だけ時間を経過させる術を忘れてしまったような、そんな雰囲気があった。懐かしさと悲しみが同時に押し寄せるこの言いようの無い気持ちを、なんと表現できるだろうか。目の前を進む伐鬼の少女を見つめながら、彼は神殿へ続く道を辿っていった。

 妻戸から音もなくスっとはいり、そのまま彼女はその場に膝を折った。
「時雨様、奏が戻りました」
 凛とした声の響きからは、まだ眼前の少女が十にも満たないコドモである事を人に忘れさせる。彼女のまとう雰囲気は正に伐鬼としてのもの。過去、幾人もの伐鬼を見てきた帝は、その痛いほどに張り詰めている空気を肌で感じていた。
「……奥にお入りなさい。そこの方もお連れして」
 返って来た声は意外な言葉を発していた。奏のそれより遥かに落ち着いた声の主の言葉に、彼女自身も驚いているようだった。一瞬戸惑いの表情を浮かべた奏であったが、すぐに伐鬼としての表情を作り直し、『はい』と返事をした。
 薄明かりの中で、さらりと滑り落ちるように揺れる奏の射日干しの髪が帝に誰かを彷彿とさせた。霧のかかる世界の中で、巫女装束で佇む奏と、同じ色の髪を持った女の姿を……。
「帝、どうしたの?」
 いつまでも一歩を踏み出さない彼に、後ろを振り返った奏が問うた。その表情に浮かんでいる仄かな微笑さえ、かの者を思い出させ、とうに失ったであろう感情の渦が逆巻く。
「何でもない」
「なら行こう。時雨様が呼んでいらっしゃるから」
 そういうと、奏は時雨、の元へと歩みを進めた。それに帝も習う。
 室内は灯台からの一つの灯だけであり、夜明け前の明かりとしては少々不足しているのでは、と人は感じるものだった。奏と帝が入ってくることで空気が揺れて、ともった炎が小さく踊る。
「ただいま戻りました、おばあさま」
「おかえりなさい、奏」
 彼女はあらかじめ用意されていた円座(わろうだ)に正座すると、改めて高麗縁の畳に座っている小袿姿の妙齢を少し過ぎた風情の女性に頭を下げた。頭を下げている奏を、彼女は慈しみを込めた瞳で見つめた。
「頭を上げなさい」
「……はい」
 そういわれた奏は即座に女性の言葉に従い顔を上げる。奏の真横に座っている帝は、彼女の表情が強張っているのが見て取れた。女性は何も言わない、奏も何も言わない。
 母屋を支配している静寂に終焉が来ないのではないかと、その静けさ故に妙な錯覚を彼は覚えたほど。この空間に今あり音とすれば、灯台に燃ゆる火の音だけである。
「おばあさま」
「なぁに?」
 沈黙を破ったのは奏だった。決死の表情の奏に対して、彼女の表情は余裕の表情で孫娘の言葉を待った。奏は正座した膝の上で拳を握って言葉を紡ぐ。
「私は今日でおばあさまに言われたとおり、千と一の“鬼”と出会い、千の“鬼”を滅しました」
「そう、よくやったわね」
 朗らかに微笑む時雨の表情からは、感情が読み取れない。それを不安に思いながらもその不安に飲み込まれないように口を開いた。
「そして、一の処遇を決めました」
 キュっと布を握り締める音が三人の耳に届いた。しかし、彼女は何も答えない。幾許かの間を置いた後、時雨と呼ばれた女の、引き結ばれていた唇が動く。
「……それが、貴方の“鬼”ね」
「え?」
 これから『帝は私の“鬼”になった』という旨を伝えようとした奏は、時雨に言葉を取られた事になり、続ける言葉を失った奏は鳩が豆鉄砲を喰らったような表情になって、ただ瞬きを繰り返した。
 そんな彼女の行動を見て、女性はただ柔かく微笑み、すっと三つ指を合わせ帝に向かって頭を下げた。
「お初にお目にかかります。私の名は時雨。千年以上の時を流れる神宮寺家の当代、そして奏の実の祖母でございます。どうぞお見知りおきを」
 その動作には一歳の無駄が無く、すっと上げた彼女の瞳を見たとき、再び帝の脳裏にはあの巫女の影がちらつく。
「……丁寧なお言葉、感謝する」
 帝は不自然な間の後言葉を紡いだ。それは強者に対する媚び諂う姿ではなく、彼があくまで彼女と対等か、それ以上の分があると、聞いているものに思わせる返答だった。途端に奏は青ざめる。
「帝、おばあさまに対して……っ!!」
「奏、静まりなさい」
「っ!!」
 そういわれてしまえばかなでは黙るしかない。不承不承と言う事をありありと表情に浮かべて口を噤み、浮いた身体を沈めた。
「私の名はすでに忘れた。長きに渡りこの世に留まりすぎたのが原因かも知れぬ。ただ一つ、私はかつて“帝”と呼ばれ、生きた。今はもうそのことだけしか覚えていない」
 示す名も無く申し訳ない、と帝はわずかに頭を下げた。砂色をした彼の髪がさらりと落ちる。
「では、帝とお呼びしても?」
「構わない」
 奏は二人の会話を聞いていて気が気ではなかった。神宮寺の頭首は世襲制である。けれどその実力は他の追随を許さない。十歳までどれだけの“鬼”を滅せたか、にかかっている。十歳までに最低千。そしてまた、それ以上……。“鬼”を滅せば滅すほど、伐鬼としての力は増し、年頃同じの人間の中で最も優れたものに与えられる云わば最強の証。
 日本最古の伐鬼の家系である神宮寺の子供が代々最強の伐鬼の名を手に入れている。いくら帝が強い“鬼”と言えども、時雨の逆鱗に触れればただではすまない。それをわかっている奏は今にも泣き出しそうな顔になっていた。それに気がついた帝はの表情のままにいう。
「大丈夫だ。私は既にお前のもの。お前が望まぬ限りなんびとにも私の身を滅させはしない。……例えそれが、最強の伐鬼だとしても、だ」
 はっきりとそう言い放った帝の言葉に、奏は憤りを感じるべきか、喜ぶべきか非常に反応に困った。赤くなって見たり、青くなってみたり忙しい孫娘に、時雨は変わらぬ優しい声をかけた。
「安心なさい。貴方が見極めた“鬼”ですもの。私は滅する事なんてしないわ」
 優雅に笑う彼女の姿を見て、奏は初めて安堵の表情を浮べた。一つ、危機を脱したというのは、恐らくこのことを言うのだろう。
「では、奏。お下がりなさい。私は帝殿にお話がありますから」
「はい、おばあさま」
 奏は何の躊躇いも無く、従順に彼女の言葉に従うと、緋色の長袴の衣擦れの音を響かせながら、その場を後にした。その衣擦れの音が完全に消えるまで、二人の間には痛いぐらいの静謐が漂っていた。その音が完全に聞こえなくなると、時雨は再び口を開いた。
「……貴方には、これから人『傀儡の儀』を受けていただきます」
「この世で使う人の寄り代を作る禁術か」
「その通りです」
 二人の会話は淡々としていた。東の空に光が上り、点の支配権を奪いその陽光が生じの間から漏れてくる。力なき鬼であれば、日のひかりのみで滅してしまう事もある苛烈な聖光であるが、滅されることはまずありえない。
「……帝殿」
「なんだ?」
 途切れた会話を再び始めたのは、他でもない時雨だった。
「貴方は、奏の為に身命を賭す、と誓えますか?」
 それは突然の言葉だった。ふと、彼女がまとっていた柔和な雰囲気が消え去り、―――伐鬼としてともまた違う雰囲気を彼女は身に纏ってそう言った。だが、それに臆する帝ではない。
「何を誓うと言うのだ。言霊それだけで既に力を宿し、それを反故すれば、それが己の身に返るが摂理。何を考えているか知らんが私は貴公に誓いを立てるつもりはない」
 普通の伐鬼ならば、ここで“鬼”風情が何を言うかと鼻息をを荒くして言うところであろうが、時雨はそんな言葉を発する事はなかった。彼女の発した言葉はまさに真逆。
「ありがとうございます、帝殿。私はその言葉を聞く事が出来て満足です」
 そういって浅く微笑した時雨であったが、その表情は直ぐに消える。
「貴方にお話ししなければならない事があります。すべてを、この流れなきよどみきった神宮寺の業を――……」
 千年以上前から続く、血の呪縛は解けることなく現世になお蔓延っている。一筋の涙を時雨は流していた。
「帝殿、奏を頼みます」
 深々と、もう一度頭を下げた時雨が帝に語った言葉は、信じられないものであった。

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