7.優しさに包まれたなら

 その夜のことだった。相変わらず、彼らに対する監視の手が緩む事はなかった。罪人へ射殺すような視線をもって彼らは来訪者を見つめている。その不躾で攻撃的な視線から彼女を守るように、カノンを抱き寄せながら今日も彼らは一つの寝台に横たわっていた。
そして、相手に悟られないように唇を動かし、僅かな音を紡いでいく。
「……大丈夫か?」
「はい、私は」
「無理をさせてると思う。悪い」
「いえ、ルーベ様が謝らないで下さい。謝られる事なんて、何もありませんよ」
 白い布に包まる少女の琥珀色の瞳を見て、ルーベは独り言のように言った。
「結局、お前を巻き込んでるな」
「むしろ私がルーベ様たちを巻き込んでいる気がします」
 苦笑と言うには、あまりにも心のうちに苦いものを含んだ微笑を浮かべるカノンに、ルーベは軽く目を見張った。
「お前が?」
「はい」
 カノンは先ほどの表情のままに言う。
「私は、シェラルフィールドへ来た事が間違いだったのではないでしょうか」
「……どうしてそう思う」
 彼女らしくない弱音に、ルーベは二の次を発するのが遅れてしまった。そんな様子に気づいた風でもなく、彼女は瞳を翳らせながら彼の瞳を見ようとせず、俯いた様子で言った。
「ご迷惑をかけてばかりです。私がここに来てから。しなくて良い争いをされているように思えてなりません」
 弱弱しく呟かれる言葉は、恐らく長い間彼女の胸に燻っていた言葉だろう。
「必要な事だ。全部。遅かれ早かれ起きてたことだろう」
「でも」
「カノンは自分に自信を持たなさ過ぎだ。どうした、急に」
 絹糸のような彼女の柔らかな髪を、そっと梳く。肌触りよく手を滑る髪の感触に遊んでいても、彼女からの答えはなかった。彼女の顔を見るまでもない。答えは明々白々である。
 ルーベは彼女の髪を遊びながら言葉を紡いだ。
「不安、だよな」
「え?」
「オレがこんな顔をしてなければ、お前だって安心していられるだろうにな。悪い」
「ですから、ルーベ様が謝る必要なんてどこにも……!」
彼は、彼女を抱きしめる腕の力を強めた。瞬間、彼女の体が強張ったことを感じたが、それに気づかないふりをして彼女の体をより自分の体へ引き寄せた。
 花のように甘い香りが強くなる。自分より僅かに低い体温が心地よく感じる。抱きしめれば、存在を確認できるようで安心できる。抱き寄せる時に巻き込んだ彼女の手が、そっと彼の麻色の寝着を掴んでいる感触に気づき、それだけで安堵感を覚える。
「オレは、お前がいれば心が安らぐ」
「ルーベ様」
「オレとお前がめぐり合えたのは、四玉の王の思し召しだ」
 どんな楽器だろうと、彼女のような美しい音を奏でることはないだろうとさえ思う。彼は、自分がどこか壊れてしまったのではないかと錯覚に思うほど、腕の中にいる異世界から来た少女をいとおしく思っていた。
 内から湧き上がる感情がいつ生まれたかはわからない。ただ、ずっとずっと待っていた少女に対する思いは初めからあった。それが彼女を守らなければいけないという使命感からだったと、思い込もうとしていたのだ。
「私のせいで、なんて思ってくれるなよ。世界に起こることは世界の必然だ。お前のせいなんて、誰も思っていない」
 これは心からの彼の本音だった。彼女は、来るべくしてこの世界に来た。起こるべき変革は彼女のせいではなく、必然で起こっているのだ。誰が、カノンを責めるというのか。
「カルディナに、何か言われたか?」
「いいえ」
「そうか。ならいい」
 直感的に、カノンがこれほどまでに気落ちするとなれば、気心のしれた誰かにキツイ言葉を投げかけられたのかとも思った彼であったが、嫌な危惧は危惧で終わったようだった。彼女がそうではないといえば、彼が彼の中の真実になる。
 盲目的、と言ってしまえばそれまでかもしれない。しかし、根掘り葉掘り詮索することが全て良し、とは考えられない。
「ルーベ様は、お優しいから」
 僅かに視線をずらせば、自分の胸元に顔を埋めている少女が顔を動かし、視線を上げているのが目に入る。
「そうでもないよ。カノンに見せてないだけだ、そうじゃないところを」
「それだって、ルーベ様のご配慮でしょう。私はあまりにもこの世界に不釣合いですから」
 優しいだけでは成り立たない世界で生きてきた人間と、そうではない人間の差は歴然としている。
「カノンのいた世界は、争いがない世界だったんだろう。仕方ないさ」
「争いが、なかったわけではないです。ただ、私の周りがあまりにも平和すぎただけで」
「平和、か。表向きはこの国も平和だったんだがな」
 カノンを抱きながら、まるで独り言のように彼は呟いた。
「目を瞑ってはいけないところで、目を瞑りすぎていたよ。皇帝の内に秘めた負に気づくきっかけは、多分カノンが来る前からあったんだ。その兆候を、オレは無視してた」
 誰の目から見て国は平和だったのであろうか。誰の目から見て国は豊かだったのだろうか。ルーベの心にいつも黒く渦巻いていた疑問だった。好きで出歩く城下町の活気は年々なくなっていき、奴隷階級がなくなって長い年月が経っているにもかかわらず、完全にその気配は消し去れていない。
 貴族たちは他者から、弱者から搾取することしか考えず贅の限りを尽くし、怠惰な生を味わっている。欺瞞に満ち満ちた世界で、脳みそが溶け出したのはルーベ自身か、皇帝か。
「誰かが、『鍵』が世界に現れたから、皇帝が狂ったと言うかもしれない。それは今まで皇帝の……権力の庇護下にあった連中の戯言だ。そんな言葉に、お前が傷つく必要なんてない」
 ルーベは彼女の耳側で、自分の声を彼女に注いだ。
「カノンの優しさは、この世界に不釣合いだ。その優しさで、お前は傷ついてる」
 そう、いつもそうだった。この腐り始めた世界に起こる事象に巻き込まれ、新たな風を運んでくる少女は傷つく。それでも前に進もうと、ただ真っ直ぐに前を見据える姿は希望以外の何物でもない。
 何かを築くためには、傷がつく。犠牲もある。それを他者へ強いることなく、甘んじて受け入れる彼女は何よりも強い。ともすれば、世界の悲鳴を無視していた自分よりも。
 本当は、彼女に守り手など必要ないのかもしれない。むしろ、カノンに守られているとさえ彼は感じていた。彼女の優しさに包まれ、守られていると思いながらそれでも彼は。
「オレは、お前を守りたい」
 これ以上ないほどのルーベの本音だった。風を閉じ込めておくことなど出来はしない。けれど、傷つかないように、醜いものなどみないように。暖かな場所で、彼女を傷つけない場所で、笑っていて欲しいと彼は思う。
 それを、彼女が望んでいないと知りながら。
「……もう十分です。十分すぎるほど、私は貴方に守られています」
 カノンが僅かに首を振りながら、小鳥のさえずりのようなか細い声で言葉を紡ぐ。しかし、その言葉に秘められた強さは彼女がこの世界にやってきた頃と同じ、真っ直ぐなものだった。
「ルーベ様。私は、ルーベ様が思っているよりも、ずっと丈夫に出来ています。大丈夫です。この程度のことではへこたれません。貴方に呼ばれた『鍵』です、信じてください」
「カノン……」
「暗い顔を、私はしているかもしれません。でも、最後には笑っています。貴方の傍らで。だから大丈夫です。明けない夜はありません」
 彼女の言葉に、彼は浅く笑った。そうだ、と思う。いつも励まそうとすると逆に励まされてしまう。自分の心の弱い部分を彼女は察知して、暖めて守ろうとしてくれるのである。  
それが意図的でないことも、彼は知っていた。だからこそ彼は彼女を愛しく思うのだろう。
「ありがとう、カノン」
 彼は万感の思いを込めて彼女に言った。
「お前がいてくれてよかった」
「私も、ルーベ様のお側にいられることが幸せです」
 これもカノンからの紛れもない本音だった。いっそ愛しいと告げられたどれほど楽だろうか。胸が締め付けられるほど、ふいに涙が出るほど好きだと。どうすれば伝わるだろうか、どれほど今、自分が幸せであるか。愛しいものの腕にだかれ、その温もりに安堵できているか。
 こんなときに、不謹慎とさえ思う。それでもルーベは、カノンは、まるで体が一つになるかのようにお互いの体温を共有していた。混ざり合って一つになれば、離れなくてすむのだろうか、と。お互いがお互いを必要としている事に間違いはなかった。ただ、思いを伝える事に二人は臆病になっていた。
 離したくない、離れたくない。そんな思いが彼らの感情を支配している。死が二人を分かつか、世界が二人が共に歩む事を拒むか。未来は二人にわからなかった。それでも今。今がどんな状況であっても、手を離したくなかった。温もりから離れたくないと切望する。
「カノン」
「はい」
「オレは、お前が……」
 大切な言葉を告げようとする時、ふいに何かに邪魔をされる瞬間があるという。この時、まさにルーベは何者かに妨害された。大抵の事には動じないルーベであるが、その妨害は現状において異質とも言うべきものだった。


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