6.疑心、あるいは

 闇が襲い掛かるのは、日が昇る前までの時分。人は火を使うことで暗闇を制したとも言われているが、それは文明の発達した花音がいた世界のことを言うのであり、このシェラルフィールドにおいては、闇は脅威以外の何者でもない。
 日が沈めば自然と人は息を潜め、再び日が昇るのを待つ。それが人としての生き方ではあるものの、ここ数日の闇の恐ろしさは言葉で表現できかねる。暖を求めてではなく、自然とカノンはルーベに抱きしめられるように眠っていた。
 守られている安堵感からか、闇も人の冷たい視線も怖くなかった。守られるだけ、と自己嫌悪に陥る必要はないと彼は優しく言う。ルーベは心根の優しい人間であることを、彼女は理解していた。だからこそ、彼が自由に動くためには自分が彼に迷惑をかけない場所へいるべきだということも理解している。
 窓にかけられている日よけの隙間から降り注ぐ日差しを感じ、カノンはゆるゆると琥珀色の双眸を開いた。そして、声を出さずに目線を上げる。そこには、ルーベの寝顔があった。
 普段、ルーベがカノンより遅く起床することなど滅多にないため、彼の寝顔を見ることは彼女にとって初めてかもしれない。薄く開いた唇に、僅かに乱れた赤の髪。規則正しく上下する胸に、彼女は安堵感を抱く。そして、状況が状況だというのにもかかわらず、どうしようもない幸福感を抱くのだった。
 父母に抱かれる安心感は違う感覚に、胸が締め付けられ、幸せなのに、泣きたくなるこの情動は何なのだろうか。知らない感情が怖い、否、知っているからこそ彼女は恐怖を感じていた。カノンは、自分の気持ちを決して彼に告げずにいようと心に決めていた。僅かでも、彼の心を乱すようなことだけはしたくなかったからだ。
 いずれ彼は、国を治める。そうなれば、彼の隣にいる女性は聡明で彼を支えてくれる人に違いない。いずれ『国母』となる人だから、きっと人徳のある人だろう。と彼女は想像をめぐらせる。
 何であれ、未来のルーベの隣に自分はいない。そう覚悟は出来ている。けれど……。堂々巡りの自分の思考をたどっていると、ルーベの瞳が開いた。あまりにも突然のことに、カノンは息を飲んだが、彼はそれを気にした様子はない。
 彼女の肩を抱きながら、彼女ごと体を起し扉を見据えた。それと同時に、扉が叩かれる。
「団長、起きていらっしゃいますか?」
 扉の向こうから聞こえてきたのは、フェイルの声だった。朝の挨拶もない彼の声色には焦りの色が濃く反映されている。
「どうした?」
 ルーベは、扉の向こうの彼の気配に気づいて目を覚ましたのだろう。そして、普段は冷静さを失わない彼の焦りも察し、最短の言葉を紡ぎだす。フェイルの言葉はカノンの心を凍りつかせるには十分な威力を持った内容だった。
「大丈夫か?」
「不覚を取りました。申し訳ありません、団長。相手を取り逃がしてしまいました」
 フェイルがジェルドが夜何者かに襲われた旨を告げると、彼の怪我の手当てがあると行って部屋に入らずその場を後にした。彼らがいるのは、帝都から来た人間が一同に集まれる広間だった。
 ルーベとカノンも身支度を最低限整えてその場へ向かう。すると、室内は重々しい空気が流れており、その部屋の中心には左腕と右腹から左肩にかけて一閃された傷の手当てを ジェルドの姿があった。
 命に別状はないとはいえ、その傷の大きさにカノンは息を飲む。第一位階の騎士は、他の騎士の追随を許さない実力者に与えられる称号である。その人間に手傷を負わすことが出来るということは、尋常ではない。
 手当てを受けるジェルドに、ルーベは淡々と言葉を投げかける。
「相手は?」
「暗闇にすぐ目は慣れたのですが。目深に被られた外套のおかげでほとんど窺うことが出来ませんでした。細身で腕の長い男、だと思います。剣を二本使っていました」
「二刀流? 珍しいな」
「不甲斐なくも、相手に一撃も与えることが出来ませんでした」
「そんなことはどうでもいい。お前が無事で良かった」
 ルーベは安堵の息をつくとともに、騎士団長としての顔から普段の彼の表情に戻った。
「これでよし。傷は他には?」
「ない。世界の貴婦人たちのために、顔も死守しましたし」
「世界の貴婦人たちも泣いて喜んでいることでしょう。ねえ、カノン様」
 ジェルドが紺瑠璃色の片目を閉じ、茶目っ気たっぷりにカノンに言葉を振ると、フェイルとヴァイエルは呆れたと言わんばかりに肩をすくめ、溜息をついた。
「本当に。良かった、ジェルド様がお怪我だけですんで。本当に」
「お嬢様にも後心配をおかけしてしまいまして、申し訳ありませんでした」
 傷の程度は浅くないものの、命に別状がないことを知ったカノンは心からほっとしていた。これで仲間の間に死人が出たら、こちらも黙ってはいられないだろう。
「相手も今更、オレたち側を襲ってどうするつもりなんだろうな」
「私たちはもう外部犯と断定してしまっていますしね」
「外部犯、とも限らないのでは?」
 包帯を巻かれたジェルドは低い言葉を紡いだ。
「何故そう思う、ジェルド」
「我々に恨みを持っている自由都市の戦士は今やほとんど。四方を敵に囲まれているようなものです。このようなことにいつなっても、本来はおかしくなかったのでは?」
 彼の言葉も最もだ、とカノンは思った。しかし、それでも。自由都市の誰かを犯人にすることに対する違和感が消えない。その違和感の正体を自分の中で突き詰めている最中、彼女はルーベに声をかけられた。
「カノン、お前はどう思う?」
「え?!」
 弾かれたように顔を上げると、周囲の人間の視線を一身に浴びていることに気づき、少しだけ彼女も面を食らった。ルーベを見やると、彼の双眸は彼女の口から言葉を告げるようにと促しているかのように見えた。
 カノンは、両手を胸の前で結び、その場にいる者全員に声が届くように言葉を紡いだ。
「あ、あの……。私も、自由都市の方ではないと思います」
「何故ですか?」
 自分の言葉に否を突きつけられたジェルドから、当たり前のような言葉が発せられた。その言葉に、彼女はゆっくりと答えた。
「……ディナの配下の方々が、今更私たちに手を出してくる理由はありません」
「ですが」
「テオ様も。そう何かを仕掛けたいと思っている方はたくさんいるかもしれませんが、テオ様が一番、それを抑えてくださっていると思います」
 カルディナを愛しているテオドールは、彼女が守りたいと思うものをすべて守るだろう。そして、彼女を傷つけるすべてを排す志しであることは誰の目で見ても明々白々である。それなのに、帝国側の人間に辛辣な言葉は投げかけても、暴力で何かを仕掛けては来ない。
 誰よりも、帝国側の人間を排除したいと思っている人間が、である。彼を中心に自由都市の人間は動いている。その彼が動いていなければ、動いている確率は低くなるとカノンは考えているのだ。勿論、血気盛んな彼らが動かない理由は、その戦士達をまとめる彼が動いていないところにある。
「……すべて、憶測です」
 だがこれはすべてカノンの推測だった。何の根拠もない、願望さえ含まれた推測である。それを一蹴されるのを覚悟で彼女は再び言葉を発した。
「そうです。全部私の憶測です。希望が入っていると言っても過言じゃありません。でも、私の考えはと聞かれたら、今のがすべてです」
 彼女が言葉を発し終わると、室内にはしんとした静寂が降り注いだ。カノンの頭上で、小さく息をついた気配がした。ルーベが、そっと彼女の頭をなで労うような笑顔を向けた。しかしその視線はすぐに周囲を見渡す。
「大方、オレもカノンと同じ意見だ。あいつらが今更オレたちに手を出してくるとは考えにくいし、外部犯が混乱に乗じて……、オレたちは狙われないという心理状態を突いて襲ってきたって考えるのが一番じゃないか?」
 ルーベの言葉に、今まで水を打ったように静まり返っていた室内に音が戻ってくる。漣のような人の呟きは、是と否がない交ぜになって彼らの耳に届く。真実が見えないからこそ、こうして人は迷い惑わされ、身動きが取れなくなるのだとカノンは感じていた。
「小難しいこたぁオレには良くわからねえけどよ」
 だが、その空気の中で。ヴァイエルは耳の穴に小指を抜き差ししながら、酒屋のつまみを批評するような軽い口調で言ってのけたのだ。
「団長とお嬢が二人して違うっつーんなら違うんじゃねえの?」
 その言葉に、室内の空気が緩んだ。肩に力の入っていたフェイルも、己の身の変化に苦笑いしつつヴァイエルの普段と変わらない物言いに乗った。
「私もそう思います。君の意見を否定するつもりはありませんが、目先の剣と血で冷静さを欠いているもまた事実でしょうし」
 こうなれば、その言葉を生み出してしまうほどの感情が彼を責め立てていた事は、誰も責められないと言っても、ジェルドの言葉は不要な不安を生むだけの言葉になってしまう。彼は肩をすくめて溜息混じりに言った。
「多勢に無勢ですね、怪我人相手に容赦のないことだ」
「そんなつもりはありませんよ。不可抗力と言う奴です」
「わかっているよ、親友。確かに君の言うとおり、私も頭に血が上っていたかもしれないからね」
 そう言いながら、ジェルドは治療のために脱いでいた上着を着直した。その様子を見ながらルーベは少しだけ険しい表情で言う。
「だが、オレたちにまで矛先がむいてきたとなると、警戒を強めないとな」
「そうですね。油断をしていた部分もありますし、ここは気を引き締めなければいけませんね」
「そうそうディライトのお前とやりあいたいなんて思う奇特な奴ぁいねーよ」
「あえて、ディライトの私とやりあいたいと思う奇特な方かもしれませんよ。私が敵であるならば、敵は強い方がいいですからね」
 まるで鈴を転がすように無邪気に笑う男に、ヴァイエルは背筋に冷たい汗が流れるのを感じていた。カノンさえも、さっと肌が粟立つ。
「優男の面して物騒なことを言いやがるぜ」
「実際、私が戦うのであればディライトである私か、団長、ですかね」
 こともなげに自分と騎士団長を担うルーベを指名するところに、フェイルの狂気を誰もが感じざるを得ない。その言葉に同時もせず、呆れた笑みを浮かべながらルーベは答える。
「このごたごたが片付いたら相手してやるよ」
「それは光栄。騎士団の皆様は言い方ばかりなのですが、本気を出すには少し怖い面がありましてね」
「殺してしまいそうで?」
 ジェルドが洋服を身につけ終わったところで彼に向かってそういうと、フェイルは残酷なまでに美しい笑顔で彼を見やった。頷きもせず、首も振らない。ただ、壮絶なまでに美しく作られた笑みを親友に向けてみせたのだった。
「怖ぇ怖ぇ。つくづく位階持ちの人間は化け物揃いだな」
 ひらひらと手を振っておどけてみせるヴァイエルに、フェイルはこともなげに言った。
「アナタも十分化け物何じゃないんですか? 第一位階の騎士でしょう」
「オレが霞むっつーの」
 第一位階の騎士、の称号は人外の者に与えられている称号なのかもしれない。ふと、カノンはこの会話を聞きながらそんなことを考えていた。それでも彼らに対して、恐怖など、彼女は抱かない。
 それは、人ならざる強さをもっていながらも、彼らが誰よりも優しさを抱いていることを知っているからだ。


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