2.噛み合わない愚者


 執務を終えたルーベが屋敷に帰ってきた。今日は騎士団に長い時間、鍛錬をしていたので帰りがいつも以上に遅くなってしまった。玄関で使用人たちに出迎えられながら、黒紅色の双眸が辺りを見つめる。
「カノンは?」
 外套を預けながら給仕に問うと、彼は答える。
「お嬢様はお湯浴みをなさっておいでです」
「ああ、そんな時分か」
 その言葉を聞いて、ルーベは改めて時間を考える。少し話しておきたいこともあったのだが、彼女も疲れているだろうと思いそれを後日に回すことを彼は決めた。
 慣れない宮勤めに体以上に、精神が疲れているだろうと彼は思う。出来れば仕事などさせたくないのであるが、彼女の才智を知っているからこそそれを使わない手はないとさえ思ってしまう。
 短期間ではあるが、カノンの有能ぶりは高官たちの間でも噂になるほどである。ルーベは思わず眉間に皺を寄せ、舌打ちをした。
「どうかなさいましたか、ルーベ様」
「……いや、別に」
 内心穏やかではないルーベは、そう答えるので精一杯だった。

 最近忙しい日々が続いているカノンは体と髪を清め、湯に沈んで大きく息をついた。文官見習いとして色々な公の席に出ることが多くなったカノンはその分視線に晒されることが多くなった。その視線は好意的なものからは程遠く、悪意に満ちているものが多い。
 一日で一番力が抜ける瞬間は、湯に使っているときだと彼女は思っていた。花びらの浮かぶ浴槽からは、柔らかな花の香りが立ち込めている。殿方もこの湯に浸かるのかと回りに聞いてみたところ、カノンが入るときだけ花びらが投入されることを知り、勿体無いと抗議をしていたのだが今ではその香りが彼女にとって心地よいものとなっていた。
 影で交わされている雑言、好奇な目線、そして言いようのない不信感を抱かせる存在。彼女にとって表舞台は不安を掻き立てるもの以外の何物でもない。それでも、ルーベの力になりたいと思う気持ちは本当である。こんなところでへこたれてなんていられない。
 武力として、力になれないのなら、せめて頭脳として役に立ちたいと彼女は思い、慣れない新たな日々に彼女は奮闘しているのである。
 そういえば、とカノンは思い出した。人間油断しているときに、ふと思考を過ぎることがある。カノンは今湯に使っていた。薄い桃色の花びらが浮かぶ広い浴槽というのはなかなか落ち着かない環境ではあったのだが、慣れてしまえば気にならない。
 流れ続ける湯が多少勿体無いと思いつつも、カノンは広い浴槽に足を伸ばし、天井を仰ぐように顔を上げて思考に耽る。
 彼女の脳裏に過ぎったこと、といえばあの日以来カノンは彼と接点が全くといっていいほどなくなってしまったのだ。
 ルーベの甥である、ライザード家に唯一生まれた子ども。第一皇位継承権を持つクラウディオ。ラグナ・フォールはあの日以来、ルーベが持っている。あの剣を使えるものは、この世界でルーベだけであるということは証明されている。
 カノン自身も抜くことは出来るだろうが、長剣を扱うことなど出来ないだろうと、客観的に彼女は思っていた。
 元々皇室に近づかないこともあり、接点など皆無に等しい。なのにもかかわらず、何故彼が脳裏を過ぎったのだろうか。とカノンは疑問に思う。嫌な予感といえば嫌な予感であり、放っておいても大丈夫といえば大丈夫な疑問であった。 危惧するほどのことではないが、予感めいた何かが彼女の中に生まれた違和感は拭い去れない。
 カノンの目から見てクラウディオは悪い人間ではない。ただ、視野が多少狭いだけな純粋な人間という印象である。自分と同じ年齢と言うこともあり、少しだけ親しみも感じている。だが、ルーベと敵対するというのなら話は別である。
「お嬢様?」
「……はい?」
「いつもより湯浴みのお時間が長かったので、お声をかけてしまいました。大丈夫ですか?」
「あ、はい。大丈夫です」
 浴場にカノンの声とルイーゼの声が反響する。気が付かない間に長湯をしてしまったようだ。本当なら、二、三人の侍女が湯浴みの手伝いをしてくれる、と言うのであるがそれは丁重に断った。それはもう必死で。
 風呂は本来一人で入るものであり、誰かに手伝って貰うものでもない。貴族の姫君たちがどうかは知らないが、カノン自身は『姫』ではない。しかし、侍女たちも譲らず間を取って、脱衣場に待機しているという形で決着がついた。
 若干、自分が劣勢で戦いが終結したことを自覚しているカノンは苦笑するしかなかった。湯気が含んだ花の香りを身に纏いながらゆっくりと浴槽から立ち上がった。
「お嬢様、どうかなさったんですか?」
 カノンの体から水気をふき取りながら、ルイーゼは聞く。
「え? ああ、ちょっと……」
「湯辺りを起こしていらっしゃるのかと思いましたよ。最近、お疲れですし」
「そんな事ないですよ。ルイーゼは心配しすぎなんですって」
「そんな事ありませんわ! お嬢様の体調には特に気をつけるようにルーベ様から言い付かっていますし。それにお嬢様はご自分のことに少し無頓着すぎますもの。私みたいなものが口を出す程度がちょうどいいのです」
「そうですか?」
 くすくすと二人は笑いあう。平和な、時間だった。既にこの時脳裏から消えていたカノンの危惧が、後日現実の物になって現れることを彼女は知らなかった。

 闇夜に月が浮かぶ頃。城内の灯りは徐々に消え、光が灯っている部屋が少なくなってきた時分、ダンっと机を叩く音が室内に響き渡った。
「……っ!」
「大丈夫ですか? 我が君」
「大丈夫だ!! いちいちこれぐらいの事で声をかけるなっ!!」
「申し訳ありません」
 見るからに赤くなっている拳を見ても、クレイアは頭を下げた。立ち上がって憤りを露にしていた彼は、なお苛立たしい表情を隠そうとも椅子に座った。
 この不機嫌の主であるクラウディオの機嫌はこの日、最高に悪かった。否、あの日以来、彼はとても機嫌が悪かったのだ。ラグナ・フォールが叔父であるルーベの手に渡ったのである。それは彼にとって予想外、想定の範囲外の話だった。
 予定としてはあの日、自分があの剣を手にし、名実共に次期皇帝の座を得ようと思っていたのにもかかわらず。異世界より召喚された伝説の『鍵』はこともあろうに自分を拒絶した。剣の持ち主はルーベだと叫んだのだ。
「叔父上はカノンに呪いをかけているに違いない! そうじゃなければ、薬を使っているんだ!!」
 結論づいた彼は叫ぶ。それを見ていたクレイアは小さなため息を付いた。勿論、主であるクラウディオに気付かれないように。彼のレイターであるクレイアは出来うる限り彼の望むことを叶えてやりたいと思っていた。
 しかしこればかりは無理な話である。彼は皇帝となる器の人間ではないことは、彼の側に佇む自分が一番知っている。そろそろ現実を見てほしい年齢なのだが、至って真面目に夢を追う皇太子の力添えをしたいというのも彼の本音だった。
「クレイア!」
「何でしょうか!」
「叔父上から剣とカノンを取り返すにはどうしたら良い?」
 彼の表情は真剣だった。
 即答が出来なかったのはクレイアの責任ではない。いつか問われるとは思っていたものの、彼に対して答えを導き出すことは出来ない。どの方法を取ったとしても、最終的に彼は殺される。
 今クレイア自身が出来ることと言えば彼の命を守ること。レイターとして膝をつき、誓いを立てた者を守り抜くこと。その為に出来うることは全て手を売っておく必要がある。
「クレイア」
「はい」
「何か手はないか?」
 沈黙に痺れを切らしたクラウディオのほうが先に口を開いた。クレイアとて問われれば答えられないわけではない。
「あります」
 しかしそれは彼の意に乗っ取るものではない。彼の用意している手は一つ。クラウディを、たった一人の命を守るための方法である。それはルーベ陣営に下ること。例えクラウディオが彼らに攻撃を仕掛けても、大した戦いにはならないだろう。仮に皇太子がとらえられても、ルーベが彼を殺すとは考えにくい。シャーリルやサナンがどう出るかはわからないが、ルーベもそしてカノンも彼に対して無体な真似はしないだろうという確信めいた何かがあった。
「何だ!?」
 彼の思考などしらずに、クラウディオは父譲りの藍色の双眸を輝かせ、座っていた椅子から身を乗り出して問うた。クレイアは小さく笑いながら答えた。
「自由都市ディジー・アレンを手に入れるのです」
「ディジー・アレンを?」
「ええ、皇祖帝の時代、ライザード家と契約を交わした自由都市。それはまだ生きています。自由を認める代わりに、次期皇帝に力を貸す、と。その力を貴方が手に入れることが出来れば、皇帝陛下よりも、ルーベ様よりも優位になるかと思います」
 半分本気で、半分嘘の言葉である。しかし、クラウディオはしばし思案するように沈黙する。
「そうか!! 自由都市のことは考えていなかった! 流石はクレイアだ!」
 満面の笑みを浮かべて言葉を紡いだクラウディオはそういった言葉の裏にある彼の真意に気付いていない。気付いていたら、馬鹿にするなと怒鳴り散らしていただろう。……最も、気付くような頭脳があれば、最初から父親の打倒と叫びださないはずである。
 視野が狭く、自分で決めたら方向転換が聞かない部分が彼には確かにある。しかし、それをクレイアは愛しく思う。
「ありがとうございます」
 深緑色の双眸を細めながら、彼は恭しく彼に頭を垂れた。
「近々ディジー・アレンを訪ねよう! 話せば分かってくれるだろう」
 嬉々とした笑みを浮かべる彼の表情が、近々翳ってしまうことがクレイアにとっては心苦しいことであったが、生きていればいくらでも彼の笑顔を見ることが出来る。そう自分に言い聞かせて、先々の算段を脳内で展開させていた。
 恐らくはこの程度の算段など、すでに皇帝も想定の範囲に入っているだろう。だからこそ、あの皇帝が動き出す前に動かなければならないのだ。たった一人、守りたい命を守るために。
 クラウディオに仕えるということは、未来の皇帝に仕えるということだと言って、彼の周りには未来を確固たるものにしようと目論んでいる者も少なくはない。地位と名誉で塗り固められた忠誠ではなく、クレイアはただ彼に膝をついていた。
 確かに彼は愚かな所もある。だがそれを凌駕するほどの魅力をクレイアは感じていた。彼に屈託のない笑顔で手を差し伸べてきたクラウディオについていこうと決めたのだ。皇帝に命じられたからではない、自分の意志である。
 噛み合わない歯車はその軋轢に耐えかね壊れてしまうかもしれない。例えそれが舞台上で不協和音を奏でることになっても、構わない。愚者と言うなら言えばいいと、笑いたければいくらでも笑えばいいと彼は思う。望みは唯一つ、主の命を守るため、それが出来れば自分がどうなろうと関係ないという強い意思を持って、クレイアは心に強く誓っていた。


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