笑顔の裏で


 カノンがシェラルフィールドに飛ばされ、ルーベの元に身を寄せてしばらく経った頃である。
「あれ?」
 カノンはふと読んでいた本から目を離し、指を折り始めた。今、この世界はニの月。そして本を置いてニ、三度確認してやはり思う。今日はニの月の十四日目。この国には一週間と言う日の区切りというものはないものの、『何日目』という定義は地球と変わらず存在している。
 ニの月の十四日。カノンはやっぱり、と誰もいない部屋で呟く。そして一瞬沈黙したのに、すくっと立ち上がり扉へと向かった。今までどうして忘れていたのだろうということよりも、どこか高揚する気持ちを抑えられず、少しの期待を胸に抱き扉を押した。
 扉の外にも誰もいない。悪い事をしに行くわけではないが、ルーベを始め、何人かには知られたくない。行動は迅速に、そして隠密に。スパイ活動をする人の気持ちはこのような感覚なのだろうかと、と思いながらカノンは歩き出した。
 同じ階、もしくは、書庫やルーベの部屋など、必要最小限の部屋にしか足を踏み入れたことのないカノンだったが、屋敷の内部地図を一度見ているので、頭の中には全て入っている。なので、厨房まで迷わずいける。あとは、誰にも見つからなければいいだけ。そう思った矢先だった。
「カノン!」
「えっ!?」
 くるりと身を翻し、声の主を見ると、そこには不思議そうにカノンを見ていた。
「あ、シャ、シャーリル様……」
「珍しいな、君が部屋を出て、しかもこんなところを歩いているなんて」
 シャーリルが若干周りを伺うような仕草をして、長い黒髪が揺れた。カノンも同時にやはり周囲をうかがってしまう。
「何かあったなら、鈴を鳴らせば近くに居る誰かが来るって……知ってて出歩いてるんだよね。どうしたの?」
 シャーリルは別にカノンを叱るつもりはないのはわかるのだが、悪戯を見透かされたような居たたまれない気分になってしまった。それを感じ取った彼は、優しげな笑みを浮かべながら手を伸ばした。そして亜麻色の髪を撫でた。
「別に怒るつもりは無いよ。ただ、何かあるなら聞かせて欲しい。……悩みとかあるなら……」
「いえ! 悩みとかそういうのじゃなくて!」
 カノンは必死で頭を振った。その動作を見てまた口元を緩ませると、彼は彼女の言葉を待った。どうせ後々言うつもりであるし、最悪ルーベに伝わらなければいい、そう思ったカノンはおずおずと言葉を口にした。


「こんにちはー」
「お嬢様! それに、シャーリル様っ!? 一体何が? あ、あの、何かわたくしたちは不手際をいたしましたでしょうか!?」
 途端に厨房は軽い混乱が陥る。ルーベの屋敷の厨房、彼女達の目的地に着いたのだ。絵的にも、身分的にも相応しくない二人の登場に、給仕服や料理服に身を包んだ人々が口々になにかをいい、その表情は決してよくは無い。
 その反応をみて、カノンは苦笑するが、何も無い事を伝えると改めて口を開いた。
「少し、厨房を貸していただけないかと思いまして」
「お、お嬢様自らッ? わたくしたちが御主人様に叱られてしまいますっ。どうか、何かお食べになりたいものがあれば、わたくし共に仰ってくださいませ」
 彼らの過剰なまでの反応を見て、逆にカノンが押されてしまい思わず頷いてしまいそうになるが、そこでシャーリルが助け舟を出す。
「彼女が作らないと、意味が無い物らしいんだ。何かルーベに言われたら、僕がどうにかするから、彼女の好きなようにさせてあげてくれないかな?」
「えっ! で、ですが……」
 滅多に話す機会など無い主の腹心と言葉を交わす侍女の表情が見る見るうちに赤く染まっていく。国内随一と謳われる絶世の美形であるシャーリルにそう言われれば、老若男女構わず言いくるめられてしまいそうになる。真っ赤になってしどろもどろ言葉を紡ぐ女性を、可愛らしいなと微笑ましく思いながら見つめていると、シャーリルとカノンの後ろから声がした。
「あらあら、一体何の騒ぎです?」
「シーラさん」
「カノンお嬢様にシャーリル様まで……。一体何事ですか?」
 現れたのは白髪交じりの初老の女性、侍女頭のシーラだった。彼女は二人が居ることにもさして驚いた様子を示さず、ただ小首を傾げてどこか悲壮感漂わせている侍女や侍従たちと彼女達の顔を見比べていた。年配の侍女でさえ取り乱しているが、侍女頭ともなると泰然自若のごとく、どっしりと構えている。
 ちょうどいいと言わんばかりにカノンが彼女に事情を説明すると、シーラは笑顔で答えた。
「ええ、ええ、お嬢様がそう仰ってくださるなんて! 御主人様もお喜びになりますよ! お断りする理由なんてございませんとも。どうぞお使いしてくださいまし!」
「ありがとうございます!」
 カノンは彼女に頭を下げた。
「良かったね、カノン」
「はい!」
 カノンが満面の笑みでシャーリルに言うと、はたと気付いたように彼女は言う。
「シャーリル様もご一緒にいかがですか?」
「え?」
 意外そうな顔をしたシャーリルが思わず小さな声を出してしまう。
「お菓子作りも楽しいですよ。シャーリル様、器用ですし、簡単なものですから」
「でも、僕料理なんてほとんど作ったことないし……」
 突然振られた話を渋るシャーリルに、侍女頭の許可が出て、若干余裕が出来たほかの侍女たちもカノンに味方して口ぞえをしていく。
「わ、わたくしたちも僭越ながらお手伝いいたしますし! やってみると面白い物ですよ!?」
「もしお忙しくないのでしたら、是非!!」
 基本的に厨房で武人、というよりも男性が入って、女性に交じって料理する機会はない。特にレイターであり、王弟ルーベの腹心とみなされる第一位階の騎士、シャーリルがこのような場に直面する事も皆無といって良いだろう。だからこそ、この機会を逃してなる物かと枷の外れた侍女たちは必死にカノンの陰に隠れながらも、彼を誘うのだ。一秒でも長く、この絶世の美青年を眺めているために。あわよくば、言葉を交わすために。
 ただでさえ、言葉を交わす機会も少なく、近くでその顔を見ることさえ滅多に出来ない彼と時間を共有できるという好機である。こうなってしまえば、シーラが彼女たちをたしなめる言葉を口にしたところ収まらない。
「……じゃぁ、やってみようかな」
 それは単なる気まぐれの言葉だったかもしれない。だが、その言葉が発せられた瞬間、一瞬場は沈黙し、次の瞬間はじけたように歓声が上がった。話を持ち出したカノンは、侍女たちに囲まれて口々に礼を言われたのだった。
「そうと決まれば、シャーリル様とお嬢様に紐と前掛けを誰か持っておいで。この格好じゃ思うとおりに動けないでしょうからね!」
 手を叩いてシーラが合図すると、侍女たちは地に足が着いていない足取りで忙しなく動き始めた。



 コンコンと、控えめな音が聞こえたので、ルーベは書類から目線を上げた。退屈な書類の決裁だが、やらなければ先に進まないし、やらなければ溜まる一方である。溜め息交じりではあるが、片っ端から書類を片付けている最中、滅多にここまで訪れることのない人物の気配に少し驚く。
「カノン……とシャル?」
 扉越しにはい、というやはり小さな声が聞こえる。ルーベは書類を横に置きながら口元を緩めた。
「入って」
「失礼します」
 そうやって一度頭だけ下げて、入ってきたカノンと、そしてシャーリルの姿に、ルーベは黒紅色の瞳を見開いた。
「……どうしたの、二人とも」
 それもそのはずである。彼らの格好はいつも部屋着だ、騎士服だというドレスでも正装でもない。二人とも袖口をボタンで止められるようになっている白い服、そのボタンを外し腕まくりをした状態で、前には紺色の簡素な前掛けを身につけていた。それぞれ亜麻色の髪を、艶やかな黒髪を一本に束ねている。
 そして、カノンは銀製の盆を両手で持っていた。両手の塞がっているカノンの変わりにシャーリルが扉の開閉をする。彼らは教務机で訝しげるルーベの前までやってきた。
「少し休憩しないか? 茶と菓子を持ってきたから」
「うん……それはいいんだが……」
 全く状況が分からない状態ルーベは再び彼らに聞いた。頬を薄く染めているカノンの背中をシャーリルが悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべながら押すと、カノンは口を開きはじめた。
「私のいた国だと、二月……ニの月の十四日は、バレンタインデーと言って、好きな人や日頃お世話になっている人にチョコレートというお菓子を贈るという風習があるんです。それを思い出したので、厨房をお借りして作ってみたんです」
 ルーベが視線を落とすと、銀色の盆の上には、ティーポットと布がかかっている皿が二つ。カノンはここまでほぼ一息で言う。
「ルーベ様には、言葉で言い尽くせないほどお世話になっているので、それを形にしたくて。素人が作った物なので、形も崩れてて、味も大した事無いですけど、よろしければ……」
 ゆっくりとそれを机の上に置くと、甘い優しい香りがルーベの鼻孔をくすぐった。 
「ありがとう、カノン。頂くよ」
「あ、ありがとうごございます!!」
 カノンの琥珀色の瞳がキラキラと輝く。それをルーベは黒紅色の瞳を細めて微笑んだ。その間、シャーリルが手際よく茶を陶器三つ分に注いでいた。芳しい香りが室内を満たしていく。
 ルーベが皿の上の布を引くと、そこに現れたのは小さなケーキと黒くて丸い物体だった。ケーキはわかったのだが、もう片方が分からずルーベは手を伸ばし、それを口の中に入れた。口に入れると溶け始め、じんわりとほろ苦さと甘味が広がっていく、噛めばよりその甘さは広がり、少しだけ酒の味もし出す。今まで食べた事の無い菓子に、ルーベは目を見張る。
「これは?」
「トリュフというお菓子です。一番簡単に出来るのはこれだったので……」
 もう一つ、二つとルーベは手を伸ばしていく。
「美味いよこれ! こんなに美味しいもんがあるなんて、行ってみたな、カノンの国にも」
 子供のように興奮しながら、珍しいお菓子をルーベは口にしていく。カノンの作ったケーキもあっという間に平らげて、彼は至極ご満悦である。一通り食べた後、シャーリルの入れた茶をすすり満面の笑みで甘さの余韻に浸っていた。
「僕も一つ食べさせてもらったけど、美味しかったよ」
「そんな……」
 カノンは真っ赤になりながら頭を振った。
「よっぽどこのバカのこと大切に思ってないと、作れない味だって、侍女たちも言ってたじゃないか」
「シャ、シャーリル様っ! それ、ここで仰らないでくださいっ!!」
 これ以上赤くなれないというぐらい赤くなったカノンと、彼女をからかうシャーリルを見ながら、ルーベも大笑いをする。朗らかな雰囲気が流れる中、彼はもう一つの布のかかっている皿の中身を見た。


 黒紅色の双眸は、一瞬宝玉のような輝きを失い、その様を見たカノンは絶句し、先ほどまで熟れた果実のように真っ赤だった顔が若干青ざめてしまう。何事だと思ったシャーリルが彼らの視線の先を見て、ああ、と呟いた。
「……えっと、これは?」
 白地に小さな赤い薔薇と蔦の描かれた皿。それはカノンの作ってきたお菓子と並べた皿と同様な物のはずなのに、どこか一種異様な雰囲気を醸し出していた。
「ああ、そっちは僕」
「………………………は?」
 たっぷり間を空けた後、ルーベは聞き返した。
「カノンや……他の侍女たちが簡単だからやってみろっていうから。まぁ……たまにはやってみてもいいかなって思ってさ」
 何か失敗がばれたのだろうかと脳裏をよぎったが、どうやらそうではないらしい。そして、長年一緒にいなければ分からないが、シャーリルは確かに、少しだけ照れていた。それを分かってしまう自分を、この時ばかりは怨んでしまう。これは新手の嫌がらせではないだろうか、と思うが、どうやらそうではないらしいから驚きである。
 およそこの世の物とは思えない物体が天地開闢以来この皿の上にあるのは、我であるという顔をして鎮座していた。消し炭としか見えない黒い歪な塊には、申し訳程度に赤い実が添えてあり、限りなく黒に近い茶色い液体のあたりは若干皿が溶けているように見えるのはなぜだろうか。そして、おそらく先ほどカノンが『トリュフ』と呼んだ菓子。この団子状で毒々しい色をしているそれが同じ物とは信じられない。上にかかっている粉も、赤黒い何かでそれは例えるなら乾き始めた血の色である。
 間違ってもこれは、人の食すことが可能なものではない。ルーベの動物的直感ともとれる本能が脳内で警鐘を鳴らす。これをケーキだトリュフだと思い込もうとしても、彼の脳内は彼の意思に反して拒絶する。それほどまでに、危険な物だと彼の長年の観察眼がと洞察力が判断した。
 だが、腹心であり、旧友の生まれて始めての手作り菓子をここで残す訳には行かない。ルーベはおもむろに皿の側に添えてあるフォークを取り、まずトリュフを刺した。その時、先ほどのように柔らかな感触ではなく、ザクっという音が耳に届き、粘着質な感触がそれから伝わってきた。その時点でフォークを取り落としそうにルーベはなったが、ありったけの自制心を働かせ、それを防いでそれを口に入れた。
「……うん、美味い」
「そ。じゃぁケーキのほうは?」
「うん、今喰う」
 今度は彼がケーキと言い張った物体を一口分切ってフォークに刺し、口に運んだ。
 静寂が室内を支配する。カノンは彼の行動を息を飲んで見守り、シャーリルさえどこか不安げな表情で見つめていた。ルーベは口からフォークを話、数度咀嚼したのち、飲み込むと、満面の笑みで答えた。
「美味いじゃんコレ! 本当に!! お前何でも出来るなー、ホントー」
 そういって、ルーベは二口目を頬張った。カノンは琥珀色の双眸を見開き、シャーリルは瑠璃色の瞳を嬉しそうに細めた。嬉々として三口目をルーベが口に運んだ時、彼はあ! と声を上げた。
「どうした?」
「この書類ライラに渡さないといけないの思い出してさ」
「……今か?」
「うん。これちょっと急用なんだよ」
 フォークを咥えたまま、ルーベはどうしようという表情を浮かべた。シャーリルが机の上の彼が見た書類を見ると、さして急を要する内容の書類では内容に見えた。それでも、護衛兵長のライリアに渡さなければいけないと彼が判断したならばそれはそれである。
「ああ、じゃぁ僕が行ってくるよ」
 その言葉を待っていましたといわんばかりに、ルーベの瞳が輝いた。
「頼む、悪いな。ついでに厨房に行って、フェルフェの茶葉を持ってきてくれないか?」
「お前、そっちのほうが主の用事だろ?」
「ばれた?」
 ルーベが申し訳なさそうに駄目かな? という表情をすると、シャーリルは苦笑しながら書類を持って立ち上がった。
「しょうがないな、取ってきてやるよ」
「ありがとうな」
 彼はそれに答えず、軽い足取りで扉を開いた。ルーベに喜んでもらえた、と内心喜びながら、料理作りは結構面白いことを覚えたシャーリルはまた作って食べさせてやろうと、とんなことを思いながら歩いていった。


 足音がじょじょに遠のいていく。カノンは黙って二人のやり取りを見守っていたが、どうも信じられない。
「あの、ルーベ様?」
「何?」
 今もなおフォークを動かして口にケーキやトリュフを運んでいるルーベを見て、彼女は意を決して言った。
「その……シャーリル様のお作りになったケーキとトリュフ……一口食べさせていただけませんか?」
 出来上がった当初、その物体のあまりの強烈さに、味見もできずにいたカノンだったので、もしかしたら美味しいのかもしれないと思いなおし、ルーベに言ってみたが、彼がちょうどその瞬間ケーキを平らげトリュフの最後の一個を口の中に放ばってしまった。
 それを飲み込んだ瞬間、悪鬼のような形相でルーベはカノンの肩を掴んで叫んだ。
「こんなん食ったら、死ぬぞ!?」
「えっ!?」
 カノンの眼前には死相感漂うルーベの顔があった。ルーベはそういうとそのまま、机の上に突っ伏してしまった。
「ル、ルーベ様っ!? 大丈夫ですか!!?」
「オレ……二十五年生きてるけど……あんな菓子食ったの生まれて初めてだ……」
 どこか遺言のように言葉を発するルーベに、カノンは急いで茶を淹れて彼に与えるが、精根尽き果てた彼はそれを口にすることさえ出来ない。
「いやもうなんつーか、筆舌尽くせない味だぜ、これ。これ菓子じゃない」
 カノンとて、あれは料理でさえないと思っていた。しかし、化学変化というのは恐ろしいもので、もしかしたら美味しいかもしれないと思ったのが馬鹿だった。でも、それでも、一生懸命作っていたシャーリルの姿を見ているので、彼の暴走を止めることも出来なかった。
 これ以降、ルーベは呻き声を上げる事はしたものの、会話として成立するような言葉を発することは出来なかった。そのルーベの背中を、カノンは小さな手でさする事しか出来なかった。この必死の介抱はシャーリルがここに帰って来るまで続けられたと言う。

 そしてカノンをはじめ、一緒に料理を作った侍女たちは、シャーリルが繰り広げた地獄絵図を厨房を見るたびに思い出したという。これは一部の侍女たちの間で恐怖伝説として語り継がれたのだった。


闇鍋風味に100のお題 57.笑顔の裏で
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