あなたに光があるように


 机にかけられた白い繊細な刺繍が施された布の上には、手が込まれている料理たちが鎮座していた。いつもならば、食欲をそそられる食べ物の香りも今のカノンにとっては軽い吐き気をもよおすもの以外の何物でもない。
 食事の席に、今日は珍しくルーベも座っている。ここの所多忙で、カノンとルーベとが一緒に食事を取ることはなかったのだ。久しぶりに二人が食事が出来るということで、料理人たちも腕を奮い食事も豪華なものとなっている。舌鼓を打ちながら、話を進めてくれれば料理人たちも本望と言う所である。
 しかし、カノンの手は中々進まない。辛うじて口に出来るものといえば、暖かなスープとパン状のもの、そして果実・野菜の類であった。だからといって、そればかりを食べている訳でもなく、ほんの小鳥の餌ぐらいの量しか口にしないのだ。仕事柄、あまり共にいる時間を取れないルーベなのだが、さすがにカノンの異常に気付いたらしい。
 向かい合って食事をしつつ、彼女の様子を伺う。頭上でまとめて結われた亜麻色の髪は艶やかで、琥珀色の瞳は相変わらず宝石のような美しさを讃えている。しかし、ルーベの目には彼女が少しやつれているように見えていた。肩の出たドレスを身にまとっているカノン、覗く肩は頼りないほど細く、白い。ルーベは自分の食事の手を休めて、パンを小さく千切って口に運ぶカノンに声をかけた。
「……美味しくない?」
 そう問われたカノンは、一瞬自分に言われた言葉と気がつかなかった。しかし、心配そうなルーベの紅黒色の双眸に自分の姿が映っていると分かると、フルフルと勢い良く横に首を振った。
「そんなことありません! とても美味しいです」
「でも、あんまり進んでないみたいだけど……」
「あっ、すいません」
 ルーベの言葉に、カノンはしゅんと伏せ目になり食事を休めてしまう。それを見て慌てたのは、ルーベのほうである。
「いや、あの、どこか体調悪いんじゃないかって思って。大丈夫ならいいんだけど!」
「ご心配をおかけして申し訳ありません。体調を崩している訳じゃないんです。……ただちょっと、食欲がないだけで」
 彼からしてみれば、基準を自分に持ってくるのは間違っていることぐらい理解出来る。故に、騎士の中で異様に少食であるシャーリルの食事量と比べているのだ。彼よりも少ないとなると、体調をどこか崩しているのではないかと勘ぐりたくもなるのである。
「食べてない訳ではありませんよ! ほら、あの、色々少量ですが食べてますし!」
「でも……」
 食べていることを主張されるも、その『少量』があまりにも『少量』なのである。
「肉は?」
「あっ、すいません。あまり味の濃い物や、脂っこい物を食べたくないので」
 肉と聞いた時点で、彼女は口元を手で一瞬覆った。そして、無理やり笑みを浮かべて見せて唇を動かす。
「何ていうか、さっぱりしてたり、液状だったり、冷たかったりしたら食べ易いので、そればかり食べてしまって」
 カノンはそのあと、少し困ったように笑った。
「偏っているのは分かるんですけど、しばらくすれば治ると思いますから、ご安心くださいませ」
 花のように微笑むカノンに、ルーベはこれ以上何も言えなかった。



「―――ってことなんだけど、どう?」
「いやどう? って言われても……」
 これが部下の本音と言うものである。昨日、久しぶりにカノンと食事を共にしたルーベはその食事の量と偏りに非常に驚いたのだ。彼女の身に何か起こったのではないか、と思うと少なくとも平静でいられなくなる。異世界からやってきた少女は、気丈に直面する様々な危機に立ち向かっていっている。
 心労も重なっていることだろう。それを自分に話せないほど、自分は頼りがいがないのだろうか、などルーベの胸中は複雑に渦巻いていた。相談してもらえれば、自分の持てる限りで力を貸そうと思っているルーベとしては、面白くないのである。弱く儚い少女を、守りたいと思うのに、そうさせてくれない彼女の思惑も読めずに少々頭を悩ませている、ということも周知の事実であった。
「ああ、だから重要書類に『すっぱい』だの『冷たい』だの書いてあったんだ」
「そう」
 大きな陶器に入った酒を一気飲みという豪快さを見せ付けてくれたシャーリルの冷ややかな声を受けて、ルーベは弱弱しい声で肯定した。
 ここは、シレスティア騎士団御用達の酒場である。この酒場には騎士たちが息抜きとして日々、足繁く通っている酒場である。その一角に集まっている豪華絢爛な顔を見て、息抜きに来たはずの騎士たちはどこか落ち着かない雰囲気で彼らの様子を伺っていた。しかし、声が聞こえてこない。防音の結界が入念に張られているのである。
 レイターであるシャーリルが張った結界を解けるほどの力のある騎士は存在しないといっても過言ではない。故に、会話の聞けない彼らはただルーベを初めとする第一位階の騎士たちの姿を見つめていたのだった。
 そんな視線にお構いなく、彼らは会話を続けていく。
「なんだ、簡単なことじゃないですか」
 ジェルドがつまみに手を出しながらさらりと言ってのける。ルーベの視線が彼に向くと、彼は肉を咀嚼し飲み込むと、ニッコリと笑った。
「おめでとうございます、団長」
「は?」
「念願の第一子じゃないですか!」
 ジェルドの言葉に、同じく席を共にしているフェイルも、シオンも、カズマも、ヴァイエルも、ディアルでさえも目を丸くしてルーベを凝視する。状況が飲み込めてないのはルーベだけである。
 いち早く現実に戻ってきたフェイルだった。ニ、三度瞬きをすると、ああと声を上げた。
「そうですよね、女性は身籠ると食事か偏ってしまうって言いますし。フィアラート殿、マドリード殿、あなた方の奥方はどうでしたか?」
「確かに、そんな症状が出てたね。狂ったように、木の実しか食べてなかった」
「俺ぁ、あまり気付かなかったな。食事の量も」
 ヴァイエルのあてにならない意見はともかく、シャーリルがそういうと、相談者を差し置いてその場が盛り上がる。
「……なら、理由も納得出来ますね。おめでとうございます団長」
 シオンは純粋な笑みを浮かべて杯を上げ祝福を口にした。
「ま、これで国も安泰ですね!」
 ヴァイエルもやはり心底嬉しそうな笑みを浮かべ杯を掲げる。第一王位継承者がいるにもかかわらず、何を言うかと周囲は咎めるかもしれないが、この場にはそれを咎める者は誰もいない。ディアルも言葉を口にしないものの、祝福をこめてディアルも杯を掲げてみせる。
「この忙しい時期によくやりましたね、団長! おめでとうございます」
 最後にカズマがそう言うと、ルーベは笑顔のまま言う。
「てめぇら、誰から炭になりてぇんだ?」
 静かに怒りを讃えているルーベの黒紅色の瞳を見て、席を共にしている第一位階の騎士たちの背筋が凍りつく。瞳が全く笑っていない彼の笑みを見て、彼らは互いの顔を見合わせてみる。おめでた、でなければ何なのだろうか、と彼らは悩む。
「え、でも……」
 カズマがなおも口を開こうとすると、笑顔のままルーベは彼のほうに向いた。無言の威圧に、彼は口を噤みざるを得ない。何かを言えば殺される、と彼の脳内で警鐘が激しく鳴ったのだ。
「では、減量でもなさっておいでなのでしょうか?」
 一拍間を置いて、フェイルが小首を傾げると、浅梔子色の短い髪がさらりと揺れた。
「数度カノン様とお会いしていますけど、もう少し体重が増えても問題ないように見えましたけど?」
 柔らかな白金色の髪を弄りながら、わからない、という表情を隠さずに言う。
「ご婦人の繊細な御心は我らが皇帝陛下でも理解出来ないでしょう」
 皮肉気にジェルドが言うと、彼らは浅く笑った。喉で酒を飲みながら、ヴァイエルとディアルは口を挟まない。否、挟めない。ただ彼らは手元のつまみと酒を喰らっていた。
 この中にいる人間の中で、唯一カノンの事情をしっているシャーリルもまた、無言で酒を飲んでいた。ルーベが気付けばきっと止めるだろう、止めないにしても、何か口を出すだろうと思われるからこそ、口止めを依頼されているのだ。カノンと、妻であるミリアディアに。
 カノンは、この間誘拐された時己の無力さを噛み締めたという。軍人相手に命のやりとりをするほど力は、恐らく身に付かないだろう。だからといって、唯々諾々とやりこめられたくないという彼女の意志は、ミリアディアが酷く感銘を受けたらしい。ただでさえカノンに甘い彼女である、そして元騎士である彼女は、現在カノンの師匠として護身術程度であるが体術の指南をしているのだ。
 運動神経は悪くないカノンの才能はある、というが基礎体力と筋力が全くないという。……地球で、一般的な女子高校生を営んできた彼女に、この世界の一般以下の体力しかないというのに、いきなり何かをさせる、というのは酷な話である。故に、今カノンはミリアディアに徹底した体力づくりと筋力作りをやらされているのだ。過剰な運動量は時として身体を蝕む。当然、そこまでのことをミリアディアは要求していない。
 しかし、カノンはそれでも辛いのだ。それこそ、食事の量が落ちるぐらい。地球でいうところの夏バテのような状態に陥っているといえば、カノン自身は納得できるかもしれない。
 シャーリルとしては、『カノンが何で食事量が減ったのか?』と問われるのではなく『カノンが何をしてるのか?』と聞かれたら答える心積もりでいた。しかし彼は素っ頓狂なことしか言わない。言ってやろうかどうしようかと心の中で葛藤が生まれるが、約束は約束である。こう問われれば言うと、あらかじめシャーリル彼女たちに伝えていたのだ。
 がんがん酒を煽りながら答えが導き出せないルーベを見て、シャーリルはため息を付いていた。


「で、昨日の話しを踏まえた上で、オレなりの結論を出してみた」
「……そんなくだらないことで朝っぱらから僕のこと呼びたてたわけ?」
 昨晩、酒の強さも並ではない第一位階の騎士たちを酔いつぶれさせた騎士団長は、何事もなかったような表情をしていた。朝、一番で自室に腹心を呼び出し言った言葉がそれだった。今日は会議はないにしても普通に、職務はあるにも関わらず、ルーベは騎士団長の服装ではなく、家にいる時の比較的簡素な格好をしていた。
 仕事をする気がまるでない姿に、シャーリルの柳眉が歪む。
「どうでもいいけど、仕事は……」
「今日の分明日全部片す」
 ルーベの双眸はとても真剣だった。何かを決意すれば何をしても動かない彼の性格を熟知していたシャーリルは、押し問答をしても労力の無駄であることをさらに理解している為何も言わなかった。
「じゃぁ今日は何するつもりなの?」
 シャーリルがそう問うと、彼は真面目な顔のまま言ったのだった。
「カノンが食べられる飯を作りたい」
 シャーリルは、ルーベに何といって声をかけていいのか分からなくて、真剣に一瞬返答に窮を要したのだった。

 シャーリルはこの程度の動揺のみで済む。言うが早いかルーベは彼を従えて自室を出た。そして、一直線に向かうのは食堂、その先の賄い場だった。
 突然現われた主たちに、普段どおりの作業をしていた料理人たちは硬直してしまう。料理が口に合わず、解雇されてしまうのだろうか、それとも首をはねられてしまうのだろうか、否、ルーベ様に限ってそのようなことは、などとにかく彼らの顔色は千変万化するといっても過言ではない。
「別に、首とかそういうのじゃないんだ。みんなの作ってくれる飯、いつも美味しく頂いてるよ」
「そういっていただけて光栄の極みでございます! ありがたいお言葉、誠にありがとうございます!!」
 平伏するように頭を下げる彼らに対して、ルーベは柔かく微笑んでみせる。
「では、今日はどういったご用件で?」
 料理長が恐る恐る尋ねると、彼は言う。
「カノンのために料理を作りたいんだ」
 賄い場は一瞬沈黙が訪れた。雫が一滴落としただけでも、壊れてしまいそうな沈黙が降りかかるが、ルーベは気にも止めずに言葉を続ける。
「最近、カノン食欲ないだろう?」
「確かに、最近お嬢様のお食事量、減ってしまわれましたね」
 侍女の誰かがポツリと呟く。
「私はてっきり減量されているのかと思いましたわ」
「でもお嬢様、これ以上お痩せになったらお体を害してしまいそう」
「そうなんだ、だからカノンが食べられそうな物を作りたいんだ」
 侍女たちの証言もあり、ますます言葉に力をこめるルーベ。命じれば何でもできるだろうにかれはあくまで彼らに『頼む』のだ。彼から命令が下ることは滅多にない。あったとしても、それはよっぽどの時なのである。この屋敷に使えている人間は、みなルーベを誰よりも慕っているのだった。
「わかりました。カノンお嬢様のお気に召す料理を腕を奮って……」
 料理長が腕を捲くると、彼は手を小さく振る。
「いや、料理長そうじゃなくって」
 小太りで、やや顔に皺の刻まれた料理長は小首を傾げる。小首を傾げても被っている帽子が落ちないのは熟練である証なのだろうか。そのようなことを考えながら、ルーベは彼に言った。
「オレに、その料理を作り方教えてくれ。で、ここで作らせて欲しいんだ」
 ルーベは大真面目な上とても真剣だった。
 先の戦いで切られてしまった髪はまだ伸びてこない、それでもその髪を覆うための布を彼は持参済みであった。近くに居た侍女たちが髪を頭で覆って料理をしていることを知っていたからである。周囲が唖然とした表情で、騎士団長という地位につく男が頭に布を巻く手馴れた様子を見つめていた。
「で、何からすればいい?」
 彼の気合は充分、その表情はまるでたった今から初陣に赴こうとする新米兵士のようであった。唖然としたまま止められないことを悟った料理人たちは、悪い悪夢の再来にならないことを願いながら、恐れ多くも王弟殿下に料理を教授することとなった。

 その間、シャーリルはと言うと、自分も何かを作ろうと勢いだっていたのだが、侍女が数十人単位で彼を止めていたのだった。『食通のルーベが美味いという料理を作った』という自信があるせいで、彼女たちは説得に労を要したが、『ルーベ様がカノンお嬢様にお料理をお作りになられることに意義があるのです!!』と必死の説得によって、カノンが劇薬により絶命するという最悪の状況は避けられたのである。
 今回一番の功労者は、この侍女たちかもしれない。




「と、いう経緯を経て、こんなん作ってきたんだけど、食えるか?」
 ここまでの一連の騒ぎを経て、ルーベはカノンの自室にいた。当然彼らが二人きり、というわけではない。シャーリルとミリアディアも同席しているのである。
 一連の話を聞いたカノンは、目を皿のように丸くして机の上に鎮座し、やわらかい湯気を出している物とルーベを交互に見比べた。おいしそうな芳香がカノンの鼻孔を擽る。彼女は今、乗馬服よりも動き易そうな、どちらかというと騎士の鍛錬の時に着るような服装をしていた。
 その格好を見てルーベは彼女が言わずとも、すべてを悟ったのである。彼の胸には、彼女に対する愛しさがこみ上げる。その彼女の努力に、少しでも役に立ちたいと思って彼が行動に移した『料理』それを見たカノンは涙が出そうなぐらい嬉しかった。
「ご心配を、おかけして」
「心配はした。でも、原因はわかったからそれでいい」
 ルーベは机を挟んで向かい合うよう座っているカノンに微笑んでいった。
「止めろ、とは言わない。けど、無茶はしないで欲しい」
「わたくしが一緒にいるのに、無茶などさせはしませんわ」
 ミリアディアがそういうと、彼はさらに笑ってみせる。カノンはただ首を白い肌を薄っすらと上気させて首を縦に振った。
「ホントは冷たい物のほうが食いやすいんだろうけど、女性は身体を冷やさないほうがいいんだろう?」
 料理長の言葉を思い出しながら、ルーベは真摯に言葉を続けていく。しかし、それはカノンの耳にほとんど入っていない。スープの中に粥が入っているようなそんな食べ物であった。その量はとても少なかった。
「これわざと少なくしてる訳じゃなくて、あまりたくさんあっても、カノン食いきれないんじゃないかと思ってさ」
 しどろもどろに言うルーベに、長椅子の横に座っているシャーリルはきっとコイツはもう何もちゃんと考えて言葉を言っていない、と正確に今の彼の心理状態を把握していた。戦場に出ても威風堂々としている彼が、こんなにも必死になる姿を、多くの第一位階の騎士以下たちが見たら絶句するだろうと内心思って、浅く笑う。
「カノン、食べてあげて。冷めないうちに」
 このままでは折角作った料理が冷え切ってもなお、この二人は会話を続けていそうだと思ったシャーリルが助け舟を出すと、ルーベもカノンもはっとしたような表情になる。お互いが照れたように微笑みあうと、彼女はゆっくりと器に手を触れ持ち上げた。
「……頂きます」
 そういって、匙でゆっくりと中身をすくって口に含む。数度咀嚼すると、カノンはそれを飲み込んだ。唇が濡れて、明かりに光る。不安げな表情を隠しきれない様子で彼女を伺うルーベが問いかける。
「……どう?」
「とても、美味しいです」
 花が綻ぶかのようにそういったカノンの表情に、嘘偽りなど微塵も感じられない。二口、三口と匙を進めていくカノンの姿を見て、彼は安堵したように長椅子にずるりと寄りかかって見せた。安心して気が抜けた、と全身で表現したのである。
「良かったわね、カノン」
「ええ、とても美味しいです」
 ミリアディアに髪を撫でながら、満面の笑みで食しているカノン。多少口出し手出しはされているものの、大よその味付けなどはすべてルーベが作ったものである。彼が作ったものと、称しても何ら恥じらいはない。
 少しずつだが確実に、器の中身が減っていく。戦いに身を任せた彼らの、穏やかある日。たまにはこんな日があっても、四玉の王とて許されるだろうとシャーリルとミリアディアは目配せをして、そんな事を思っていた。彼らに、光があるように。


闇鍋風味に100のお題 6.あなたに光があるように
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