0.夢見る薔薇

「ジュリエッタ様、そのように拗ねられても皆が困るばかりですよ」
「わかっていますわっ! そんなこと!!」
 寝台の上で枕を抱え、大粒の涙をボロボロと声を荒げる少女に、少年は溜息をついた。少女が四人は横になれるほどの大きな寝台の上に座り、涙を流している少女の名前はジュリエッタ・ソープワーク・フィール・ガイアルディアという。ガイアルディア現王の弟である、一の大臣の一人娘で今年で十歳となった彼女は美しく成長していた。
父よりも、母の遺伝子を多く受け継いだジュリエッタは淡い月光を紡ぎ上げたような長い金色の髪に、宝石のような輝きの双眸を持ち、柔らかな花弁のような頬に、朝露を含んだ薔薇色の唇、真珠の輝きを放つ肌を持っていた。
 その少女が、なぜこのような大粒の涙を流しているのか。その答えは単純なものだった。
「お父上は貴女の将来を考えてこのように仰られているのですよ?」
「将来?! お父様はご自分の地位と名誉のことしかお考えじゃありませんわ! 私を政治の道具としてしか見てくださらないものっ!」
 ことの始まりは一昨日の朝、家族で朝食を取っている頃に起こった。父親がジュリエッタの輿入れの話を持ち出してきたのだ。ガイアルディア王国の跡取りは、現王唯一の子どもであり、彼女の従兄に当たるルリアランスであるが、彼に万が一の事があった場合、第二王位継承権を持っているのはこのジュリエッタだった。
 然るべき相手と婚姻を結ぶのは、貴族の娘としては当然の話であるが、彼女の場合、従兄に万が一のことがあったら、この国の上に立つのは彼女自身になってしまう。そのため、彼女の伴侶という人選には細心の注意を払う必要があった。
 よき妻になる為に、と幼い頃から淑女の礼、そして帝王学まで学ばせられているジュリエッタであるが、帝王学の方については才能がまるで発揮されなかった。淑女として、それ相応の成長がみられるが、後者に関しては父親も諦めぎみであった。
 そんな折に上がった話しは、近隣の有力王国に少女を嫁がせて、ガイアルディアとの和平公約を強めさせようという思惑が見て取れた。このような生活に辟易していたジュリエッタは父親の持ち出した話にとうとう堪忍袋の緒が切れたのだった。
 侍女も侍従も近づけさせず、ただ部屋に引きこもり、寝台の上で涙を流し、食事を取る事を拒絶している。水分だけは摂取しているようであるが、この二日間、まともな食事を彼女は取っていなかった。
 癇癪を起した彼女に届く言葉を持っているのは、従兄であるルリアランスか、彼女が兄と言って慕っているゲルトラウト家の次男、ベルフリートだけであった。そこで急遽呼び出されたベルフリートが、家族と少女の許可を得て、彼女の部屋へと足を踏み入れ、現在ジュリエッタを説得している最中である。
 十も年下の少女に手を焼くのは、一人娘だからといって、教育面以外で彼女を甘やかしすぎたせいではないか、と彼は内心密かに思う。
 さめざめと泣き続けるジュリエッタの座る寝台に、ベルフリートは近づいた。
「ジュリエッタ様」
 聞こえていないわけではない少女に、彼は優しく声をかけた。彼は、肩を震わせて泣く少女の頭をそっと撫でる。
「……ベルお兄様はずるいですわ」
「何がです?」
「ご自分のお好きなことが出来るんですもの」
 枕に顔を埋め、泣いていたジュリエッタが顔を彼に向けた。涙に濡れた双眸の中には、ベルフリートしか映っておらず、彼の緑がかった黒の双眸にもまた、少女の姿しか映っていない。
「ジュリエッタ様はご自分のお好きなものがございますか?」
「チェスは好きよ? でも、盤上遊戯なんて何の役にも立ちませんわ」
 大きな瞳から、また一粒涙が零れ落ちた。
「あれをしろ、これをしろ、あれは駄目、これは駄目、言われすぎて何が良くて何が駄目なのかわからなくなります」
 彼女は静かに言葉を紡ぐ。
「たくさん好きなものはあったはずなのに、今、明確に好きといえるものはチェスぐらい。わたくしは、わたくしがわかりません」
「そんなことはないでしょう。貴女はちゃんとご自分の事をわかっていらっしゃる」
「お兄様の買いかぶりすぎですわ。わたくしは一人では何も出来ない小娘ですもの」
 二歳年の離れている、ルリアランスに比べれば何もかもが劣る少女ではあるが、彼女は彼女なりに国を思っている。そのことはベルフリートも知る所だった。
「国のために、いいえ、ルリィがこの国を治めるために私が嫁いだ方が良い国があるなら、その時は喜んでまいります。けれどまだ、今は……」
 ジュリエッタは抱いていた枕を手放し、ベルフリートの胸に飛び込んだ。彼は自分の胸の中で涙を流す少女の背をそっと撫でる。
「ジュリエッタ様」
 優しい声は、それだけで彼女を安心させる。
「貴女の志はとても尊いものだと思います」
 ジュリエッタは無言で首を横に振った。そんな少女に、彼は困ったように笑ってみせる。
「私は軍人でしかなりえない者です。剣を振るうことしか能のない人間ですから、剣を取る事に、軍籍に身を置くことに何の躊躇もありませんでした」
 名門貴族の出自とはいえ、彼は次男。家督は長兄が継ぐため、ベルフリートの人生にはなんら制約はない。今、口にしたことも本音ではあったが、己の力を磨く事が好きだから命を落としかねない職業軍人になろうと決意をしたのだ。
「でも、貴女は違いますよね」
 幼い頃から自然と「そうなる」と思っていたため、何も疑問に持っていなかったが、この少女は「そうなる」ことを厭っていることは彼にはわかった。
 己の力で掴み取る未来を、少女は望んでいるのに周囲は決して、少女に手を貸そうとはしない。制限のある自由の中で、ジュリエッタの可能性を摘み取っているといっても過言ではない。
「貴女は貴女の未来を開ければいいではないですか。お父上に何を言われても、自分のお好きな道を歩む権利が、貴女にはあります」
「わたくしの、すきなみち?」
 彼の胸に顔を埋めていた少女は顔を上げ、涙に濡れた声で発せられた言葉に、ベルフリートは頷いてみせる。
「そのみちは、どこにあるの?」
「それは私にはわかりませんよ。その道を見つけるのはジュリエッタ様自身ですから」
「でも、わたくしはわたくしが何を望んでいるか分からないわ」
「まだジュリエッタ様はお若い。どの道へ進むか、可能性は山のようにあります。その一つ一つの道を見極めて、道を決めればよろしいかと」
 彼女の頬を流れる涙を拭いながら、ベルフリートは優しく言った。 その言葉に、ジュリエッタも小さく頷いてみせる。
「ではジュリエッタ様、お食事をお召し上がりください。何をするにしても、体力がなければどうすることもできませんからね」
「……でも、暫くはお父様のお顔なんて見たくありませんわ」
「……その旨をお父上にお話なさればいいのでは?」
「その言葉を告げに行くのも嫌。ねえ、お兄様、お父様に伝えて頂戴。伝えてくださるんだったら、ご飯も食べますわ」
 ジュリエッタが本当に信頼できる人間は、従兄と彼しかいない。縋るように彼を見つめる事数十秒。いつも折れてくれるのはベルフリートのほうだった。
「分かりました、お父上には伝えておきます。ですから……」
「お兄様なら分かってくださると思いましたわ! これだからお兄様は大好きです!」
 先ほどまでさめざめと泣いていた少女であったのに、今は満開の花のように笑っていた。現金なものだとベルフリートは内心思う反面、このくるくると変わる表情も彼女の魅力のひとつだと感じている。
 頼られるうちが花だ、と思いつつ、とりあえず侍女を呼ぼうと声を掛けようとした瞬間、それを察したジュリエッタがベルフリートに体当たりをした。完全に油断をしていた彼は、あっさりと彼女に倒され、寝台に仰向けに倒れる事になった。
「ジュ、ジュリエッタ様?」
「まだ人を呼ばないで下さい。部屋に侍女たちが入ってきたらお説教の山ですわ」
「……それだけのことをしたということは自覚していただかないと」
「それに、お兄様、あとの事は侍女達に任せてお帰りになられてしまうおつもりでしょう?」
「……いけませんか?」
「ええ、いけませんわ。お兄様と久しぶりにお会いできたのに、これでお帰りになられるなんて冷たいです。折角ですからわたくしとご飯を食べてから帰ってくださいな」
 涙で目が腫れてはいるものの、それ以外は平素のジュリエッタと変わらない。ひとつ文句をつけるのであれば、ジュリエッタがベルフリートの腹の上に乗って好き勝手にことを進めようとしている所だけである。
「ジュリエッタ様、上から降りてください」
「お食事が終わったら、チェスをしましょう、お兄様。わたくし、また強くなったんですのよ」
「ジュリエッタ様、わたしも戻らなくては……」
「了解してくださらなければ、退きません」
 ここで彼女に怪我をさせずに、自分の上から退かすことは彼には可能だった。しかし、そうすることによってより凄惨な近未来が簡単に予測できるベルフリートは、今日、この屋敷に訪れてから何度目か分からない溜息をつきながら、ジュリエッタに陥落して見せた。
 まだ、十歳。未来を憂い思い悩む必要のない年齢である。この言葉が、少女の心の慰めにどれほどの効果を表すか、彼はまだこの時知るよしもない。ただ、ジュリエッタはこの言葉を胸に、また時を重ねていく。
 いつか、選択する未来を夢見て。


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