未来を予見る者

 少女は、自分の出自を覚えていない。父の顔も、母の顔も、他に家族がいたことも何も。どこで生まれ、この年齢になるまで、どこで生きていたのかさえも、全て記憶に無い。
 彼女の記憶に刻まれている自分の歴史は、白い手によって導かれたその時からのものであり、その瞬間こそが、少女が少女として産声を上げた時だったのかもしれない。
 暖かな陽光がさんさんと降り注ぐ、ある日の午後。少女は、その小さな外見とは似つかわしくない重厚感の溢れている机に座り、積み上げられた本を読み耽っていた。少女は、正確に言えばこの部屋の主ではない。それでも、この場所を気に入っていることは間違いないだろう。この部屋には彼女の望む本が文字通り、天井に届くほど鎮座している。
 それは歴史に関わるものから、俗な猥本まで種類は豊富で、この部屋の主の趣向が読みきれない。それでも少女はこの部屋の本を全て読み尽くすために、ただひたすら文字を追い、自らの知識になる情報を脳に摂取させていた。
「……」
 本に意識を集中させていた少女は、ふと、遠くの方で自分を呼ぶ声を聞いた気がした。待って、と少女は思う。あと少しで読み終わるから、あと少しだけ放っておいてくれ、と。しかし、遠くで聞こえる声はそれを許してはくれなかった。
「出入り禁止にしますよ、アイネルト」
「!」
 弾けるように本から顔を上げた少女は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。くりくりと大きな漆黒の双眸には涙さえ浮かべている。
「し、し、師匠、それは……っ!」
 それだけは勘弁してくれと表情で訴える少女に、『師匠』と呼ばれた男は甘やかに微笑んで見せた。
「ではアイネルト、食事を摂りにいきましょう。脳にばかり栄養を与えても駄目だといつも言っているでしょう?」
「はい」
 ともすれば、寝食を忘れ知識を得ることに没頭してしまう少女をそう窘めると、男はすぐに踵を返した。そのあとを、名残惜しそうに本を閉じ、机の上にそっと置いた少女が小走りで続く。
窓から指す日差しは頭上高く上がり、時間が正午であることを示している。この数十秒後、昼を知らせる鐘が国中に鳴り響いた。

彼らは食堂には向かわず、ある部屋へと向かった。部屋の主へ入出の許可を取るための合図もせずにその部屋へと足を踏み込んだ。
「遅ぇ」
 柄の悪そうな口調と目つきで席についていた男は、無遠慮に部屋に入ってきたことよりも、食事の時間に遅れたことを咎める口調で言った。
「すいませんね。本の虫を捕まえに行っていたものですから」
「ああん?」
「申し訳ありません」
 顎をしゃくるようにしてこちらを見る大男に、少女 ―――先ほどアイネルトと呼ばれていた子ども――― はすぐさま頭を下げた。頭の左右に高く結んだ黒の髪が、頭を上下させる動きで跳ねる。
「……ったく、本ばっかり読んでやがると脳みそが腐るぞ」
 子ども相手には強く出れないのか、男は苦虫を噛み潰したような表情をしてそう言葉を吐き出すと、この話は終いだ、と言わんばかりに会話を切った。
「往年の名将も子ども相手には形無しだな」
「第一、四十も過ぎてる大人が飯ごときでそう目くじらを立てるな、みっともない」
 そう言って喉でクツリと笑った男たちを、彼は射殺さんばかりの目つきで睨みつける。ここに顔を揃えているのは、一世代前、ガイアルディア王国の軍を率いていた者たちである。剣を持つ者ならば、その名前を耳にした事がないものはいないと言われるほど、彼らの存在は絶対的なものだった。
 前ガイアルディア王国軍の総司令官の名前はスティアラン・フィルーネ。四十を過ぎても子どものようなことを言う大人気ない軍人は、いまは近衛兵団所属の、王専属の護衛官として手腕を振るっている。彼の部下である、レヴィ・クォーツも、コーネリア・アルムホルトも、レイジス・ルサフォーネも王国軍を離れ、近衛兵となった。
 それが現在昼食を取ろうとしている面子である。そこにあるのは朗らかな笑いであり、仲間同士に許されたじゃれあいのような会話であるが、ひとたび剣を握れば彼らの人格が様変わりしてしまうことを、アイネルトは知っていた。
「無駄話もほどほどにして食べましょうよ」
「一番遅れてきた奴が言う言葉か?」
「席に早く座っているから偉いというものではありませんよ、総司令官殿」
「……面倒くせぇ、食おうぜ」
 日が高いせいもあり、食卓に酒こそ用意されていないが、机の上に並べられた色とりどりの温野菜、肉を油で揚げ餡をかけたもの、やわらかい湯気の上がる米とパン、そしてスープ。並べられた食べ物に、アイネルトの忘れさられていた空腹中枢が刺激された。
 席に座り、手を合わせると誰よりも先に言葉を口にした。
「いただきます!」
 命に対する感謝を教えたのは少女の師。彼は目を細めて頷くと、同じ言葉を口にしてから食事に手をつけた。大の大人たちはそれをみて苦笑し、苦笑しながらも少女に習い手を合わせ食事に手をつけた。
 何てことはない、日常のひとこまである。
 彼が、アイネルトをここに連れてきた頃こそ、彼女は小動物が口いっぱいに食べ物を含むように、今を逃したら次いつ食事が出来るかわからないといわんばかりになりふり構わず食に没頭していたものだが、今は落ち着いて食事が出来ている。いい傾向だ、と彼は思う。
「師匠、私の顔についていますか?」
「いいえ。連れてきた頃に比べると、作法が板についてきたようだなと思っていたんです」
「うわぁ、黒歴史……」
 食事中だというのに、アイネルトは机に顔を伏した。
「そうだなぁ、お前がガキを拾ってきたって聞いた時はお稚児趣味だったからだとばっかり思ったもんだ」
「稀代の名軍師を捕まえて大層な物言いですねぇ」
「ハッ! 言ってろ、人畜有害詐欺師が」
「参謀が人畜有害な上詐欺師でどうします。この上なく人畜無害でしょう。世の為人の為に身を粉にして働いているのに」
「本当にあくせくしてる奴は、身を粉にして、なんて言葉使わねぇよ」
 スティアランの軽口に、さして気分を害された様子もみせない彼は、軽口を投げかけた男へ視線を向けた。
「私がアイネルトを拾ってきたことよりも、あなたがルフィを助けた逸話のほうがよっぽど驚きが強かったですよ」
「ああ、確かにな」
「あの時はスティの皮を被った偽者が現れたのかと思ったぜ」
 スティアランとアイネルト以外が朗らかに笑う。自分以外の男が笑っている様子に、スティアランはばつの悪そうな顔をした。
「別に悪い事をしたわけじゃなかったじゃないですか。スティがあの時ルフィを助けなければ、私たちが今ここで、こうしていることはなかったんですから」
 優雅に茶を飲んだ彼がやわらかく言葉を紡ぐ。確かに、だ。彼らの出会いは劇的であり、その後の関係を築くにあたっては、まるで物語のようであった、と。この場に居る男たちは共有の記憶を脳裏に巡らせる。
「まあ何にせよ、レイジスにしても、スティにしても、子どもがこれほど似合わない人間はいないっつーこったな」
 カラカラと笑いながらコーネリアは片目を細めた。もう一方の瞳に光が宿る事は二度とないが、片目で世界を愛でる事が出来ると彼は言う。この時間がまさにそれに当てはまるとこの時彼は思っていた。
 コーネリアの言葉がこの軽口の一次休止を余儀なくされ、彼らは再び食事に没頭する。数拍の間のあと、ふと、レヴィが言葉を口にした。
「そういえば、噂のルフィはどうした?」
「アイツ? 今頃花園じゃねぇ?」
「……なるほど」
 会話はこれで終わってしまった。彼らが口にする「ルフィ」という名前は彼らのみが口にすることを許されている略称だ。「ルフィ」という人物の正式な名前はパージルフィ・ジン・フォール・ガイアルディアといい、今年で三十六を数えるガイアルディア王国の現王である。
「……国王陛下がお一人で?」
 机に突っ伏していた少女がゆるゆると顔を上げた。アイネルトの言葉に、一同が少女を見る。確かに彼女の疑問も正しい。いくら王城内の庭園であるにしても、護衛の一人も付けずに行くことは、本来なら許されることではない。
「あー……あいつに何かあればオレが気づくから大丈夫だ」
「お言葉ですが、それじゃあ間に合わないんじゃないですか?」
 アイネルトの言葉は最もだ。スティアランがどれほど腕のいい戦士であろうと、守るべき相手が側にいなければその手腕を発揮できない。ましてや、見てない状況で何かがわかる、などという感としかいえないものを当てにしていたら、王の命はいくつあっても足りないのではないだろうか、と。彼女が思うのも無理は無い。
「その辺に関しては大丈夫だ」
 豪快に肉を齧るレヴィは言う。
「ルフィに対する嗅覚が衰えたスティなんてスティじゃねーから」
「へ?」
 アイネルトは我ながら何ともまぬけな声を出した、と思った。
「確かに、ルフィの身に何かが起きそうなのに無反応なスティってスティじゃねぇよなあ!」
「それってただの殺人鬼と同じじゃないですか。ああ怖い」
「好き勝手言いやがるなお前ら」
「自分の行動改めてから言えよ、そういうことはよ」
「事実は事実として受け止めるのが大人というものでしょう?」
 大人たちはそれが当然であるかのように笑い、それを当然だと彼は受け止めた。人は、ひとりになりたい時間と言うものがあるのは理解できる。けれど、王という身分にはその自由は決して決して許されてはいけない。なのに、なぜだろうか。アイネルトは小首を傾げて見せた。その様子をみて大人たちは愉快げに声を立てて笑う。
 ますます彼女はわからなかった。何を言っているんだろうこの人たちは、という思考回路に達したのは彼女が正常だからに他ならない。そんなアイネルトを、育て親である元ガイアルディア軍参謀長官は青玉色の双眸を細め、彼女の頭を撫でた。
「君にもいつかわかる日が来るよ」
 彼女の首は傾げられたまま元に戻らない。確かに、師であるレイジス、その旧友であるスティアラン、レヴィ、コーネリア、お目通りはほとんど彼女は適ったことはないけれど、現王の絆は強いらしいが、彼女にとっては関係ない世界の話だった。
「来年から、士官学校だろう、チビも」
 スティは顎でしゃくるようにアイネルトをさした。
「ええ。軍属にさせるには士官学校で二年学ばせるのが一番ですからね」
「問題のひとつやふたつぐらい起してこいよ、チビ」
「……できれば穏便に過ごしたいのですが」
 アイネルトは淡々と言葉を口にするが、大人たちの豪快な笑い声によってそれはかき消されてしまった。
「アッハッハ、そりゃ無理ってもんだ。お前の姓がそうはさせねーよ」
 スティアランがそういうと、レイジスは苦笑するしかない。残念な事に“ルサフォーネ”という響きは珍しい上、彼が子どもを拾ったという話はあまりにも有名で。
「人目を気にするなら軍人になんてなれねーぜ、チビ」
「別に気にするなんて言ってません。穏便に過ごせるなら、人が遠巻きでも構いませんし」
 同じ年頃の人間と関わる機会が極端に少なく、脳の回転が同じ年頃の人間よりも驚異的に速い少女が士官学校に入学しても、恐らく馴染めはしないだろう、と育て親は思っていた。士官学校への入学は将来の選択肢を増やす為だ。その選択肢はわずかであるが。容姿端麗でともすれば女性に見まごうばかりという容姿を有しているレイジスではあるが、男である。決して女でもなければ、間違っても母親でもない。父親にもなりきれてない自覚が彼にはあった。
 ただ、護身術程度を仕込み、生きる為の盾となり剣となる知識を片っ端から教え込んだ。それがアイネルトと名付けた少女に対する彼なりの愛情だったからだ。その気持ちをアイネルトも感じていたし、それに感謝もしていた。実よりも記憶も無い自分を育ててくれた恩に報いる為なら何でもしようという心積もりも変わっていない。
 だから、人間関係、と言うことに対してどこまでも頓着がなかった。興味もなかった。彼女にとっての人は、師匠であり彼の親友たちだけだった。うるさく、暖かく、がさつで、優しい生き物。それ以外に彼女は、興味も示していないことをまた、レイジスは知っていた。
 けれど彼は、人と人とのつながりを教える術を持っていなかった。彼自身、そのつながりを、絆を知ったのはいい大人と呼ばれる年齢になってからである。
「アイネルトには、私たち以外の世界も見せなければならないでしょう?」
「まあ、こんな悪人たちに囲まれたら性格も歪むよなあ」
 あけすけもなく言葉を交わし、それほど愉快でもないのに声を出して笑う仲間が、彼女にも手に入ればいいとレイジスは願って止まない。彼の養い親としての願いが叶うのはもう少し先の出来事だった。

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