2.仰ぐ空は青く

 遠駆け、と言ってもカノンにその経験はほとんどなかった。馬に乗ったときも、翌日はどうしても筋肉痛になっている思い出も記憶に新しい。それでも、カルディナと話す機会など滅多にない好機を逃すつもりはなく、両手で足りる程度の乗馬に挑む運びとなった。
 しかし、カノンはドレス以外の服を持ってきておらず、必然的に衣装からカルディナの世話になることになった。当然、女性の見張り役はつくものの、カノンはカルディナが見繕って来た動きやすい服装に手早く着替え外へ出た。
 屋敷の外には、季節の匂いがしていた。降り注ぐ陽光に、肌を刺す空気。吐き出す息は白くそれでも、世界を感じられる変化にカノンは小さく安堵する。
「カノン、来たか」
「お待たせしました」
「私が昔着ていた服だが、美人は何を着ても似合うな」
 そう言われて、カノンははにかんだ笑顔を浮かべた。彼女の着ている服は極々一般的な白の上衣に、明るい茶色の袖のない短い胴着を着、同じ色の下穿き、そして黒の革製の靴をはいた姿だった。長い髪を高く結び、立ち居振る舞いこそ女性的であるが初々しい青年貴族のようにさえ感じられる。
 それだけ着こなしてもらえれば、眠っていた服も満足だろうとカルディナは内心で思った。彼女は彼女で、片腕は長袖、片腕は袖のない限りなく白に誓い薄紫の上衣に、カノン同様短い漆黒の胴着と下穿きをはき、革製の長靴の中に下穿きを入れていた。着こなす姿はまるで凛とした青年戦士である。しかし彼女たちの体つきが唯一それを否定させていた。
「帝都の貴婦人が馬に乗るなど、ディジー・アレンの人間は信じられんだろうな」
「実際そうですよ。貴族の女性は足を広げることなんてしないわ」
「では、君は?」
「ドレスならいざ知らず。それに、私の知っている貴婦人は状況によって、馬に跨る行為なんて歯牙にもかけないもの」
 用意された馬に、蝶のように跨るカルディナに対して、カノンはゆっくりと慎重に、また人の手を借りて跨った。彼女に手を貸した騎士、ジェルドは苦笑をしながら彼女を見上げていた。
「馬上から女性を引き上げたことはあっても、下から手を貸したことは初めてですよ」
「ジェルド様でも、女性に何かすることが初めて、のことがあるのですね」
 馬上で笑いながらそういうと、彼も肩を竦めるしかない。一方の居残り組みはそれを眺めて方や溜息をつき、方や視線で人を射殺そうとしているようだった。
「ジェルド、くれぐれも……」
「心得ておりますよ。カノン様とカルディナ様は命に代えてもお守りします」
「テメェにディナを守らせてやるほど、うちの連中は落ちぶれてねぇよ!」
 ジェルドがルーベの言葉に答えきるよりも早く、彼の隣になっていたテオドールが怒鳴る。勿論、彼の言葉に鼓舞されるように彼の人選で選ばれた護衛の二人も力強くうなづいた。その様子に、女性二人は小さく微笑み合った。

 遠駆けといっても、そこまで離れた場所へ行くわけではない。せいぜい、馬を走らせて半刻と言った場所だ。その距離でも、カノンのような素人には荷の勝ちすぎる距離だった。辛うじて着いていけたのは、カルディナが加減してくれて走ってくれたのと、カノンに宛がわれた純白の牡馬が人間に対し従順でとても賢かったからに他ならない。
森が開けた広場、泉があるそこはカルディナが気に入っている場所だった。太陽に照らされた湖面が、宝石のように輝く。深い碧色の泉は嘘のように美しい光景である。カノンは小さく息を漏らす。
「美しいだろう?」
「ええ、とても」
 馬上で手綱を操りながら、カルディナは言葉を紡いだ。
「屋敷の喧騒など、ここには関係ないからな」
 確かに。季節のせいか、小鳥のさえずりなどはないが、僅かな風で揺れる寒さの中でも梢の音や揺れる湖面の美しさだけでも心が安らぐ。
 カルディナは鮮やかな動きで馬から下りた。そして、カノンの馬に近づくと、それが当然のように彼女に手を差し出した。お互いの間に信頼感があるということが、周囲の目から見ても分かる。テオドールがみたら怒鳴りだしそうな光景であるが、その当人はこの場にいない。
 この世界では、馬を木に繋いでおく必要はない。動物もある程度魔力で制御されており、人に危害を加えることはまずない。しかし、カノンが触れた生き物たちはその制御から外れることが出来る。その旨をカルディナに伝えたが、カノンが乗った白馬はそれでも逃げ出す心配はないと彼女は笑う。
 身近な芝生の生えた地面を踏みしめ、カノンは深呼吸をした。それはこれから動くためへの緊張を解すための仕種だった。その呼吸は、久々の開放感を満喫しているように見えればいいと、彼女は思った。
 ふと、背後から視線を感じた。それは間違いなく、カルディナの視線だった。カノンは間違えようのない視線の意図する所を確実に理解していた。
「カノン様? どうされたのですか?」
 ジェルドの声がカノンの耳に届いた瞬間、彼女は地面を蹴った。
「なっ! カノン様?!」
「リュミエール、お願いっ!」
 まともに走りあって、第一位階の騎士の、以前に、男性の脚力に彼女が勝てる通りがない。だから彼女は頭のいい愛狼に命じたのだ。『彼の足を止めるように』と。リュミエールはまだまだ成狼とは言いがたい大きさではあるが、牙をむき出し相手を威嚇するさまは大人とそう変わらない。
 鬱蒼と繁った森へと向かうカノンの背中を見やりながら、ジェルドは頭を掻いた。
「お前、私が団長に殺されそうになったら助けてくれるんだよね?」
 そうでなければ、このような状況で平静ではいられないよ? と屈んで狼に話しかけるも、リュミエールは尻尾さえふらずにジェルドを見やる。暫く彼を見つめ、カノンの妨害をしないとわかると興味が失せたのか、銀色の尻尾を僅かに揺らしながら、彼女が消えた方角へ少しだけ歩み寄り、地面に伏せ、目を閉じた。
 彼女のあとを追おうとするものがあればそれを防ぐし、それがなければここで主人の帰りを待つ、という体勢であることは誰の目で見ても明らかだった。
 やれやれ、といった心持でジェルドが立ち上がると、今度は自由都市の戦士たちが泡を食っていた。
「そ、総督?!」
「あの方もどちらへ?!」
「さ、探せ! 総督に何かあったら、テオに殺されるぞ!!」
 バタバタと静かな湖畔に有るまじき状況に、ジェルドは髪を風になびかせながら一人ごちる。
「これはこれは。ご婦人方に一本採られたかな」
 確かにこれがテオドールとルーベにばれてしまえば、拳の一撃ではすまないだろうことは容易に想像できた。しかし、女性が『男子禁制』とするのであれば、こちらがわから手を打つというのは無粋以外の何者でもない。
 ジェルドは、やれやれと肩をすくめた。そして、ちょうどよい大木を見つけ、それに歩み寄る。
「姫君たちの密談も終われば、姿を現すでしょうしね」
 そういうと、彼はその場に座ると大木に寄りかかり、その双眸を閉じた。何せあのルーベですら手に余している部分のあるお嬢様である。自分が何かをしたところでどうしようもないだろう。そう結論づいたジェルドは慌てふためく自由都市の戦士たちを他所に、そっとその瞳を閉じた。


「カノン、大丈夫か?」
「う……、うん。ごめ……なさい、体力がなくて……」
「仕方ないことだ、元々が違う」
 カノンが真っ直ぐに森を走っている間、カルディナは追っ手を引き払うように蛇行しながら走り、途中で彼女と合流した。既に息を乱しながら走っていたカノンに対して、彼女はまだまだ余裕と言う表情をしていた。
 彼女たちは小さな滝のある場所へと向かっていたのだ。この場所はカルディナの極々親しいものではないとしらない、彼女のお気に入りの場所だとカノンは告げられた。その場所は確かに、滝から生まれる小さな飛沫が差し込む光に照らされ輝き、寒い時期に咲く種類なのだろうか、見慣れない小さな花々が咲き乱れるまるで楽園のような場所だった。帝都での喧騒が耳に届かない、美しい空間である。カノンは乱れた呼吸を正そうと深呼吸を繰り返すたびに、瑞々しく澄んだ空気を肺へと送り込んだ。
 ゆっくりと空気を吸う感覚さえ、久しぶりの錯覚に陥るのは、彼女たちの置かれている現状が原因であるに他ならない。
「久しぶりに会話が出来るな」
「そんな感じね」
 カルディナが滝から生まれている小さな川の始まりの水をすくいそれを口に含んでいる。カノンもそれに習い、膝を折って水をすくった。冷たい水が、走ったことによって熱を孕んだ体に染み渡る。喉を動かして水を飲むと、彼女たちは息をついた。そして、乾いた地面に腰を下ろす。
 緩やかな風が梢を揺らし、
「屋敷の中は息苦しいだろう?」
「正直。でも、仕方がないことだと思ってるから」
「すまない。私が不甲斐ないばかりに」
「ディナのせいじゃないわ。むしろ、私も貴方たちを利用してしまって、ごめんなさい」
「……見張りの件か?」
「ええ」
 カノンの謝罪の言葉に、カルディナは目を細めた。
「あれは最善の策だろう。カノンが気に病む必要はない」
「それでも、あれでは私たち帝都から来た人間の安全だけしか考えてないもの。随分自分勝手なことを言ったわ」
「身内を守りたいというのは当然の思いだ。私とて、それは変わらない」
「ディナ……」
 両手を強く組んだカルディナの美しい形の眉が歪んだ。
「本当に不甲斐ないな。大切な民を守れず、何が提督だ。聞いて呆れる」
 自らを不甲斐無いと言うカルディナの悲壮なまでの表情に、カノンも心を痛める。そっと彼女の肩に触れながら、彼女は言葉を紡ぐ。
「そんなことない。ディナは出来ることを最大限してるじゃない」
「雲や霧と戦って成果を出せずにいる姿を、敵は私を嘲笑ってるだろうな」
 自嘲のように言うカルディナに、少しだけ言葉を迷うような素振りを見せたカノンであるが、意を決し、腹に力を入れた。そう、今日、彼女はただ気分転換にきたわけではない。ましてや傷の舐めあいをしにきたわけでもない。
「……多分、犯人は私たちを嘲笑ってないと思う」
「何故だ?」
「勘、何だけどね。聞いてくれる?」
「無論だ。そのためにわざわざお前に体力を消耗させたのだからな」
 カルディナの双眸がギラリと光った。それはカノンと対等に話をしてくれる彼女の姿ではなく、自由都市ディジー・アレンを背負う総督としての瞳だった。本来であれば、自分が対等に言葉を交わせるような存在でないことを承知しながら、カノンは意を決して唇を動かした。
「犯人は多分、殺すことに対して何も思ってない人。強いて言えば、殺す作業が好きな人たちであって、殺す相手は別に私たちじゃなくても構わないって思ってると思うの」
「何故そう思う?」
「だって、もし誰かを殺すことを目的としてるなら、ディオ様が狙われてもおかしくないし、ディナがもっとあからさまに狙われててもおかしくないでしょう?」
「……こちらが警戒をしているから」
「だとしても変じゃない? 警戒してても殺す相手が決まっていたら、もう少しその人の近くの人を殺して、恐怖心を煽るとか」
「人物を特定させず、いつ自分が殺されるかと不安に思わせておく作戦かもしれないだろう」
 言葉を尽くしても、経験則があるカルディナと推論だけでしか言葉を表現できないカノンとでは、色々な差がどうしても出てしまう。ついに黙り込んでしまうカノンだったが、それでもなお言葉を口にする。
「変な感じがするの。上手く言えないんだけど」
 そう、それは漠然としたもの、としか言いようがない感覚だった。
「怖いと思うのは。淡々と人を殺してるように見えるところ」
「どういう意味だ?」
 カルディナが小首を傾げると、甘い柔らかな茶色の髪が揺れる。
「私は実際亡くなった人を見てないけれど、人の命を奪うっていうことだけを考えた殺し方だって聞いてる」
 ルーベが口にした言葉が脳裏を反芻する。また、彼が口にした『鴉』という存在のことも。ただこれは彼らに提示すべき情報ではないため、それ自体は彼女には伝えない。
「殺しの専門家とでも言いたいのか」
 それに近い単語が出たところで、カノンはあくまで自分の推論だと頷いてみせる。
「殺すだけでそれ以上でも以下でもないって怖いことだと思うの」
「人の生死に感情も何もないだろう。死ねば何も残らない」
「……誰かの心には、その人が残るわ。少なくとも私はそう思う」
「殺しすぎたら、どうだ。騎士団長殿とて、今まで切り捨てた相手をいちいち覚えているとは思えん」
 この言葉は、カノンに対しての悪意が少なからず含まれている言葉だった。人を傷つけたことのない人間の言葉だと、あからさまに彼女は告げる。
「カノンの考え方は、甘い。生きるか死ぬかにおいて、感情など不要だ。足かせになるだけだ」
 その言葉に、カノンは不意に悲しさに襲われた。違う、そうではない。と言いたかったのだがカルディナの気持ちを覆せる言葉を彼女は持ち合わせてなかった。確かにカノンは人の死に触れたこともなければ、人を殺めたこともない。だが、しかし。
カノンは上手く言葉が彼女に伝わらないことが、もどかしかった。
 二人の間に沈黙が生まれた。ここにきて初めての沈黙は、彼女たちの間にある埋められない差を露呈しているかのようであった。その沈黙の時間が、カノンには数分にも感じられていたのだが、それはカルディナの声で終止符を迎える。
「だが、少しだけ掴めた気がする」
「何を?」
「正確には散っていた思考がまとまったといったところかな」
 彼女は地面に向けていた視線を空へと上げ、唇を動かした。
「相手は殺しの専門家であり、私たちを精神的に追い詰める愉快犯ではない。特定の人物の命令に対して一定の成果を上げることを目的としている。最終的な犯人の目的は、自由都市(我々)と帝都(お前たち)の仲を完全に分断させること。そのために、状況を混乱させる必要があり、これからもそれは継続されていくだろう。そして、犯人は我々でもお前たちでもない第三の存在だ、ということだ」
 一気に彼女がそう言い切る。そして、大きく息を吸った。そのまま息を吐くとどうzに別の音を彼女は奏でる。
「恐ろしいな」
「え?」
「分かっていても、私はお前たちを疑ろうとしてしまう」
 カルディナは苦笑いをしながらカノンを見やっていった。苦笑いではあるが、その姿はまるで泣きそうな少女のように彼女に映っていた。
「人の心とはそういうものだ。いくら違うと否定しても、近くに答えがあるかもしれないと」
 彼女は顔を上げた。視線の先には澄み切った青の空が広がっているというのに。彼女の表情はどこか虚ろだ。
「お前の首に手を伸ばして、ことが解決するならば。私は間違いなくお前を殺しているよ」
「……ディナはそんなことしないわ」
「ああ。ディジー・アレンの総督としてそんな酔狂なことは出来ないさ。ただ、一戦士であったら……。いや、これ以上はよすか」
 水の流れる音と、梢の音がなかったら。この世界はどうなっているのだろうかと思うほどの静寂が二人の世界を襲っていた。これ以上の言葉は怖くて紡げなかった。たった数日で、見えない何かが彼女をこれほどまでに追い詰めているのだ。
 カノンは小さく、自分の無力な手を握り締めた。
「カノン。私はお前を信じている。だからこそ、自分は自分で守ってくれ。私はお前を守ってやれない」
「守って欲しいと思ってないわ。大丈夫、ディナ。私のことは気にしないで、ディジー・アレンのみなさんのことだけを考えて。早く、犯人を捕まえましょう。こんな馬鹿げたことを終わらせるためにも」
「……ああ」
 息が詰まる。目の前の景色が歪む。誰が誰を苦しめるために行っているのかわからない。霧や雲のように、見えない何かが手を伸ばしてくる。恐怖で体が動かなくなる前に、どうにかしなくてはならないけれど。
 カノンもカルディナのように空を仰いだ。鬱蒼と繁る緑で太陽が見えない。それはまるで今の自分の心のようで。カノンはそっと目を瞑り、その光さえも自分の双眸へ映すことをやめた。


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