12.穏やかで、穏やかな

 ルーベたちがディジー・アレンに訪れてからさらに二日が過ぎ、今日は既に五日目。彼らの生活には何の変化もなかった。観光に来た、という表向きを表向きのまま、時間を過ごしていたのだ。
 ただ、二日前に起きた事件だけは、確実に状況を動かしている。連れてきている第一位階の騎士たちは、勇猛果敢なディジー・アレンたちの戦士たちと少しずつではあったが距離をなくしていっている。いい兆候が見えていた。
 しかし、その戦士たちを纏め上げるテオドールは依然としてこちらを警戒したままだった。ルーベと剣を交えて以来、その傾向は強まったように見える。また、それ以上に、カノンに対しての風当たりが厳しくなった。
 目もあわせず、口も聞かない。カルディナと仲睦まじくしていることも気に喰わないようである。ようは、彼女のなす事全てが気に障るといったところだろう。そのような反応をされること事態、カノンは初めてで、どう彼と接すればいいのか困惑していた。
 以前、カズマにも似たような態度をとられた経緯のある彼女であるが、その時の比ではないような態度をとられてしまっているのだ。カルディナにしても、ルーベにしても気にしなくていいと言ってくれるため、特段行動を起していないものの、あれだけ避けられると逆に気になるのが人としての性である。
 その夜も、カノンは自分の髪の手入れをしながら小さく息をついていた。
「どうした?」
「いえ、別に……」
 寝台に体を預け、なにやら書物に目を通しながらルーベはカノンに言葉をかけた。
「疲れたか?」
「そういうわけではありません。ただ……」
「テオ、か?」
 彼の言葉に、カノンは苦笑で返した。彼女の表情に、またルーベも少しだけ困ったように眉を顰めた。
「悪い奴じゃないんだけどな」
「はい」
「カルディナが絡むと途端に小難しくなる奴なんだよ、昔から」
 読んでいた本を寝台付の小さな棚に置きながらルーベは遠くを見つめながらそういうと、カノンは可笑しそうにクスクスと笑った。
「でも、それだけディナのことを大切に思ってるんですよね?」
「ああ」
 彼女とて、テオドールを悪人などとは微塵も思っていない。ただ、自分を嫌っているだけだということが良く分かっており、それ以上に彼がカルディナを愛している事を知っているから、現状を甘受できていた。
「にしても、よく彼女が許したな」
「え?」
 カノンは鏡越しにルーベと視線を合わせながら小首をかしげた。
「軽々しくディナと呼ばせてくれるほど、他人に許容深い奴だと思ってなかったけどな」
「優しい人です、ディナは」
 彼女がそう微笑みながらいう答えると、ルーベは鏡越しのカノンに言う。
「カノンには人の心を動かす何かがあるんだよ」
「そんなこと……」
「なかったら、騎士たちがオレの側にお前がいるのを許したりしないし、リュミィがなつくことだってない」
 そう言いながらルーベはもう籠の中に納まる大きさではなくなり、大柄の犬、と言うには少々無理がある体躯になったカノンの愛狼を見やった。もう既に眠りの世界に誘われてしまっているが、野生の狼を手懐けた彼女の手腕は目を見張るものがある。例え、命を救った恩がわかるといっても、だ。
カノンは、この世界の動物が魔術によって少なからず統制されており、人に刃向かわないようにされていることを知らない。野生の動物たちはこの世界で自由であっても、決して自由ではない。その枷を外せるのはこの世界ではカノンだけなのだ。魔力が効かない彼女の側にいれば、動物にかけられているそれも自然になくなってしまっているといっても過言でないほど弱まる。
 そのため、動物にとっては彼女の側が居心地が良いのであるが、リュミエールの場合もちろん、それだけの為に彼女の側から離れないのではないということをルーベは重々承知していた。
 銀狼の功績は労を労って余りあるものである。安らかな寝息を立てる狼を見やっていると、カノンが言う。
「ルーベ様はいつも私のことを過大評価してくださいますね」
「そんなことないさ。カノンは自分の価値を分かってなさ過ぎるだけだ」
 二人は軽く笑いあった。盗聴をやたらに心配する必要もなく、外からは穏やかな風と梢の音が響く。穏やかで、穏やかな夜だった。カノンは櫛を鏡台に置くと、椅子から立ち上がり、ゆっくりとルーベがいる寝台へと移動した。もう幾日目のことで、慣れたと心に言い聞かせても、実際の所、慣れたとは言いがたい心地である。
 それこそ、最初の数日は眠りが浅かった。いっそ枕で防波堤を作れば心安らかになるかとも思ったが、それではあまりにもルーベに失礼だと思いなおす。寝顔を見られることが恥ずかしいわけではない。ただ、側にルーベの気配が、匂いがすることに慣れないのだ。
 いっそ、カルディナが気づかせてくれなかったら良かったのに、と逆恨みに近い気持ちさえ抱いてしまう。……好きという気持ちが、このような気持ちだとしたら。話すだけでも幸せになり、笑顔を見ると嬉しくなる。側にいて欲しいと思うけれど、手を伸ばす勇気が持てない。
 カノンはまだ、自分の感情を上手く把握しきれていなかった。ただ、分かっていることは、ルーベがカノンにとって特別な存在であるということだけだった。

「なぁ、カノン」
「はい?」
「どう思う、ディジー・アレンを。実際、お前の目で見て」
 既に二人は、象牙色の夜着を身に纏い、寝台に横になっていた。互いにしか聞こえない程度の声で話しかけられるときは、あまり大声で話せない内容の時である。内緒話をするように密やかにする会話の中には、色めいた趣はもちろんない。
 ルーベのその一言で、カノンは人一人分は空いていた彼との距離を詰めた。このような会話をする分には、彼女は彼に対して妙な意識をせずにすんでいた。それは心の中にある甘く柔らかなな気持ちよりも、優先しなければならないことなど五万とあることを彼女は無意識に知っているからに他ならない。
「そうですね。いい国だと思います」
「……いい国、か」
「ええ。少なくとも、今の崩れかけてる帝都よりは安定しているように思えます」
「オレもだ」
 既に明かりが消えている寝室で、片腕を枕代わりにしながらカノンのほうをむいて寝ているルーベは、空いている腕を彼女を抱き寄せるように回していた。彼女も、体をルーベのほうに向け横になり、彼の心音が聞こえてくるような体勢を取っている。
 恋人同士が、ましてや婚約者と呼ばれる身分同士の者が身を寄せ合い、睦言を囁きあうように二人は会話を続けていた。
「戦士の皆さんも、それぞれに意思を持っていらっしゃいますし。地位や名誉の為だけでなく、己の意思で己の為に戦おうとする姿は、下位の騎士様方に見習っていただく必要がある部分があるようにも思えました」
「騎士団を預かる身としては、耳が痛い限りだ」
「戦争をする観点から見れば、鉄壁、とは言わないまでも領地を囲うこの城壁は重宝すると思います。ただ……」
 軽口のようにそう嘯くルーベに言葉を続けていたカノンが少しだけ口ごもる。
「ただ?」
 続きを促すような視線を受け、彼女は再び唇を開いた。
「時間をかけてでも、後背を取られてしまったら、中でその対策を怠っていたら、幾ら鉄壁を誇るディジー・アレンといえども危ないのでは、と」
「……最初から、ディジー・アレンに守りがあるとわかっているんだ。相手だって、相応のことを考えて動くだろう」
「はい。城壁は崩されない。という概念があれば、後背の守備が甘くなるのは必定。あの城壁だって、このディジー・アレン全てを包んでいるわけではないのですよね?」
「ああ」
「でしたら、尚の事。もしこのディジー・アレンを使って戦をするのであれば、後ろの守備が重要になってきます。補給を後背に置くことが多いですし」
 カノンがそこまでいうと、彼女を見ていたルーベが体をはん半転させ、天井を仰ぎ見た。そして溜息混じりに言葉を紡ぐ。
「やっぱそう思うか」
「素人の私ですらそう思うのですから、本業の方々は既に思いつかれていると思います」
「いや、ディジー・アレンは鉄壁は、本業の連中にも常識だ。だから突き崩せない。というのもな。余程馬鹿な奴じゃないと、そんな危険な賭けをしようとはしないだろう」
 ルーベは一拍間を置いてから、顔だけカノンに向けて呟いた。
「まあ、そういう馬鹿な連中を、オレは何人か知ってるがな」
 その言葉にカノンも沈黙する。二人の会話が途切れてしまえば、室内に響く音は何もなくなる。ルーベの示唆する何人かを、彼女はわかっている。脳裏に浮かんでは消えていく人物たちの何人が、それを実際に仕掛けうるかは検討もつかない。出来る事ならば、そのような事態にならなければいいと切に思う。
 思わず真剣に考えてしまったため、暫くルーベの視線に彼女は気づかなかった。はっとして顔を上げると、柔らかく目を細めたルーベと目が合った。
「にしても、カノンもいっぱしの軍師っぽくなってきたな」
「! いいえ、私なんてまだまだ……」
 カノンが否定の言葉を口にすると、彼はまた目を細めて彼女を見やる。
「同じ年頃の女なんて、自分の外見と嫁ぎ先のことしか考えてないだろうに」
「……ルーベ様、それは女性に対する偏見です」
 珍しく女性軽視と取れるルーベの発言を、本気でないと分かっていながらカノンはたしなめた。
「悪い、けど。そう思われる程度には、そういう女が多いのも事実だ」
 ルーベは悪びれた様子もなくそう口にするのは、恐らく彼の立場ゆえだろう。
「ルーベ様はそのような女性が苦手ですか?」
「苦手っつーか……。そういう人間に好かれるのは、あんまいい気分じゃないんだよな。自己顕示欲が強いっていうか」
「女性は大なり小なりそうですよ」
 ルーベは眉間に皺を寄せ、辟易とした表情で言っていたがふいに、表情が柔らかくなった。自由な手で、カノンの髪をひと房掴む。
「でもカノンはそうじゃないだろう?」
「え?」
 神経の通っていない髪であるにもかかわらず、ルーベに触れられた部分が熱を持って、カノンの体に伝わっているかのように、顔が熱くなるのを彼女は自覚した。
「カノンは、“騎士団長”だとか、“王弟”だとか、“第二王位継承権保持者”だとかいう目線でオレを見てる?」
「いいえ」
 ルーベのことは、ルーベとしてしか見ていないカノンは彼の瞳を真っ直ぐに捉えて即答した。この言葉に、彼は嬉しそうに笑った。その表情はまるで子どものようで、また、彼女の心音は高く鳴る。
 くるくると、自身の指先にカノンの柔らかな髪を巻きつける仕種をしているルーベは満足そうに笑顔を浮かべた。
「正直、金と権力を気に入ってる女は苦手だ。だけど……」
「私は、ルーベ様が例え下町で盛り場を切り盛りしてる商人でも、お慕いします」
「カノン」
「だって、ルーベ様はルーベ様ですもの」
 極々自然に、カノンの口から出た言葉だったが、これ以降、二人の間にはたっぷり数十秒に渡る沈黙が生まれてしまった。言われた本人も、言った本人も虚をつかれた形になったのだろう。そのたっぷりとした沈黙を破ったのはルーベだった。
 感触を楽しんでいた、絹糸のようなカノンの髪から指を離すと、彼女の頭をそっと撫でながら、耳に心地よい声で眠りにつくことを提案した。

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