10.合鍵の行方

カノンは昼だというのにまるで朝露を含んでいる森にいるような錯覚に襲われていた。日が高い時分だというのに、この庭はとても瑞々しく、新鮮な空気を醸し出していた。
 ひとえにそれは、この土地に住まう人々の心を反映しているのかもしれないとさえ感じている。三日前に足を踏み入れた、このディジー・アレンという国は、比べるまでもなく都とはまるで違う。
 貴族と一般市民のような垣根はない。ここにはルーベが理想とする平等に近いものがあるようにカノンは感じていた。接する人々は一様に笑顔で歓迎してくれていた。恐らく、こちらが敵意を向けなければ彼らは友好的なのだろう。彼女はそう冷静に分析していた。
 気になるといえば唯一、テオドールという名の男だった。明らかに彼の瞳に宿っていた光は好意ではなかった。……戦いに身を置く人間は、察する力に長けている。そのために、今回自由都市に自分たちが足を向けた理由が、観光だけではないことを本能的に察したのではないかとカノンは推測する。
 それは間違いではない。来るべき日に備え、この自由都市と言う場所はとても重要な拠点となってくる。今回は、現皇帝へ対する叛乱を起すための第一歩に過ぎない。ルーベが企てている計画の極ごく一部に過ぎない。話し合いで解決できるのなら、それに越したことはない。
 あの人が玉座を明け渡すと、ルーベに譲ると一言言えばいいだけだ。その後のゴタゴタはどうにでも処理することが出来る。ただ……、とカノンは思う。片手で足りる程度にしかあったことのない人だというのに、彼の沈んだ双眸が彼女の脳裏にこびり付いていた。そして、マハラの残した言葉。

「我が君は喜ばれました。貴女が異世界よりいらしたことを。怠惰な生を打破出来ると。それはそれは……」

 まるで生気を感じられないような昏い目をした男だと記憶している男が、喜んでいると。怠惰な生を打破できると言っている、ということは。あの男はもしかしたら戦いをわざと望んでいるのかもしれないとさえ彼女は思っていた。
 それは、あまりにも自分勝手すぎる考えに思えてならない。少なくとも、世界を治めるものとして、そう思っては決していけないものだということぐらい、誰にでも分かる。そしてその言葉から導き出されるものは、あまりにも身勝手な答え。
 彼が争いを、戦いを望んでいるとしたら。彼の望むがままに、今世界が動いているとしたら……。カノンは途中で思考を止めた。自分の考えを否定するように頭を振ると、手入れの行き届いた髪が柔らかに揺れる。
 今は他人の ――― 敵の ――― 心情を考えている時ではないと、自分に言い聞かせた。カノンが今やるべきことは、この土地を知ることだった。散歩と称して辺りを見回り、何処に何があるかを記憶する。それはいずれ役に立つ。無駄になればなったで構わない。何か些細なことでも今はルーベの力になれるのならばそれでいいとさえ、彼女は思っていた。
 年季を感じさせる外壁には、時折蔦が絡まっているが、衰えはまるで感じさせない頑丈さがあり、石畳の廊下もまた傷みは感じられない。一歩足を踏み込めば迷路のような都の城内を考えれば質素であるが、丁寧に使われている屋敷にカノンは好感を持った。
 この数日で、何処に何の部屋があるかを、彼女は把握した。あと知りたいことは、何処に何の隠し部屋があるか、だ。それを探すのは流石に骨が折れるだろう。隠されているものを、不審に思われずに探す、という作業にカノンは長けていない。最も、長けている人間の方が少ないのだろうが。
 総督邸の外周を一回りして、人気のない裏庭の木陰に入ると、彼女はようやく息をついた。吐く息が白く浮かび、何秒もしないうちに消えていく。ディジー・アレンは都ほど、外気温調整がなされていないため、冬の今は普通に寒い。カノンも出かける時は、外套を羽織って外に出る。それでもなお寒さを感じるのだから、普段自分のいる場所はよほど快適に作られているのだと改めて感じる。
 もう一度息を吐いた所で彼女は突然、人の気配を感じた。その人物は突然現れたのではなく、ずっと彼女を追っていたことに、カノンは気づいていない。
「……テオドール様。何か?」
「こんな寒い日に、お嬢様が何してんだ?」
 彼も同じく外套に身を包み、喋るごとに吐く息が白く生まれる。けれど、彼はそんな寒さを感じているような表情を見せなかった。
「散歩です。あまり外に出たことがないので、物珍しくて、つい……」
「アンタらの目的はなんだ?」
 カノンの言葉を遮って彼は言葉を紡いだ。彼女は、その問いかけに咄嗟に答えられなかった。
 どちらかといえば、敵と対峙している兵士のような、そんな雰囲気さえ醸し出しながら彼はカノンに近づいてきた。刃のような鋭さを持つ声色で、彼は言う。それに対してカノンはあくまで平静を装い、笑顔を浮かべ、貴族の姫として答える。
「私がここに着たいと言ったので、ルーベ様が連れてきて下さっただけですわ」
「へぇ。旦那がアンタの我が侭を聞いただけ、ねえ」
 テオドールが顎に手を当て首を傾げる。その仕種があまりにもわざとらしく、カノンも内心警戒を強めた次の瞬間。
「そんなでたらめ通じると本気で思ってんのかよ?!」
 大きな木に寄りかかっていたカノンの肩を彼が掴み、彼女が怪我をしない程度に幹に彼女の体を押し付けた。雷鳴のような怒鳴り声とともに受けた体の衝撃に、カノンの声も詰まる。
「……っ」
 思わず強く目を瞑ったカノンが、いけないと思い目を開けると、鼻先がくっついてしまうほど近くにテオドールの濃い茶色の双眸があった。その事態に、彼女は再び息を飲んだ。彼の低く冷たい声が彼女の耳に注ぎ込まれる。
「吐けよ。何しに来た」
「ですから、ディジー・アレンがどのような場所か見てみたくて……」
「旦那にそう言えって言われてるのか? あの人が惚れた女っつーなら、馬鹿な女じゃねぇのは明白。事情を聞かせてもらうぜ」
 有無を言わせない口ぶりに、カノンは抵抗をしようとした。しかし、肩口を押さえられている腕を払おうと身をもんでも、腕を払おうと両手で押し返してもびくともしない。
「妙な言いがかりはやめて下さい。私は何も知りません」
「どうかな? あ、じゃあこれは旦那の意思じゃなくてアンタの意思? 旦那を唆して何企んでんだ?」
 知らぬ存ぜぬで通してくれるつもりはないらしいテオドールに対して、カノンは恐怖心を抱いた。いつの間にか膝を割られ、体を押さえつけられているこの状態に、彼女は本能的な恐怖さえ抱いていた。けれど、ここで口を割るわけにはいかない。もしここで彼が何か乱暴なことをしたとしても、彼に利益になることは何もない。そんな暴挙には及ばないだろうと思う一方で、拭えない恐怖心を体に出さないことに、彼女は必死だった。
 その時だった。
「我らが姫君に何をしておいでかな?」
「……騎士様がおいでなすった」
 現れたのは、ルーベが連れてきたディライト・フェイル・アース、ジェルド・ゼル・メイク、ヴァイエル・グライド。他にも騎士団の人間を連れてきてはいるが、第一位階の騎士を三人も同行させたことにも自由都市の面々を不審がらせる要因になっていたのだろう。
「貴殿は運がいい。この情景を見つけたのが我らであって」
「全くだ。団長がこんな光景を見たら、有無を言わせず八つ裂きだったぜ」
「そりゃ怖ぇ」
 ジェルドとヴァイエルがそういうと、テオドールが鼻で笑った。そんなこと関係ない、といわんばかりの態度だ。彼はゆっくりとカノンの肩から手を離し、三人の騎士に向かって言葉を向けた。
「アンタらが何を企んでるか知らねぇが、俺たちを巻き込むなよ? 兄弟喧嘩は身内だけでやりやがれ」
 それは間違いなくカノンにも、今この場に居ないルーベに対しても向けられている言葉だった。
「ここは俺たちの庭だ。法も正義もお前たちにはない。語る資格もない。とっとと消えな」
 テオドールがそう言い放つと、辺りはしんと静まり返った。風さえやみ、木々の梢さえ響かない。
「確かに、そうですわね」
「カノン様?!」
 騎士たちが驚愕の眼差しで彼女を見やる。これを認めてしまっては、ここでの動きを制限されてしまいかねない。カノンの言葉を聴き、テオドールが再び彼女を見やる。
「許可もなく辺りを散策してしまい申し訳ありませんでした」
 彼女の琥珀色の双眸は、テオドールだけを写す。彼女は彼から目を逸らさずに、恐怖の対象である彼に近づいた。
「ですが」
 次の瞬間、三人の騎士も、そしてテオドール自身も何が起きたかを理解するまでに数秒の時間を強いられた。恐らく自覚したのは、乾いた音が消えた頃だろう。恐らく、事態を把握できても、脳が理解をしなかったのだ。まさか、よもや、と。
 誰が想定したであろうか、あの大人しい少女が大の大人に平手打ちをするとは。
「私、そんなに大人しい女じゃありませんから。これぐらいさせて頂いても文句は言われませんよね?」
 三人の騎士たちは、少女を窘めることさえ出来ずに絶句してしまった。カノンは今、怒っている。それを感じ取ってしまったからだ。
 確かに、目の前の戦士の言うことも一理あるとカノンは思う。一方の見方をすれば、この争いはルーベと皇帝の兄弟喧嘩で話が済んでしまうものなのかもしれない。けれども、その争いで関係のない人間が血を流すことになる。五月蝿い人間がそれに乗じて、何かしでかすかもしれない。
 その喧嘩に救いの手を差し伸べてくれと希うことさえ、筋が違っているのかもしれない。だけど、この国に住まうものとして、かつて同じ敵に向かい剣を取った盟友として、話ぐらいは聞いてくれても良いのではないか。
 彼が、ルーベがどんな思いを抱いているかも分からないで、眼前の男は何を言っているんだろうか。カノンは自分勝手だと思いつつも、腸が煮え返る思いを抱いていた。自分に対する雑言など、どれほど言われても気にならないけれど。
 あの優しい人に対する暴言は、許せない。
「安全な箱庭で、正義を振りかざすまねごとをお楽しみになられませ」
「……何だと?」
「盟友が聞いて呆れました。この程度の方しかいらっしゃらないディジー・アレンはたかが知れているわ」
 わざと、カノンは彼女らしからぬ相手を傷つけ、挑発するような言葉を選んでテオドールに言った。
「……てめぇ!!」
 テオドールは怒気と殺気を抑えようともせずに放ち、腰に下げている剣に手をかけた。絶対に殺されないと言い切れるとはいえ、恐ろしいものは恐ろしい。けれどカノンは微動だにせず、彼を睨んでいた。
「カノン様!!」
 三人の騎士が同時に抜刀するが、次の瞬間涼やかな声がその場を駆け抜けた。
「テオっ! 何をしているんだ!!」
「ディナ……」
 全員が一様に声の主の方を見やった。そこに立っていたのはテオドールが主と崇める女性と、そしてルーベだった。ルーベの佇まいこそ普通だったが、カルディナは柳眉をきつく上げ、テオドールに対する怒りを露にしていた。
「客人に対して、何て無礼なことを! それでもディジー・アレンの戦士かっ!」
「ディナ、これには理由が!」
「誰がそんなものを聞いてやるか。シェインディア嬢、申し訳ない。騎士団長殿にも、どう詫びて良いか」
 激昂するカルディナの肩に、そっとルーベが手を置いた。
「カルディナが気に病む必要はないさ。テオドールをそこまで怒らせたカノンにも問題があったはずだ」
 怒りを含まない冷静な声でそう告げられれば、カルディナは困惑する。
「ですが……」
 ここでルーベも彼を叱責すれば、あるいは彼女はテオドールの擁護に回れたかもしれないが。本来怒るべき人間がこうであれば、彼女はこれ以上怒ることも彼を庇うことも出来ない。
「テオドール、悪かったな。憂さも溜まったろ?オレが相手になってやるから、それでちゃらにしてはもらえねぇか?」
「さすがは旦那だ。話せるね。てめぇの女の不始末はてめぇでつけるって?」
 抜いた剣を収めずにそう言って鼻で笑うテオドールを、カノンは再び睨む。彼女ににらまれても、彼ほどの戦士となれば猫や犬に睨まれているようなものだろう。まるで気にしている様子はない。
「シェインディア嬢、我らは部屋に参りましょう。団長殿はああ言って下さいましたが、こちらにも非は勿論ありました。お詫びをさせて下さい」
「いえ、でも」
「ここに我らがいたら、二人とも気にしますし」
「……」
 カルディナの言葉に、カノンはテオドールから離れた。カノンが彼女の元へ歩んできたのを見届けてから、代わりにルーベが彼に近づく。
「カルディナ、カノンを頼んだ」
「はい」
 カルディナが頷くと、カノンを促して屋敷へ入る扉に姿を消していった。二人の気配が完全に消えてから、テオドールは口を開いた。
「なあ。旦那はどうしてあんな女を選んだんだ。外見だって、いいっちゃいいが、アンタにはもっと……」
「御託はいい。来いよ、テオ」
「……上等じゃん」
 テオドールが饒舌に口を開いていたが、予期しなかった眼前の男の言葉に、一瞬目を見開いた。しかし、次の瞬間には不敵な笑みを浮かべていた。
 ゆるりと抜刀したルーベの表情は、先ほどまでのルーベのそれとはまるで違う。先ほどまで囀っていた小鳥たちが異常を感じて飛び去り、木々がざわめき立つ。本能の強い生き物ほど顕著に、ルーベの変化をした雰囲気を察し、次に自分の取らなければならない行動を実行する。
 それは生物の命を消すという、並々ならぬ意志を強く感じられるからなのだろうか。
 一撃目の剣戟が打たれた。先に地面を蹴ったのは他でもないテオドールだった。彼の腕ほどある太い剣を、まるで木の枝を扱うように軽く振るう様は、彼が強い戦士であることの証だった。
 勢いの乗った剣は、ルーベに対して少なからず衝撃を与えた。少なくともこの時、テオドールは思っていた。しかし、耳を劈くような高い金属音が響いた次の瞬間、ルーベの口から紡がれた言葉に、彼は絶句した。
「本気で来ていいぞ、テオ」
 本気で来い、と眼前の男は言う。今の一撃が、まるで本気に取られていない事に、テオドールは帝国一の武人の力量を改めて知った。
 誰もが謳う英雄帝の再来と呼ばれる男の、底が見えない。
 それでもテオドールが戦いを辞さなかったのは、ひとえに彼の誇りゆえだろう。殺さないにしろ、殺されないにしろ、騎士団長の限りなく本気の一撃を紙一重で避け、剣を振るう勇敢な戦士に、三人の騎士たちは一様に己の剣を収めた。
「殺されないだけマシだな」
「カノン様に手を出した時点で彼には死相が見えていたようなものだからね」
「ディジー・アレンは遠い場所ですね。団長の逆鱗が風の噂でも届いていないのですから」
 ジェルドとヴァイエルはフェイルの言葉に浅く笑った。そう、帝国に住まう人間なら誰でも知っているであろう、騎士団長の逆鱗。それを知らないというほうが罪だったのだ、というのは彼らの共通認識だった。
 無知を哀れんでの寛大な処置を、という思いには繋がらない。
「遠いっつーか、閉鎖的なんだろう。団長とお嬢でどれだけそれを解消出来るかだな」
 ヴァイエルが呟いた言葉に、二人とも小さく頷いた。そう、彼らはそのためにこの自由都市まで訪れてきたのだから。


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