8.ゆれる、こころ


  この日は寒の戻りというのだろうか。最近は冬だと言うのに比較的穏やかな気候が続いていたのだが、今日は屋敷より一歩でも外に出ればはく息が凍ってしまうのではないかというほどの寒さだった。
 空が曇り、雨粒を落とせば確実に雪へと変わるだろうというほどの寒さである。そんな日ではあるが、カノンは鍛錬場へと足を運んでいた。まだ早朝とも言える時間である。身体を動かす為、そして頭を冷やす為にここへ訪れていた。
 当然ルーベにはそれを告げてある。朝、神殿に祈りを捧げに行く途中乗せてもらいここまで来たのだ。まだ朝も早い時分に、たった一人で彼女は的の前に立つ。袴姿ではないにしろ、上着は白のシャツ、下は黒のズボン、これで裸足であれば完璧でもあるが、ここでは焦げ茶色のブーツを履いている。
当然この寒さの中薄着すぎる格好なのであるが集中力が高まっている今、カノンはそれほど寒さを感じていなかった。長い亜麻色の髪を高くひとつに結び、真っ直ぐに的を射抜く視線は、この場に騎士がいれば魅入られてしまうほどの強さがあった。
顔は的の正面を向いたまま、脇正面に上半身を向けつつ左足を踏み出し、矢を弓にかけ、両手で矢の水平を保ちつつ、頭の少し上あたりまで上げる。矢の水平と両肩との並行を保ちつつ、 左腕を的方向へ伸ばしながら開き、右腕はかけ、親指が弦に引かれるにまかせて肘を真上に引き上げる。引き切った時でも引き続ける様に両肩・両肘を張り続け、引き分けた状態を数秒保つ。弦がこれ以上引けないほど引き切った次の瞬間、カノンは弦を離した。
勢い良く弓は飛んでいき、的の真ん中よりも少し上に突き刺さった。小気味良い音が朝日を受ける弓場へ響き渡る。
それを見たカノンは息をつく。暖房など当然入ってない場内に白い煙のように息が生まれた。冷たい空気を肺いっぱい吸い込むと、まるで胎内が洗われる心地になる。
 もう何本目を射ったのか記憶に残らないほど弓を射ったことにより、思考が現実に戻ってきていた。
 先日、クラウディオが自由都市ディジー・アレンを狙っているという話をルーベにしたときのことだった。それはすでに彼が知るところであったのは当然であるが、それに軍務長官であるヴィルターが絡んでいることは知らなかったらしい。
 盛大な舌打ち、というよりも、あんなに綺麗に舌打ちを出来る人間をカノンは知りえなかった。そもそも彼は近いうちに自由都市を訪れる予定だったらしく、その予定を早めなければならないことを小さく呟いていた。
 シャーリルに色々手配を頼んでいる為、そう遠くない日に一緒に行こうと言われているカノンはもう一本矢を構えた。
 それはいい。別に構わない。むしろ連れて行ってくれと彼に頼むつもりで居たからである。しかし問題は……。
 カノンは先日といい、過日といい、ルーベの接触の高さを思い出し、真冬の寒い朝だというのに頬が熱くなるのを感じていた。
 ギリっと悲鳴を上げる弦を無視してカノンはさらにそれを引く。抱きしめられること、頬を撫でられること、どれもカノンにとっては刺激が強いものである。手の甲に口を落とされることにようやく慣れてきた所であるが、ルーベのスキンシップには慣れない。
 と、言うよりも最近やたら触れられる機会が多いような気がするのだ。それが自意識過剰だと言われればそれまでなのだが、それでもである。元々カノンの周りには男性があまり居ない環境だったのだ。
 誰とでも友好関係を築こうと努力するカノンにとって、性別はあまり関係ないところであるが、ルーベは違う。彼に抱く感情が、恋というには明確すぎて、憧れというには淡すぎる感情であることを彼女は理解していた。
 的を見据える琥珀色の双眸が一瞬、硬く閉じられる。
 触れてもらえることが、温もりを感じられることが、微笑んでもらえることが、嬉しくて仕方がない。そう思い始めたのはいつからだろうか。彼の優しさは時に、錯覚を起こしそうになる。
 カノンは、いつかは戻ることになる。ルーベが玉座に就いたその時、鍵としての役割を終えて地球に戻り、また高校生としての生活を歩むことになる。その時、己の隣にはルーベは居らず、また彼の隣にも自分はいないのだ。
 いずれは、良家のお嬢様が彼の隣に座る。そして子を成し、一生添い遂げる。自分だって同じであることを彼女は知っている。見知らぬ誰かと結婚して、子どもを生む。それは幸せな未来であるはずなのに、心が躍らない。
 それどころか悲しく思ってしまうのは、いけないことだと彼女は己を叱咤する。思いを完璧に認めてしまうことは辛すぎて、それでもこんな感情がないと否定するには強すぎる。このとき、カノンは弦が悲鳴を上げている音に気づかなかった。
 正確に言えば、気づけなかったのだろうが彼女が弦から指を離す、ぶつっと不穏な音が静寂の世界に響いた。
「えっ……?!」
 限界まで引き絞られた弦が弾かれるように切れた反動は大きく、暴れた弦はカノンの頬を裂き、引き絞っていた左手の皮膚を引き裂いた。地面にしゃがみこむと、ぱたぱたと地面に赤い雫を落とすことになる。
 怪我を負った手と頬が熱を持ったように痛む。思わず眉間に皺を寄せ、カノンはため息をついた。それにあわせるように、白い息が生まれ、宙に溶けるように霧散していくのをみやり、彼女は唇で音を奏でた。
「……何やってるんだろう、私」
 止血をしなければならないが、そんな気にもなれず、切れた頬にそっと手をやればぬるりとした生暖かい感触にさらに眉を顰めることになる。再び息をつけば、白く上がり、やはり止血をしてガーゼでも貼っておかなければとゆるゆるとした思考を巡らせ、緩慢な動きで立ち上がると、室内へと通じる扉が開いた。
「……」
「……」
 扉が開くなどと思わなかったカノンと、まさか誰かがいるとは思わなかった扉を開けた主は同時に硬直する。遠くから囀る小鳥の声が、いやにむなしく二人の間に響きわたってさらに立った頃、ようやく双方は口を開いたのだった。

「申し訳ありません、カズマ様。お手を煩わせてしまって」
「いや……。大丈夫か? 傷はそこまで深くないけど……」
「大丈夫です、これぐらい」
「弦が切れたか。そうとう使い込んでるんだな。……運が悪かったな」
「そうですね……」
 カノンと遭遇したのは、第一位階の騎士であるカズマだった。手際よく手当てをする様はさすがとしかいいようがない。
 彼は、遡れば現王朝よりも二つ前の王朝に現れた『鍵』の血を引く者である。ヒューガ家は古くからライザード家に使える名門であるにも関わらず、その若様に傷の手当てをさせた心苦しさと、以前言われた言葉にカノンは申し訳なさそうに椅子に座っていた。
「あ――、でもまぁ、隊長が来たら治してくれるだろ。顔に傷何て残らないから、安心してろよ」
「あ、いえ。顔に傷が残ることを心配しているわけではなくて……」
 カノンがぱっと顔を上げると、彼の空色の双眸と彼女の琥珀色の双眸が交わり、お互い次の言葉を捜して硬直してしまい、最終的にどちらも耐え切れず視線を逸らしてしまった。
 この作業を既に何度も繰り返していると言うのにもかかわらず。どうもぎこちなくなってしまうことを、彼女は申し訳なく思っていた。以前、ヴィルチェたちの、娼婦たちの気持ちも考えろと言われて以来、無意識に彼を避けていたカノンは、どうしようかと思案する。自分の思い込みは杞憂だった、と言えばいいというわけでもない。
 彼女が悩んでいると、先に口を開いたのはカズマだった。焦げ茶色の髪をがしがしと乱暴に引っかきながら彼は言った。
「なあ」
「はい!」
「そんなに緊張しなくても……って、無理か。オレ、酷いこと言ったもんな」
 意外な言葉にカノンは目を丸くした。カズマは消毒液を片しながら、彼女に背を向けた状態になり言葉を続けた。
「その……悪かった。謝る」
「え? カズマ様?」
 居心地の悪そうな雰囲気でいるカズマに思わず声を掛けたカノンだったが、振り返られると言葉に詰まる。そんな姿をみた彼はうめき声のような声を発して、小さな椅子を引いてきて、彼女と少し距離をとったところに腰をかけた。
「だから、この間同僚とペディグレインに行ったわけだ。それで……アンタの話になったんだ」
「私の?」
「こんな所で出入りして、娼婦たちの気持ちを考えてるのかって酒に酔った勢いで言っちまったんだ」
 その言葉に、カノンは悲しそうに柳眉を顰めた。確かに、彼の言っていることは正しい。だがそれはこちらにも言い分がある。
「あの、カズマ様!」
「待て、オレに先に話をさせてくれ」
 片手を挙げて待て、といわれたら待つしかない。彼女は彼の言葉を待った。
「……で、その言葉を聴かれたオレはそのあと散々だったんだ」
 にわかに青ざめた彼はあの時のことを走馬灯のように思い出していた。その言葉を口にしたとき、ペディグレイン全体の気温が物理的に五度は下がっていたように感じた。そしてさらに彼らの体感温度は十度下がったようだった。
 酒を注ぎにきた女が貼り付けた満面の笑みを浮かべて隣に座り、何の話? と聞いてきた。その笑みがあまりにも凶悪すぎて一瞬口を開くことが出来なかったカズマの代わりに、同僚の男が事情を説明した。
 ……それが運の尽きだった。それ以降、カノンの弁護に回った騎士たちと、カズマに対する女たちの態度がまるで違ったのである。慇懃無礼以外の何者でもない接客態度に、彼のほうが腹を立ててしかるべきだった。しかし、女も集まれば怖いもので、彼は何もいえず仲間も哀れな友に救いの手を差し伸べることが出来なかったのだ。
 挙句、店を出るときに一発平手を食らったのだ。小気味良い音で食らった一撃は、完全に不意をつかれたもので、思わずカズマもよろめいた。殴ってきたのは、年端もゆかない少女だった。薄く淹れた紅茶色の髪を、高い位置で左右赤いリボンで結んでいる少女は、紫の瞳いっぱいに涙を溜めて怒鳴ってきた。
「アンタが変なこと言うから、カノンがうちに来なくなったんだ!! 私たちは友達なのにっ!! アンタたちなんかにとやかく言われる筋合いなんてないっ!! アンタ、カノンがどれだけ優しい子か知ってんの?! 私たちに同情? ふっざけんじゃないわよっ!!」
「ヴィルチェ、落ち着いて! 相手はヒューガ家の……」
「知らない、そんなことっ!! 私の友達を見くびるのもいい加減にしなさいよ! 結局アンタが一番失礼よ!!」
 ヴィルチェ、と呼ばれた少女は最終的に桶の水をカズマにぶちまけた。何が起こったのかわからないカズマはただ寒空のした呆然としているしかなかった。
「ヴィルチェ!! アンタ、自分がしたことを分かってるのかい!!」
 直後、雷鳴のような怒声が響いてきて、先ほどまで咆えていた少女と、その少女を止めていた子たちが身を竦ませた。出てきたのは恰幅のいい女性で、この館の主であるリリア・ルイスだった。店主はヴィルチェの頭を押さえ込み、同時に頭を下げる。
「申し訳ありません、ヒューガ様! せっかく足を運んでくださいましたのに、このような失態を曝してしまいまして何とお詫びをしてよいやら……」
「い、いや、あの……」
「貴族様にとんだご無礼を! 極刑だけは、どうか御慈悲を……っ」
「極刑?! いや、そんな大げさな」
 髪から滴る水滴を拭いながらカズマは言う。
「……オレも、だいぶ失礼なことを言ったからな。これでむしろお相子みたいなもので……」
 カズマがそういうと、リリアが勢いよく顔を上げた。その表情はきらめくばかりに笑顔だった。
「流石、名門ヒューガ家の旦那様! お心が広くいらっしゃる!! ほら、ヴィルチェ。頭をもう一度下げるんだよ! 旦那が許してくださるんだから!!」
 不承不承と言った雰囲気で頭を下げた少女は、虫の音よりも小さな声で謝罪の言葉を述べていた。
「ありがとうございます。ありがとうございます。流石第一位階の騎士様ともなるとお心が広いですね! 本日は足を運んでくださってまことにありがとうございました、これにこりずご贔屓にしてやってくださいまし! それでは、またのご来店をお待ちしております!」
 早継ぎに彼女がそういうと、扉が大きな音を立てて閉められた。暖気を逃さない為である、などという言い訳は通じそうもないほど、それはあからさまな拒絶だった。カズマと以下数名は絶句と言った面持ちで、扉を見つめていた。
 寒空の下、びしょ濡れのカズマを放置するとは正気の沙汰ではない、と同僚たちは思ったのだが、それ以上に感じたことは、リリアが本気で怒っているということだった。
「ま、まあ、そういう日もあるさ!」
 濡れたカズマに、彼らは自分たちの外套を貸してやった。寒風が吹き荒れる中、寒さに凍えながら彼は家路についたのである。

 どこか遠い所を見つめるカズマを、カノンは心配そうに見つめていた。正直なところ、大丈夫だろうか、色々と、といった心境である。その視線に気づいたカズマは大きく咳払いを二度した。
「友達、なんだろう? それなのに無神経なこと言って、悪かったな」
「……そんな」
「一拍間があったってことは、気にしてたんだろう?」
「あっ……」
 カノンは口元を手で覆い、しまったという表情をする。それを見ていた彼は苦笑するしかない。
「オレが余計な口を挟むものじゃなかった。反省してる。悪かった。許して欲しい」
 そう言って頭を下げるカズマに、慌ててカノンが首を振る。
「許して欲しいだなんて、そんな。私、気にしてませんから、頭を上げてくださいカズマ様!!」
「いやでもオレの気が済まないから……」
「でも!!」
 カノンはあまりの居たたまれなさに席から立ち上がり、カズマの元へ跪いた。
「本当に、もうお気になさらないでください」
 頭を下げている彼の顔を覗き込むようにそう言ったカノンに、カズマは苦笑を深める。彼が何か言葉を口にしようとした、ちょうどその時、医務室の扉が開いた。
「カノン?」
 声が外に漏れていたのだろう、扉を叩きもせずにルーベが入ってきたのだ。医務室から彼女の声が聞こえてくれば当然の反応だろう。だが、如何せん頃合が悪かった。
 この後すぐに、カノンの傷を治したルーベは、戻ってくるのが遅いと様子を見に来たシャーリルに止められるまでカズマを締め上げていたのだった。さらに、カズマが無罪放免となるまで半日という彼にとっては地獄のような時間を過ごす羽目になったのである。


BACKMENUNEXT

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送