7.昼下がりの珍事


 どうしてこんな状況に陥ってしまったのかカノンは不思議でならなかった。眼前に広げられた瑞々しい果実たちと甘い香りを発するお菓子の山は、女の子が胸をときめかせるには十分な効果をあげるものだと彼女は思う。
「シェインディア嬢はライアロスはお嫌いですか?」
「いえ、あの。お構いなく」
「勝手に私がしていることです。気になさらないで下さい。それで?」
「……大丈夫です」
「それは良かった。私はこの茶が好きなんですよ」
「はあ」
 笑顔でお茶を淹れるのは、紛れもなくこの国の軍務省の長官を担っている男である。氷嚢のようなもので頬を冷やしているカノンに、「身体が冷えてしまう」といって、お茶を用意し始めた彼。ルーベとも読めない男だ、と近づかないほうがよい、と言っていたのにどうしてこのような状況になっているか彼女自身小首を傾げたい気分である。
 否、理由は簡単なのだ。殴られ赤くなった頬をどうにかしなければルーベに顔をあわせられないと判断したからに他ならない。それにしても、だ。
 眼前に広げられている午後のお茶の名に相応しいもてなしの数々はどうやっても説明することは出来ない。
 そういえば、ライアロスの茶葉は貴重で滅多に手に入らないと、ミリアディアから聞いたことがあると思い返しているころ、彼女の前に陶器が置かれた。柔らかな湯気と芳香を立てるオレンジを連想させる明るい橙色の水色の水面が揺れる。
 硝子で作られ、繊細な彫り物がされている机はどうみても実用的ではないが、人の視覚を楽しませるには十分な効果があった。赤茶の窓枠から入ってくる光がそれを照らすと、硝子が反射し天井に光の模様を映し出す。
 緋色の皮が張られた長椅子には、白いクッションのようなものがあり、それを背に引いているためかすわり心地が良い長椅子の快適さが増していた。長官部屋ともなると、家具ひとつとっても最高級らしい。当然といえば当然なのだがカノンは感嘆の息をついた。
「さあ、冷めないうちにどうぞ」
「……」
「毒なんて邪なものは入ってませんよ。混ざりっ気なしのライアロスの茶ですから、どうぞご賞味ください」
 そうまで言われれば飲まないわけにも行かない。隙のない爽やかな笑みを浮かべる男に反論する糸口さえ見出せず、カノンは氷嚢を机の上に置き、陶器を手に取った。
「頂きます」
 カランと氷の揺れる音が室内に響いた。
 頬の手当て、と言われた時、治癒の力を使われるとカノンは考えていた。そうすれば、魔力を無効化してしまう自分はとてもまずい、と考えが至った頃にはもう室内に足を踏み入れた後だった。
 手当てをする、と言われた時いやな汗が彼女の背中を伝った。彼は知っているかもしれないし、知らないかもしれない。だが、自分が異世界からやってきた『鍵』であることをルーベに許可なく、しかも彼と折り合いの悪い人物に話してはいけないと彼女は思っていた。
 心臓が早鐘のように打つ。そっと指先で頬を撫でられた時カノンは身を強張らせた。しかし彼は優しげな笑みさえ浮かべて言った。
「少し熱を持っていますね。幸い血は出ていませんから、冷やしましょう」
 そして冷やしている間に身体が冷える、というので急遽お茶会紛いのものが始まってしまったのだが。
「お味はいかがですか?」
「美味しいです」
「それは何よりです。よろしければ机の上の物も召し上がってください」
「……ありがとうございます」
 そういいながらも、緊張で味がまともに分からない物を食すのもなかなか難儀だ。
 対面に座る男も、茶と茶請けに舌鼓を打っている。用意した人物の嗜好が現れるとはいえ満足そうな笑みを浮かべる男と楽しく茶を飲めるわけがない。
 騎士団長と軍務長官は歴代仲が悪い、と騎士たちの間で聞いた言葉を忘れたわけでもない。この状況がルーベに分かってしまったら……、と思うと一刻も早くこの場から立ち去りたいというのが彼女の本音である。
「先ほどは部下が失礼致しました」
「いえ、私も無礼なことを多く申し上げました」
「シェインディア家のお嬢様が国政の為に弁をふるったのに、それを嫉妬交じりに罵倒した連中が悪いです」
 はあ、と生返事を返しつつカノンは茶で喉を潤す。ともすればカラカラに乾いてしまいそうな喉である。
「そういえば……、シェインディア嬢はご存知ですか?」
「え?」
「貴女のそう遠くない未来に甥になれる方、次代の皇帝となるお方がディジー・アレンを欲しているのを」
「ディオ様が?!」
 唐突に切り出された話題に、カノンは表情を取り繕うことも出来ずに声を荒げた。その様子をみているヴィルターは紫水晶の双眸を細める。
「……すいません。取り乱しました」
「いえ、私も驚いたのですよ。あの方がディジー・アレンを落とす必要があると私の元へ参られたときは」
 確かに、彼の口からそのような言葉が出れば驚いてしまうのも無理は無いだろう。悪戯にひとつの地域を落とそうなどと口にするほど彼も愚かではないはずだ。そうなると、誰かの差し金であるかを考えなければならない。
 それ以上に、彼が本当に自分の名の下に兵をあげる危険性を考えなければならない。
「……それで、クロイツェル卿はどうお答えしたのですか?」
 カノンの問いに彼は浅く笑って答えた。
「早急に結論を出せる問題ではありませんが、軍務省長官として検討させていただきます、と。」
「ディオ様はそれで納得を?」
「されたとお思いになられますか?」
 カノンは思わず眉間に皺を寄せた。確かに、早急に出せる答えではないにしろ、彼は否定をしていない。それどころか、彼の言った『検討』には含みさえ感じられる。彼女はヴィルターを睨みそうになるのを必死に自制し、言葉を唇に乗せる。
「もし、ディオ様が兵をお望みになられたら?」
「兵は基本的には騎士団の管轄になっています。ですが、クラウディオ様自身に忠誠を誓っている者たちまで御せません。人の心というものは、そういうものでしょう?」
 流れるような動作で茶を口に含むヴィルターはまるで一枚の絵画のようだった。幻想的な雰囲気を醸し出す男はさらりと言葉を紡いでいく。クラウディオは現在皇位継承権第一位を持っている。それ故か、は定かではないのだが彼の我侭といえる暴挙について来る人間もいるだろう。
 それを抑える為に軍務に携わる物がいるのではないかと、喉元まででかかった言葉を彼女は飲み込む。
「そのお話をいつ、お聞きに?」
「つい先日に」
 彼の言う先日はどれほど先日なのかはわからないが、それでもこれはルーベに伝えなければならないと彼女は思った。自分の考えと共に伝えなければならないものだと判断したカノンは勢いよく席を立った。
「すいません。お茶、ご馳走様でした。そろそろお暇致します」
 心臓の音がうるさく、背筋には冷たい汗が流れる。手がわずかに震えているのを拳を握ることでごまかそうとしながら、彼女が踵を返す。しかし、移動しようとした瞬間、手をヴィルターに掴まれた。
 まさか止められるとは思っていなかったカノンは目を見開く。そして、彼の手を払おうと身を捩る。
「クロイツェル卿……、手を、お放しください」
「できない、と言ったら貴女はどうしますか?」
「……っ」
 大声を上げたところで無駄だということはわかっていた。しかし声を出そうにも言い知れぬ恐怖でそれもままならない。硬く握られた手が痛く、痛みかたら悔しさからか判然と出来ないまま彼女は表情をゆがめた。
 彼の珍しい白銀の髪が光を浴びて輝き、紫水晶の双眸が妖しく光る。今までに無いほどの恐怖を感じ、彼女は肌に鳥肌を立てる。嫌悪というよりも、それは間違いなく恐怖から。
「今まで貴女の質問に答えました。私も貴女に聞きたいことがあるのです」
「何、を?」
 喉と唇の乾きを感じながら、掠れるような声でカノンは問う。
「貴女は……」
 低すぎない声が継げる言葉の先が恐ろしく、思わず彼女は顔を伏し、目を瞑ってしまった。琥珀色の双眸に、彼の姿を映すことなど出来るはずも無いと言わんばかりに。握られた手に力が入る。ヴィルターの手にも、カノンの手にもだ。彼女が息を飲んだそのとき、ヴィルターの部屋の扉を乱暴に叩く音が室内に響いた。
 それは一度ではなく、二度、三度と続いた。そしてそれが四度目と差し掛かったとき、扉がこれ以上叩かれれば壊れると主張するような何ともいえない不穏な音を立てた。
「ルーベ・フィルディロット・ライザードだ。クロイツェル卿、いるんだろう? 開けてくれ」
「ルーベ様!」
 彼の声に安堵したかのように、カノンは顔を上げた。その表情は晴れやかなもので、先ほどのように脅え震えていたものではない。一向に掴んだ手を離す気配がなかったヴィルターだが、五度目に扉が叩かれたとき、とうとう彼女から手を離した。
「部屋の扉を壊されては困ります。……どうぞ、お入りください」
 その声と同時に開かれた扉から、まず飛び込んできたのは銀色の物体だった。真っ直ぐにカノンに向かって飛びついてきたのは、彼女の愛狼である。その衝撃に少しよろけるも、飛びついてきたのがすぐにリュミエールだと分かるとカノンは驚いたように彼を見つめる。
「リュミィ! どうして?!」
「こいつ、お前に付いてきてたみたいだな。オレにここを教えてくれたのもこいつだ」
 狼に送れて入室してきたルーベが少しだけ呆れた顔でカノンの腕に抱かれる狼を顎で指した。
「リュミィ……」
 カノンは彼が苦しくない程度に愛狼を抱きしめた。それに応えるようにリュミエールは尻尾を振り、彼女の頬を舐めた。腕の中に感じるぬくもりと、耳に聞こえる心地よいルーベの声に先ほどまでの恐怖は既に消え去っていた。
「クロイツェル」
「何ですか?」
 そんなカノンを見て小さく息をついたルーベは本題のヴィルターを見据えた。黒紅色双眸から放たれる視線は、見つめられた物の心臓を刺激するには十分すぎるほどの効果があるだろう。だが、彼は浅い笑みを浮かべる程度だった。
 ルーベの前であるにもかかわらず、悠然と長椅子に座ったままである。
「人の婚約者を連れ込むとは、どういうことだ?」
「別に何も? ただ談笑をしていただけですよ。ねえ、シェインディア嬢?」
「え!? あ、その……」
 咄嗟に話を振られて言葉に詰まるカノンは、今ここで話すべきことではない為、取り繕う言葉を捜すことに必死だった。余裕の笑みを浮かべるヴィルターと、冷や汗さえ浮かべるカノンを見て、ルーベはわざとらしくため息をついてみせる。
「まあいい。悪かったな」
「いえ、美しい人と夢のような一時を過ごせました。礼を言うのはこちらのほうです」
 一瞬二人の視線が交錯し、火花が散ったような錯覚に陥るが、それ以上の会話はなかった。
「……カノン、戻るぞ」
「はい」
 ルーベが踵を返すと、緋色の外套が翻る。鮮やかな緋色を視界に捉えると無条件で安堵する自分を現金に思いながら、カノンはリュミエールを抱えたままついていく。
「ごきげんよう、シェインディア嬢。またゆっくりと、邪魔が入らないように話しましょう」
「……ごきげんよう、クロイツェル卿」
 彼の言葉には答えず、ひと言礼儀と思い彼を見えやって言葉を口にした。ひらひらと蝶のように手を振るヴィルターは最後まで隙ひとつない笑みを浮かべたままだった。

「ルーベ様! 申し訳ありません、軽率なまねをしてしまって」
「……いや」
 廊下を歩いている最中、カノンは彼に謝った。事情が事情とはいえ、考えれば考えるほど自分の行動が軽率以外の何者でもないことがわかってくる。何も言わずただ前を歩くルーベに言葉をかける彼女の声には焦りと申し訳なさが滲み出ていた。
「あ、怒ってるわけじゃ、ないんだ」
 その声を聞いたルーベは立ち止まって彼女を見ていった。
「嘘……」
 しかし、カノンはぼそりと呟いた言葉に彼は苦笑する。
「あー……まあな、怒ってないっつたら嘘だけどな」
「申し訳ありません」
「いや、いいんだ。カノンが無事ならそれで」
 彼はそっとカノンの頬に触れた。それも、殴られたほうの頬である。散々氷で冷やした効果があったのか、触れられても彼にはきづかれてないことを心のなかで彼女は安堵した。皮膚の上を滑らせるように撫でるルーベの手がくすぐったく、彼女は思わず目を細め、首をすくめた。
「よく、私がここに来ていることが分かりましたね」
「嫌な予感が、コイツで確信に変わったんだ」
「リュミィが?」
 腕に抱かれて大人しくいているリュミエールへと視線を向けると、彼は申し訳なさそうな顔をしていた。
「一部始終を見てたのかもな。オレの部屋まで来て咆えて、ここまで案内した。主人思いのいい狼だ」
 ルーベがでカノンの頬であそんでいた手をリュミエールまで下ろし、頭を撫でる。いつもならば反抗して噛み付かん勢いで牙を剥く彼であるが、今日は彼にされるがままに撫でられている。
「それで?」
「え?」
 柔らかな視線でリュミエールを見ていたルーベの声が途端に硬質化し、カノンの声が強張る。怒気ははらんでいる物の、その声は間違いなくカノンの身を案じているものだった。居たたまれずに思わず黙っていると、彼はそんな様子に構わず言葉を続ける。
「何かされたか? あいつに」
「いえ、何も! 本当に」
 カノンは必死に言葉を紡ぐが、生真面目な彼女がそう否定しても、それを隠しているように感じられるのはなぜだろうか。ルーベはリュミエールを撫でていた手を下ろした。そして憂いさえも帯びているような瞳でカノンを見つめる。
「だから、お前をここに連れて着たくなかったんだ」
「ル、ルーベ様?」
 片手をカノンの頭に回し、自分の肩口に彼女を押し付けるように抱き寄せられ、彼女は当惑の声を上げた。間近で感じる彼の鼓動と体温に、自分の心臓が再び早まるのを感じた。しかしそれは恐怖からでも、緊張からでもない。
 心地よささえ感じる温もりではあったが、突然、しかも誰かが通るとも分からない場所で抱き寄せられ思わずカノンは固まってしまう。そんなこともお構いなしにルーベは彼女の耳に唇を寄せ囁くように言った。
「怖かっただろ?」
 その声色は懺悔だった。大きな手が彼女の髪を梳くように撫でた。その感覚が気持ちよく、思わず目を瞑ってしまいそうになるが、彼の言葉を彼女は慌てて否定した。
「それは……。でも、私は剣を握れません。魔力も使うことが出来ません。ルーベ様のお役に立てるとしたらそれは舌戦だけです」
 その舌戦ですら役に立っているとは言いがたい。そう、所詮自分はお荷物に過ぎないことを彼女は心得ていた。それがとても悔しいということも、その胸に秘めながら。
「私は、私に出来ることをしようと思います。貴方の役に立てることなら、何でも」
 控えめに、ルーベの服の裾を握り告げる彼女の声は確かに決意を孕んでいた。これはカノンの心の底からの願いであり、実行していくべきことである。
「カノン」
 思わず彼女の名を呼ぶルーベだったが、続けて紡げる言葉がなかった。そんな彼の方を見上げてカノンは言う。
「ルーベ様にご報告しなければいけないことがあります」
 琥珀色の双眸には、先ほどまでの少女の淡い輝きがなく、その眼光の鋭さは、一武人のそれとなにも変わらない光を放っていた。


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