4.言い知れぬ罪悪感


「こんにちは!」
「いらっしゃい、カノンちゃん!」
「お帰りカノン〜っ!!」
 裏口の扉を開けると、煌びやかな少女たちがカノンを出迎える。突進される勢いで数人の少女に囲まれ、彼女はただ笑みを浮かべる。淡い桃色の簡素なドレスを身にまとい、真っ白な上着を身につけているカノンの服装を、まず彼女たちは見つめる。
 そのあと、真っ直ぐに下ろされている亜麻色の髪に触れ、思い思いの髪型にしてカノンで遊ぶ。それが、まず彼女がここ、花街でも最も有名な老舗である『ペティグレイン』へ足を運んだときの仕事だった。
 彼女がここに来るのは勿論、少女たちを買うためではない。
「カノン〜っ!!」
「ヴィルチェ!!」
 幾人かの少女に囲まれ、一頻り遊ばれていたカノンであったが、一際目立つ鈴のような声に反応すると、瞬時に身体をそちらに向け飛びこんでくる少女を受け止める。カノンよりも一歳年下の可愛い少女が頬を摺り寄せてくるのをいとおしげに見つけた。
 彼女は、この世界で最初に彼女と対等の友人関係を結んでくれた少女であり、リファーレに誘拐された時にいち早くルーベに事態を伝えてくれた功労者である。カノンは彼女の柔らかな薄く入れられた紅茶の色をした長い髪を梳いた。
「もう今年は来てくれないのかと思ったよ!」
「あんまり頻繁に出入りするもの気が引けて……」
「何水臭いこと言ってるんだよ!! 友達が自分の家に訪ねてくるのを拒む奴なんているもんか!」
「でも、ここは商売屋じゃない」
 カノンはヴィルチェを抱きしめながら困ったように笑う。そう、ここは彼女が堂々と門から入ってこれる場所じゃない。ここはあくまでも花街の一角を担う娼館。表の世界には決してない様々なことが入り乱れている世界なのである。貴族という社会にいるカノンにとっては全く縁がないといっても過言ではない場所だった。
「そんなこと気にしなくていいんだよ。来た時は、カノンだってこの店を手伝ってくれてるんだし。むしろ体のいい日雇い扱いをしてるんだ。いつか私は王弟殿下に極刑にされてもおかしくないね」
「リリア姐さん! お邪魔してます」
 少女たちの向こうから、店内中に響き渡るような大きく澄んだ声が聞こえカノンはすぐに挨拶をする。この娼館の店主であるリリア・ルイスである。くすんだ癖のある金色の髪を綺麗な布で一本に結ったふくよかな、妙齢を少し過ぎたぐらいの年齢に見える女性は相変わらず年齢を感じさせない働きをしているようだった。
 少女たちより頭半個分背の高い彼女なので、彼女の綺麗な空色の双眸が細まったのでカノンも微笑み返す。
 ……ルーベは二度とカノンを外に一人で外出をさせるつもりはなかった。しかし、カノンが屋敷に戻ってきた時、屋敷に残していたヴィルチェと再会を心の底から喜んでいた姿が彼は忘れられなかった。『友人』の大切さは、彼は誰よりも知っている。だからこそ、彼女と友人の接点を取り上げることが出来なかった。いっそ屋敷に身請けをするかと言う話まで出たが、それはヴィルチェ自身からはっきりと断りを入れられてしまっているのである。
 かくして、カノンの無言の熱意に負けたルーベは月に数度、護衛をつけて彼女を娼館へ行くことを許可したのである。


 まだ外は日が明るいと言うのにもかかわらず、店内にはすでに何人かの客がいた。しかし、まだ目が回るほど忙しいというわけではなかった。最も、カノンは一番館が華やぐ時には既に帰宅の途についているのでなんともいえないが。
「最近どう? 何か変わったことはあった?」
「特にないかな。この国の言葉とか勉強して本を読んで、ちょっとだけ弓とか乗馬とか習ったりしてる感じ」
 賄場の奥で野菜の皮をむいたり、下ごしらえをヴィルチェと二人並んで作業しながら、お喋りに花を咲かす。口を動かしながら手を動かして怪我をする、とリリルは最初こそ怒ったものだが、ヴィルチェはここでの下働きが長いため、そんな失敗はしない。カノンとて、元の世界ではほぼ一人暮らしの生活をしていたため、こういう作業は慣れている。故に、昂然とおしゃべりをしながら彼女たちは作業に精を出すことが出来るのだ。
「弓や乗馬なんてお嬢様がやることじゃないのにねー」
「でも、それぐらい出来なきゃ。ただでさえ足手まといなんだから」
「お嬢様は足手まといでいいと思うよ? 王子様が助けてくれるのまってればいいんだから!」
 絵物語の読みすぎだ、と言うことも出来ずにカノンは苦笑した。それの表情は、こんな環境下であるから仕方がないかもしれないがいつものどこか背伸びした顔ではないように彼女は思えた。恋に恋をしているといっても過言ではない年齢の少女特有の表情を浮かべているようにカノンは見えていた。
 ……どこか宙を見ていたヴィルチェの紫色の瞳が現実に戻ってきて、カノンを見つめた。
「でも、結構カノン顔つき良くなったよね?」
「そう?」
「うん、何か生き生きしてるっていうか。オドオドしてないっていうか」
「酷い言われよう」
「だって、初めて会ったときよりもいい顔してるんだもん。」
 芋の最後の一個をむいて、籠に放り込むとカノンとヴィルチェは一籠ずつ持ち上げて調理台へもって行く。
「籠持ってもよろけなくなったし」
「そりゃね。鍛えてますから」
 そういうと、二人は顔を見合わせてクスクス笑った。にわかにざわめいてきた店内をちらりと見ると、不機嫌そうに呑んでいる一人の男性が目に入り、笑っていたカノンの表情が僅かに翳る。
「ん? ああ、ヒューガ様ね。いつもああして一人で御飲みになってて……。これだったらメイク様やアース様のほうがよっぽど時間を満喫してらっしゃるわよ」
 ヴィルチェは半ば嘲笑うように言い捨てる。そう、カノンがここに来るために、ルーベはわざわざ手隙の第一位階の騎士をつけると言う念の入れようなのである。これには、彼の腹心であるシャーリルも呆れていたのだが彼女の外出時には、第二位階の騎士ではなく第一位階の騎士が同伴しているのである。
 娼館なだけあって、女遊びでもしてカノンを待つということが充分に出来る。特に、この『ペディグレイン』は花街きっての娼館。質は極上と言っても過言ではない。ジェルドやフェイルがカノンの共で来る時は、ある意味この時間を満喫しているのであるが、唯一カズマだけは異なった。
 リリルよりも深い空色の瞳は苦々しげな光を放っている。紫色の外套はそれだけで目立ち、騎士も御用達であるこの娼館ではさらに妙な威圧感を発揮していた。そんなものに負けない熟練の娼婦たちは、一夜の夢と彼に近寄って行くが彼は片っ端から彼女たちを断っていく。
 この館は料理も上手いと絶賛されているので、純粋に美女に酌をしてもらい舌鼓を打つ客もいるのだが、彼の場合一人で呑んで、一人で食べている。男として欠陥があるため相手をしないのではなく、ただ単にこういう状況で女と戯れるのは好かない、という話だった。
 恐らくカノンがいなければ、こういう場所でも何の気兼ねもなく楽しめるだろうにと少し申し訳なく思ってしまう。
「カノンがそんな顔する必要ないってば。さー次は野菜盛ろう!」
「……うん!」


 日が沈みきって、空の色はわずかに太陽の余韻を残しているものの、支配権を光から闇に移したのでまだ完全に止み色に染まっていない物の、光が消えきるのも時間の問題である。数時間、この世界から空からの光は星と月のみになる。
「じゃあそろそろ帰ります」
「うん、お疲れ様!」
 ヴィルチェと両手を繋いでブンブンと上下に振り別れを惜しむ。
「帰るのかい?」
「はい。お邪魔しました!」
「お邪魔しましたってのは他人行儀だって言ってるのに。何遍注意したら分かるんだい」
 奥から出てきたリリルにも帰りを告げると、クスリと笑った彼女がカノンの額をピンっと弾く。三人は大きく笑った。
「今日の分を払わないとね」
 そういってリリルはカノンの手の平にシード銀貨とセライン銀貨を一枚ずつ乗せる。それに、彼女は少し困ったような表情を浮かべた。シード銀かもセライン銀かも決して安い額ではない。日雇い料にはいささか大きすぎる額に、数度カノンもリリルに抗議をしてみせたのだが、ふくよかな体格をした女店主はそんなささやかな訴えを笑い飛ばした。
「娼館は相応のお代を貰ってるんだ。どれをとって極上の一品。その店を裏で支える人間だってそれ相応の額を払うってことだ。大人しく受け取りな。花街一の娼館の店主に恥をかかせたいなら話は別だがね」
 そんなことを言われてしまえばカノンは当然断れない。
「ありがとうございます」
 カノンは素直に礼を口にする。
 彼女はそれ以来行くたびに店の裏方を手伝い、そのたびに手間賃を貰っていたのだった。貰っても殆どお金を使うことのないカノンは少しずつその金を溜めていて、大した物は買えなくともいつかこれでルーベに何かを買おうと心に秘めていた。
 リリルとヴィルチェと抱擁を交わしてから、従業員用の裏の扉からカノンは出て行く。外の空気は冬独特の冷たく凛としたもので、それを肺一杯吸い込んでから、彼女は馬車に駆け寄った。

「お待たせしました」
 馬車の扉を開けると、既に中にいたカズマが彼女に無言で手を差し出す。それに掴まるように馬車に彼女が乗ると、彼は当然のように扉を閉める。そして、御者に車を出すように指示を出す。
 ほどなく、雪に覆われた石畳の道を馬車が動き出し、ガタガタとそれに合わせて二人も揺れる。箱の中で二人の会話は特にない。窓の枠に肘をついて、カズマはどこか不機嫌そうに外の風景を見つめている。
 ジェルドにしても、フェイルにしても、行き来中ずっとカノンに話しかけてくれていた。それはこの世界の事であったり、騎士団の裏事情だったり。その時間は彼女にとっても貴重な物で、楽しい時間を過ごさせてもらっている。しかし、カズマとはそれがない。
 そもそも寡黙な方なのかもしれないと思い、そうであるならば話しかけるのも失礼かもしれないと色々悶々と彼女も思考をめぐらしているため、結果彼らに会話が生まれなくなってしまっているのだ。
 しかし、今日はいくばくか事情が異なっていた。外に向いていたはずの夏の空をはめ込んだような深い空色の瞳がカノンを捉えていた。
「あの、さ」
「はい!」
 突然話しかけられた事で、カノンの肩も跳ねる。彼女の反応に驚いてしまったため、カズマは言葉をすぐに続けることが出来なかった。僅かな沈黙、のちに再び彼が口を開いた。
「……アンタ、いや、貴女は、どう思っていらっしゃるのか一度お聞きしたかったんだが……」
 彼自身、どこか言葉を捜すようにゆっくりと音を紡いでいた。質問の意図が読めず、カノンは内心小首を傾げる。カズマの眼光が、カノンの琥珀色の双眸を貫く。
「何を、ですか?」
 カズマは一瞬躊躇うように口を動かしてから、言葉を音にして彼女に問うた。
「貴女みたいに恵まれた環境に置かれている人がああいう娼館に足を踏み入れることに対して、どう思うかということを率直にお聞きしたい」
 カノンは彼の言葉の真意を察して、瞬間身体から血の気が引いた。彼女が今まで気にしないふりをしていた事実を彼は今、突きつけたのだ。
 確かに、娼館というのは元々身売りをされたり、職につけない女たちが最後に行き着く場所である。華やいでいる世界である反面、自ら望んでその職についている人間は少ない。出来ることなら花を売る仕事になどつきたくないという本音を隠しながら、仕事をしている少女たちの中に、全てを持っているカノンがいる。
 それは、社会を必死に生きていこうとしている彼女たちにとってあまりにも無真剣な仕打ちではないのかと彼は言っているのだ。それは、薄々カノンもわかっていたのだが、彼女たちがあまりにも優しく、あの場所があまりにも居心地が良く。
 はっきりと意識せずに、いつも頭の片隅に追いやっていた事実だった。カズマの視線は容赦なくカノンを追い詰める。
「……オレが言えることじゃないですがね」
 沈黙したまま何も言わないカノンに対して、カズマはため息混じりに言葉を紡ぐ。
 娼館に立ち入らない、ということは必然的に娼館に住まう人々と接触が絶たれると言うことになる。カノンを唯一対等の人間として扱ってくれる彼女にとって大切な場所なのである。
 それでも、彼女たちを少しでも傷つけていたのだろうか。不快な思いをさせていたのだろうかと思うとカノンは居た堪れない。
 少しは自重したらどうだ、と言外に彼は言っているように彼女が聞こえ、カノンは瞳を伏した。彼の言い分があまりにももっともすぎで、反論の言葉さえ出てこなかった。カノンはこの時、言い知れない罪悪感に襲われていて、まともに思考回路が働かずにただただカズマの言葉を脳裏で反芻させていた。


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